55.1945年(春和元年)11月 イスタンブール④
「あ、陛下も澤城さんも綾小路さんもここにいたんですか?」
カメリア・パレスの一階職員用食堂に、秋月傳三郎が顔を出したのは、皆が食事を終えた頃だった。
少し息を切らして、珍しく真剣な顔をしている秋月は、食事を取りに来たわけではなかった。
「牧原侍従長が、取り急ぎの話があると。後、オレ、いえ私からもご報告申し上げたい儀がございますので、四階の事務室にお越しいただきたく存じます」
睦子とマコト、綾小路は顔を見合わせる。
「お上も?」
そして、綾小路が眉をひそめる。
「そうです。綾小路さんと澤城さんも一緒に……」
「秋月くん、お上を四階の事務室に呼びつけるんはちょっと、筋が違うんとちゃうか?」
「筋が違うのはわかっていますけど、拝謁時間外の遅い時間に『奥』に当たる五階に『表』の男が入るのは好ましくないと侍従長が言うんですよ」
五階は女帝の私的空間、宮城の『奥』と同等、と一応、定義されている。
──二回ほど夜に侵入してしまっているが。
マコトはそう思ったが、口には出さない。
「革新派なんか、保守派なんか、よぉわからんなあ、牧原侍従長は」
綾小路は呆れたように、ため息をついた。
「私は気にしないから、行きましょう」
そして、茶トラ猫のチャトランゼを抱いたまま連れて行こうとする睦子に、主厨長の安元がピシャリと言う。
「陛下、うちのネズミ捕り係を連れて行くんじゃない」
「ええー」
「ええー、じゃないです。チャトランゼは大膳職の所属なんですよ。食事休憩が終わったら勤務時間さ。陛下もお役目を果たして来てください」
安元は、料理に関しては柔軟性と進歩性を持っているが、他の事柄においては職人気質で融通が利かない。
そして、睦子の扱いも、若い娘に対する頑固オヤジのそれに近い。
ついでに言うと、安元はトルコ料理に興味を示し、上海の大膳職を放り出して亡命準備組に随行してしまった、という経緯がある。
そのせいで、残った者は全員辞職、睦子は毒殺に怯える日々を送る羽目になったのだが、彼女はそれを安元には、あえて言わない。
──悪気はなかった、とわかっているから。
自動昇降機に乗り込みながら、睦子は「モフモフが足りない」と漏らす。
四階で自動昇降機を降り、牧原侍従長がいる事務室の扉を秋月がノックする。
「侍従長、陛下がお見えです。澤城と綾小路も連れて参りました」
入室し、事務仕事用の机の手前に置いてある応接セットの上座に睦子が、下座にマコトと綾小路が座る。
牧原と秋月は立ったままだ。
秋月が左右の二重の幅が違う瞼を二回ほど瞬き、息を吸い込んで吐いて、口を開く。
「先ほど秋月物産のイスタンブール支社の財務担当者から連絡がありました。秋月物産イスタンブール支社の表の銀行口座が一つと、その駐在員寮であるカメリア・パレスの設備管理用の口座が一つ、凍結された、とのことです」
睦子、マコト、綾小路は、一斉に秋月を凝視する。
カメリア・パレスは大八洲帝国女帝の亡命宮廷ではあるが、表向きは秋月物産の駐在員寮だ。
それも、対米開戦以前から大使館事務所の隣という理由で、国策の一環として秋月傳三郎の父の傳藏が総帥を務める秋月財閥が借り上げていた、と聞く。
おそらく先帝の時代から、緊急時の亡命先の候補として想定されていたのだろう。
「どちらも、見せておくための表向きの秋月物産の口座です。カメリア・パレスの生活資金は、牧原侍従長が陛下のお手元金を別人名義で運用している口座からですから、突然、困ることはありませんが……今回の秋月物産の口座凍結は、おそらくは米国の差配でしょうね」
秋月の報告に、牧原が微かに眉をひそめ、銀縁眼鏡を押し上げた。
ため息をついてから、牧原は言う。
「先月から、帝室の外貨資産は私がいくつか分散して、頻繁に移動を繰り返して流れを掴めないようにして参りました。ですが、米国が本格的な調査と凍結の前に観測気球を上げたなら、今後は、下手な動きは出来なくなります」
重い空気が室内を支配する。
「米国に私の居場所は……知られているわよね?」
「おそらくは」
睦子の問いに牧原が頷く。
英国の秘密情報部。
ソ連の外務人民委員部。
その二つには既に居場所が捕捉されている。
ソ連の内務人民委員部からテヘランで一度襲撃を受けたが、現在はわからない。
