53.1945年(春和元年)11月 イスタンブール②
大八洲帝国の女帝の仮御座所、カメリア・パレス。
その四階、ボスポラス海峡を見渡せる応接室に踏み入れた瞬間──。
甘い匂いが、鼻をついた。
花瓶に生けられた瑞々しいバラの香り。
ピスタチオと蜜が絡まったお菓子の香り。
そして、振り返り、鷹揚に立ち上がる客人、ロシアの亡命皇族、セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフのラベンダーとバニラの重く甘いオードトワレの香り。
セルゲイが睦子の手の甲にキスをする仕草の挨拶をしたときに、それらが混じり合い、ふわりと香る。
端正な甘いマスクの翠の瞳は、睦子の黒曜石の瞳を捉える。
「Bonjour, mademoiselle. (こんにちは、お嬢さん)」
「こんにちは、セルゲイ殿下」
睦子はセルゲイのフランス語の挨拶に八洲語で返した。
「先触れもなく突然押しかけたのは悪かったけど、君、フランス語は話せたよね?」
セルゲイは苦笑いを浮かべる。
「ええ、でも、完璧じゃないから、通訳を同席させろ、と仰られたんでしょう?」
嫣然とした笑みを浮かべる睦子は、変わらず八洲語のままなので、マコトが渋々、低い声で訳す。
「そういうわけじゃなかったんだけどな……」
しれっと、皮肉を言い放った睦子に、セルゲイは困ったように笑う。
「先日の非礼はお詫びいたしますわ、殿下。どうぞ、お掛けになって」
応接セットの一人掛けのソファーにセルゲイは座る。
睦子はその向かい側のカウチに座る。
マコトはカウチの横の丸椅子に座る。
テーブルの上に置かれた脚付きのガラス皿には、ピスタチオのグリーンが鮮やかな菓子が、一口サイズの菱形に切られて美しく並んでいる。
「お菓子はボクが持ってきたものなんだけど、お口に合えば嬉しいな」
菓子はセルゲイの手土産のようだ。
部屋の隅に控えていた女官の橘が、銀色のワゴンの上でポットのティーコゼーを外し、カップに湯気の立つ紅茶を注ぐ。
「……セルゲイ殿下。不躾で申し訳ありませんが、陛下のお茶とお菓子を先に確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
マコトはセルゲイに、失礼承知で申し出る。
セルゲイはプラチナブロンドの髪と同じ色の睫毛を上下させる。
「構わないよ」
小さく笑って、セルゲイは頷く。
マコトは内心安堵のため息をつきながら、菓子を一つ、ターナーを使い、皿に乗せる。
何層にも重なったパイ生地の、上層にはピスタチオがたっぷりと詰まっていて、下層にはシロップがたっぷりと染み込んでいる。
脳天を突くような、甘い香り。
視覚と嗅覚の両方から、甘い、と明らかに判別出来るものだった。
意を決して、パイ生地が崩れないようフォークをシロップに浸された面から刺して、口に入れた。
「……死にそうなぐらい甘いですが、問題ありません、陛下」
静かに悶絶するマコトに、睦子は言う。
「あなた、甘い物が苦手だったわね、そう言えば……」
マコトは口の中の甘みを少しでも紛らわせようと、紅茶を口に含んだが、毒見程度の量ではちっとも中和できない。
やむを得ず橘に頼んで、もう一杯用意してもらって、砂糖もミルクも入れずに飲み干した。
そして、睦子は菓子を口に入れ、満面の笑みを浮かべる。
マコトとは違い、睦子は筋金入りの甘党だ。
実に幸せそうな、蕩けそうな笑顔だ。
サクサクのパイ生地とナッツの食感とシロップの甘さを、ゆっくり味わってから、ほぅ、とため息をつく。
睦子は首を傾げてセルゲイに聞く。
「このお菓子はトルコのものかしら?」
「うん、バクラヴァというオスマン帝国時代からの伝統菓子なんだ」
「まあ、そうなの……ねえ、イスタンブールには、まだまだ他にも甘い物があるのかしら?」
「あるよ。たくさんあるよ。良ければ、また持ってきてもいいし、お店に食べに行ってもいいんじゃないかな。一緒にどうだい?」
「あら、お誘いくださるんですの?」
「喜んでエスコートさせていただきますよ」
「まあ、どうしましょう」
──甘味が絡むとどんどんガードが下がっている。
一応、頑なに八洲語で話す睦子の言葉をマコトは低い声で正確に、フランス語へ翻訳する。
でも、頭の片隅では、本当に不味い台詞が出たら、歪曲せねば、と思う。
ニコニコと笑うセルゲイは、睦子の好みを知った上でバクラヴァを持ってきたのだ。
睦子は何が好きか嫌いかを、極力言わないようにしている。
皇族の好き嫌いは周囲を忖度させる上に、弱みにもなるから、言わないように幼少期から躾けられる。
でも、睦子の場合は、実際は好き嫌いがかなりはっきりしているので、『甘味献上作戦』には弱い。
殊の外、弱い。
公式には出ていない睦子の個人情報が、セルゲイ側に流れている。
──おそらく、牧原侍従長あたりから。
睦子が甘党だと知っているのは、イスタンブールでは、側近たちとMI6ぐらいだろう。
「Итак, какие у вас с ней отношения?」
突然、セルゲイがロシア語を口にした。
内容は『君と彼女はどういう関係なの?』だ。
マコトは黙ってやり過ごそうとした。
「ああ。やっぱりロシア語もわかるんだね」
でも、セルゲイには、わずかに反応したことを気取られた。
「今、何と仰ったのですか? 殿下?」
マコトは、背中に冷や汗をかきながら、睦子の八洲語をフランス語へ訳す。
「いいや、あなたを何とお呼びしたらいいのかな、と。ついロシア語が出てしまったけど……君は本当は『椿』ではないよね。チカコと呼んでもいいかい?」
睦子はロシア語がほとんどわからない。
セルゲイはそのことにも気づいて、はぐらかした。
そして、あっさりと、『チカコ』と呼んだ。
マコトが呼ぶことを躊躇う名前を、あっさりと。
立場の違いを思い知らされる。
「構わないわよ、『セルゲイ』」
女帝である以上、彼女の方が、ロシア皇族のセルゲイより立場は上だが、これもまたあっさり許可をした。
「欧州では『友人』はファーストネームで呼び合うのでしょう?」
そして、睦子は八洲語からフランス語に変えて言う。
「友人?」
「あら、違うの?」
睦子が首を傾げると、セルゲイが目を細めて笑う。
「まあ、『お友達』からってことだね」
「ええ、よろしく」
頷く睦子が、この『お友達』の意味を、どこまで理解しているのかはわからない。
「А тебя как зовут?(で、君は何て呼ばれてるの?)」
セルゲイはマコトに、ロシア語で聞いた。
「マコト・サワシロ」
今度は黙り込まずに答えた。
するとセルゲイは愉快そうに笑った。
そして、ふわりとラベンダーとバニラの甘い香りを漂わせて、言った。
「ボクはマコト、君にも興味があるんだよ。チカコも、マコトも、とても美人で面白くて、魅力的だから」と。
次回更新は2026年7月23日(木)21時頃を予定しております。




