54.1945年(春和元年)11月 イスタンブール③
セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフが来訪したその夜、カメリア・パレスは静けさを──取り戻してはいなかった。
「陛下からのご下賜のバクラヴァ、美味しかったですよねえ。いっぱい食べちゃったからお夕飯、全部食べられないかもぉ」
「いやぁ、私は今日はご飯何杯でもいけちゃいますね。今日はパンしかないらしいですけど」
「橘さん、すっごくご機嫌だけど、どうしたんですかあ?」
「蓉子ちゃん、聞いてください。セルゲイ殿下って、お上だけじゃなくって澤城さんにも興味があるんですって!」
かしましい、女たちの話し声が聞こえた。
一階職員用食堂でマコトは、いつもより少し遅い時間に夕食を取っていた。
トルコ語の自主学習が、キリのいいところまで進んだら夕食にしよう、と思ったら、思いの外、遅くなってしまったのだ。
そこへ、女官の橘桂子と菊池蓉子がやって来た。
彼女らは主君である睦子の夕食の給仕を終えた後が、自分たちの夕食の時間なのだろう。
「ああー、珍しい。澤城さんがいるじゃないですかぁー」
蓉子が甲高い声を上げる。
「あ、ほんとですね」
橘が低い声で言い、珍しいものを見るような視線を投げかける。
今までは、ほぼ無関心か、どちらかと言えば嫌悪感に近い視線を投げかけていた橘が、珍獣を見るような視線をマコトに浴びせている。
マコトは警戒した。
この好奇の目は十中八九、良くない類のものだと察した。
だが、警戒したところで食事中、不用意に動くのは不自然だ。
一旦、待機、そうしていると、彼女らは夕食のトレーを持って、マコトの向かいに並んで座る。
「俺、移動しましょうか?」
他のテーブルにも空席はある。
女性二人との同席は気まずい。
だが、蓉子がテーブルに巨乳を乗せて、頬杖をつく。
「蓉子、澤城さんとお話したいなぁ」
そして、どんぐり目を輝かせ、上目遣いで見上げる。
「私も話を聞いてみたいです」
橘も切れ長の目を細めて、ニヤニヤしている。
──最悪だ。
やはり、不自然でも撤退しておくべきだったと後悔する。
「澤城さんは男性を恋愛対象として見られますか?」
「見られません」
橘の質問を被り気味で否定する。
「もぉ、橘さん、その期待は無理ですよー。澤城さんはぁ、おっぱいがない人は無理だからぁ」
「勝手に決めつけないでください」
蓉子が両腕で豊満な胸を寄せながら言ったことを、冷ややかに否定する。
「……でも、セルゲイ・ニコラエヴィチといえば、両刀……男も女もどっちもいけると欧州の社交界では有名らしいで」
隣のテーブルから、か細い男の声が聞こえた。
外交顧問の綾小路が、くたびれた様子で言った。
ちなみに彼は、先ほどからずっとそこにいた。
ただでさえ細い目は眠気に抗いきれず、ほとんど閉じているにも関わらず、ひよこ豆のスープは迷いなく、スプーンで口に運ばれている。
「……自分と同じものがついてる人間は生理的に無理なんで、勘弁してください」
マコトもひよこ豆のスープをスプーンですくいながら、心底嫌そうに返答する。
補足だが、トルコのひよこ豆スープは、豆がすり潰されており、豆が原型を留めていない。
豆が嫌いで味噌はセーフのマコトにとって、ギリギリセーフの料理である。
「なんや。セルゲイ殿下があんたに興味を持ちはったら、あんたを差し出して、お上とロマリエフとの縁談はシャンシャンで終わらせて無かったこと出来へんか、そない思うとったのに」
「……そんな邪悪なことを考えてたんですか、綾小路殿」
「邪悪ってほどでもないやろ。パーティー会場でお上を強奪するよりはマシや。それにあんた、特務機関の任務で男と寝たこともあるそうやないか?」
「………」
「そんな怖い顔せんでもええやない。あんたの上官の藤木中佐さんから聞いてしもうたんや。あんたは男にもモテたって。それに、僕や牧原さんが、お上のお側に侍る人間の細かい経歴を知らんわけにはいかしまへん」
