52.1945年(春和元年)11月 イスタンブール①
「マコト、キスして?」
「嫌です」
「何でよ?」
「生殺しなんですよ」
「生殺し?」
「あんた、俺がどれだけ我慢してるか、わかってるのか?」
「わかってるわよ」
「わかってるんだったら……」
「だから、昼間に求めてるの」
「……俺を弄ばないでくれますか?」
──1945年(春和元年)11月上旬、イスタンブール。
「それから、後ろに側衛官の廣田さんと土屋さんと、あと侍従の日向さんもいるんです。それから、隠れてるけどMI6のダニエルとエリザベスも。勘弁してください」
マコトはため息をつく。
廣田と土屋からの胡乱げな視線が痛い。
カメリア・パレスから石畳の路地を下り、ボスポラス海峡に面したガバタシュ桟橋に出た。
睦子をずっと閉じ込めておくわけにもいかないし、彼女が『運動不足は美容と健康に良くないの』とゴネ始めたので、散歩に連れ出した。
海と異国の街並み、背景はロマンチックではあるが、白昼堂々とキスしていい理由にはならない。
特に筋肉質の恵体の皇宮警察巡査部長で側衛官の廣田の切れ長の目からは、汚物を見るような視線が送られている。
彼は本国に妻がいながら、少し前まで女官の菊池の巨乳に目が眩んで関係を持っていたらしいので、自分のことは盛大に棚に上げている。
なので、その視線は解せない、とマコトは思う。
ゲンナリするマコトの横で、睦子は黒揚羽のようにはためく睫毛を上げ、黒曜石の色の目を輝かせながら、足元にすり寄ってきた茶トラの猫を一匹抱き上げた。
慣れた手つきで抱えて、マコトに見せた。
「ねえねえ、マコト、猫がいっぱいいるんだけど、一匹ぐらい連れて帰っちゃ駄目かしら?」
「駄目に決まってるでしょう、陛下。野良を抱き上げるのはおやめください。蚤がついてます」
桟橋には釣り人からのおこぼれを狙う野良猫が集まっていた。
イスタンブールは、預言者が猫を愛したという宗教上の理由で、猫を大切にする風習がある。
だから、栄養状態が良さそうなモフモフの野良猫がそこかしこの道端で無防備に転がっている。
「帝都ではずっと飼ってたのよ……」
「だからって、野良猫を拾わない」
マコトがきっぱり言い切ると、睦子はふくれっ面になる。
そこへ侍従の日向がまあまあと、割って入る。
彼はつぶらな目を細めて、
「恐れながら、陛下。その猫を貸していただけますか?」
と、睦子の手から茶トラの猫を預かる。
彼もまた扱い慣れているのか、猫は大人しく腕に収まって、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「主厨長の安元がネズミ捕りの猫が欲しいと申しておりましたから、階下で飼えば良いかと存じます」
「それは妙案ね。私が階下に遊びに行く理由にもなるし」
「はい。戻ったら、宮廷の一員として相応しいように洗って身繕いを致しますので」
「お願いね。……あなた、日向に綺麗にしてもらうのよ」
日向は、猫も睦子も、扱い慣れている。
度を超えた甘やかしはしないが、折衷案を提案するのが上手い。
今日の散歩だってゴネる睦子をなだめつつ──。
『隣の大使館事務所の抑留されている外交官の方々ですら、健康維持のために二日に一度は散歩に出ているんですよ』
ソ連関係者の接触や拉致を恐れて難色を示す牧原侍従長に、実例を挙げて、護衛の配置とルートを提案し、説き伏せたのは、日向だ。
「さあ、そろそろ戻りますよ、陛下」
「……ねえ、マコト。この坂を上るの?」
「当たり前じゃないですか」
「凄く急な坂じゃないの」
「下りてくるときからわかっていたことでしょう……」
「ヒールの高い靴を履いてきちゃったのよ。抱えて?」
「嫌です」
「何でよ?」
「あんた、重いんですよ」
「嘘おっしゃい、重くないわよ!」
マコトに向かって不平不満を漏らす睦子に、日向は言う。
「良き運動になりますね、陛下」
日向は、甘やかさない。
「美容と健康のためにと仰せになられたのは陛下ですよね?」
「ぐっ……」
「坂もヒールも丁度良い負荷です。頑張りましょう」
「……」
結局、睦子は息を切らしながら、歩いて坂を上る。
「ダンスは出来るのに、何で坂道を歩くだけでそんなに息が切れてるんだよ……?」
「使う筋肉が違うのよ!」
マコトが揶揄半分、不思議半分で言うと、睦子は負け犬の遠吠えのように喚く。
日向はニコニコと、とってもいい笑顔を睦子に向ける。
「そうですよ、普段使わない筋肉を使うことがこの散歩の意義ですから。頑張ってください、陛下」
「……日向の鬼……悪魔」
「陛下が健康になられるのでしたら、日向は悪魔に魂を売りますよ」
日向は決して睦子のペースには巻き込まれない。
「……日向さん、陛下をなだめるのが本当にお上手ですよね」
「大学で哲学をやっていたんで、ちょっと頓智が得意なだけなんです」
マコトの称賛に、日向は猫を抱えたまま、謙虚にはにかんで見せた。
急な坂でも、日向は息を切らしていない。
なかなかの健脚だ。
──確か、日向は京都帝国大学文学部哲学科卒で会津士族で警保局官僚の次男、だったな。
マコトは彼の経歴を思い出す。
侍従としては異色の経歴だが、財閥の三男坊の秋月なんかよりは、ずっと適性があるし、軍人出身の牧原侍従長と違い、物腰が柔らかい。
──誰にでも分け隔てなく接する。
混血のマコトに対して、奇異の目で見たり、見下したりすることはない。
睦子に対しても、敬意は示すものの、崇拝はしていない。
──でも、ちゃんと境界線は引いている。
不思議な人だな、とマコトは思う。
悪い印象はないのに、感情が読みにくい──。
「ただいま。戻ったわよ」
坂を上り、カメリア・パレスに着く。
「お帰りなさいませ」
マコトは、おや? と首を傾げた。
玄関の扉を開ける警備員に扮した近衛兵、片桐少尉の表情がいつもの昼行灯ではなく、妙に硬い。
女官の菊池の現在の交際相手で、いつもは気障ったらしい戸崎大尉も、いつものように廣田と火花を散らすわけでもなく、目が泳いでいる。
そして、一階の正面玄関ロビーで、牧原侍従長が待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、陛下。急なこととは存じますが、お客様がお見えでして……四階応接室でお待ちなられておいでです」
「誰がいらしているの?」
睦子が聞くと、牧原侍従長はにっこりと笑って答えた。
「セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフ殿下です」
共和国記念日の前夜祭、ペラ・パレスホテルでのパーティーで、マコトはセルゲイとダンスを終えたばかりの睦子を強奪して、走り去り、会場を後にした。
不審なソ連の外交官からの緊急避難だと、辻褄合わせの申し開きをしたが、牧原侍従長はおそらく信じていない。
先触れの連絡があったとは聞いていない。
だが、何の連絡もなく来るはずもないので、両者で口裏を合わせているのだろう。
事前に逃亡を企てることがないように──。
「通訳も同席するように、とセルゲイ殿下が仰せです」
牧原の銀縁眼鏡の奥の鋭い眼光が、マコトへ向かって、こう言っている。
『自分で落とし前をつけろ』と。
次回更新は2026年7月16日(木)21時頃を予定しております。