ソ連外務人民委員部と内務人民委員部はトップ同士が人民委員会議議長の跡目争いで反目しているという話だから、横の繋がりは薄いだろう。
『内務人民委員部か……彼らと私では、所属や命令系統が違う。彼らのような野蛮なことはしない』
ソ連外務人民委員部の外交官、イシュチェンコが言っていたことを、マコトは思い出す。
──いや、英国やソ連のことはさておき。
連合国最大勢力である米国がとうとう乗り出してきたというわけだ。
マコトは膝の上で、手を握る。
牧原が、銀縁眼鏡の奥の鋭い眼光を睦子へ向ける。
「ですから、陛下。持参金として資産を逃すためにもセルゲイ殿下とのご婚約を、なるべく早くご決断願いたいと、存じます」
重く、苦しい言葉に。
睦子の表情が強張ったまま、固まる。
牧原の鋭い眼光は、マコトにもちらりと向けられる。
「通訳の無礼も快く許してくださる、心の広い御方です。陛下の良き伴侶となるでしょう」
そして、その眼光は綾小路へ向けられる。
「綾小路外交顧問殿、あなたは女帝は男系継承の妨げにならぬよう生涯独身であるべき、という古い慣習に縛られて、この縁談を邪魔しているようですが、実利を重んじるあなたらしくもない」
「そういうわけでも、あらへんけど……」
「では、どういった理由で?」
「ソ連情勢次第では、旧ロシア帝室のロマリエフ家との婚姻は危険すぎると言うてるやありませんか」
「じゃあ、他に陛下の御身と資産を守る方法は?」
「……」
問われた綾小路は黙り込む。
「イスタンブール大使館事務所の『岬機関』でしたか……外務省の諜報グループと組んで、あちらこちら駆け回ってるのは知っていますが、何の成果も得られていないようですね……綾小路殿」
綾小路が牧原から視線をそらす。
「……『岬機関』って本当にあったんですか……」
マコトが小さく呟く。
陸軍特務機関にはマコトが所属していた『不二組』のような諜報グループがいくつか存在していたが、勢力範囲は大八洲帝国本土からインドあたりまで。
それ以上の西は外務省の管轄で、いくつか諜報グループがあるらしいとは聞いていたが、噂程度でしかなかった。
イスタンブールの『岬機関』も真偽不明の噂の外務省系諜報機関の一つだった。
そして、綾小路が宮内省に出向する前の所属は外務省調査局第二課。
ソ連と西アジア方面を担当する情報分析官だった綾小路は彼らとも関係が深いのだろう。
──それから、おそらく、元のリーダーは殺害された三崎、か。
マコトが視線を上げ、睦子を見ると、彼女は何か思いついたように、長い睫毛をはためかせ、瞬きをする。
三白眼気味の大きな目の黒曜石の瞳で、牧原を見上げる。
「大使館事務所の三崎さんと奥様は心中じゃなくて、他殺なのよね? 牧原、あなたどうして心中だと思い込んでいたの?」
「帝国の未来を悲観していましたから、三崎は」
淡々と答える牧原に、睦子は言う。
「いえ、共和国記念日の前夜祭の夜に会ったソ連の外交官は三崎さんは憂いている素振りは見せなかった、という内容のことを言っていたわ」
睦子は牧原をキッと睨む。
「三崎さんは牧原だけに本音を明かしたのかしら? それとも我が国の者だけに、そういった振る舞いを?」
牧原は小さくため息をつく。
「それはどうでしょうかね」
「しかも、その三崎さんが、私とセルゲイの縁談に反対していた、と綾小路から聞いたわ」
睦子は薄く笑う。
「牧原、まさか、あなたが三崎夫妻を、なんてことはないわよね? セルゲイとの縁談も何かの罠、なんてこともないわよね?」
──証拠もないのに直接、言った。
よりによって、『牧原侍従長』を相手に。
マコトは内心頭を抱える。
綾小路も同様だろう。
細い目をさらに細めて、渋い顔をしている。
「あと、厨房の床下の備蓄庫から大使館事務所へ行けるっていうのも安元から聞いたわよ」
ドヤ顔でのたまう睦子に、マコトは頭を抱える。
──だから、黙っていたのに。
マコトは隠し通路のことを睦子には伝えていなかった。
ロクでもないことを思いつくに違いなかったから。
「……あのおっさん、いらんことを」
綾小路も小声で毒づく。
「さあ、どうなの? 牧原」
睦子は立ち上がり腰に手を当てる。
まるで名探偵よろしく、のポーズだった。
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