柔らかく、でもピシャリと綾小路は言い切る。
マコトは思わず立ち上がる。
椅子がガタンと音を立てた。
一触即発──。
なのに突然、ナァ、と猫の鳴き声が聞こえた。
「チャトランゼ、美味しい?」
睦子の気の抜けた声も聞こえた。
その場にいた全員が、バッ、と声が聞こえた方向へ視線を向けた。
綾小路の後方で死角、一番奥のテーブルの下。
睦子が蹲っている。
彼女は、猫と猫のように蹲っていた。
「あら、見つかってしまったわね」
「……何をしてるんだ?」
顔を下げて覗き込んだマコトが聞くと、睦子はしれっと言う。
「チャトランゼの餌係。この子、ここに潜ったまま出てこないのよ。あと、蓉子。あなたは綾小路のテーブルに移りなさい」
どうやら睦子は、昼の散歩中に拾ってきた茶トラの猫に餌をやるついでに、ここにしばらく潜伏していたらしい。
そして、男好きの菊池蓉子への牽制だけは忘れない。
だが、蓉子は、「えー」と不平の声を漏らすだけ漏らして、その場から動かない。
マコトは諸々に呆れて、ため息をつく。
「……だからってテーブルの下で餌をやらずに、抱いて、外に出せばいいだろう?」
「抱っこして外に出しても、床に下ろすと戻っちゃうのよ」
侍従の日向に洗われてフワフワの毛並みになった猫は、机の下で皿に乗せられた割いた鶏肉のようなものを食べている。
「何もお前まで、テーブルに潜らなくても……」
「チャトランゼの可愛い瞬間を間近で見たいじゃないの」
「……いや、というか、チャトランゼって、こいつの名前か……?」
「茶トラと、フランス語の異邦人を掛けたのよ。可愛いでしょう?」
「……」
何だかよくわからないが、名付けのセンスが微妙なことだけはわかる。
「……帝都の御所におりました黒猫はクロードと、いいましたなあ」
綾小路が遠い目をした。
たぶん、黒猫の黒と帝の側近を示す古い官職名、蔵人……それを掛けたのだろう。
女官の二人も、ちょっと明後日の虚空を眺めている。
愛玩動物に語呂と響きだけで、ダジャレのような名前を下賜するのが、どうもどうやら、彼女の常らしい。
「叔父様に預けたクロードは元気かしら? 綾小路は聞いてる?」
「さあ、どうでっしゃろか……今度の定期連絡のときに余裕があれば、聞いてみます」
綾小路は摂政久慈宮及び丹羽宮首相の間諜であり、連絡係だ。
睦子に見抜かれているのは知っているので、もう、あまり隠す気がないらしい。
肝心なことは話さないだろうが、連絡を取り合っていることまでは伏せる気はなさそうだ。
「ねえ、そう言えば、橘? セルゲイが、マコトを気に入っちゃった、そんなふうに見えた?」
睦子が、しゃがんだまま、両頬に手を当てて聞くと、橘は深く頷いた。
「見えましたよ。あれは、お上とはまた別で、口説こうと算段をしている目でしたよ」
橘の目は黒光りしていた。
マコトには橘が何を企んでいるのかは計りかねたが、黒光りしている目には正体不明の愉悦が浮かんでいた。
「ロシアの貴公子と東洋の混血スパイの禁断の恋! オイシイと思いませんか? お上?」
「ねえ、橘……それだと、私とセルゲイは、マコトを巡る恋の好敵手になってしまうのでは?」
そうして睦子は、斜め上な懸念を口にした。
「それも見ている側としては結構オイシイです」
「橘、オイシイじゃなくて私の恋愛を応援してほしいのだけど」
それを聞き咎めたマコトは、ため息混じりに言う。
「……陛下、恋とか愛とか個人的な感情はもう少し隠してくれませんか?」
だが、睦子は首を傾げた。
「だって、もう、カメリア・パレスのみんな知ってるわよ」
あっけらかんと言って、食事を終えたチャトランゼを抱き上げ、机の下から出てきた。
「ねえ、チャトランゼ? みんな知ってるもんねえ?」
チャトランゼも『存じ上げております』と言わんばかりに、ニャアンと鳴いた。
「……既成事実化するな」
「もう、既成事実よ」
睦子は、そう、チャトランゼを撫でながら言うので、マコトは頭を抱えた。
次回更新は2026年7月30日(木)21時頃を予定しております。




