51.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑭
かつて、オスマン帝国の都だったイスタンブールで、トルコ共和国の建国記念日を祝う花火が上がる。
帝国が築いた壮麗な寺院や宮殿を背景にして。
それは敗戦国の帝国の女帝には、あまりにも皮肉な光景だった。
旧市街と新市街を隔てる金角湾にかかるガラタ橋の上で。
マコトは睦子を背中に庇いつつ、男に向き直った。
「ソビエト連邦外務人民委員部在イスタンブール領事館一等書記官、ウラジミール・ペトロヴィチ・イシュチェンコだ」
男は身分を明かし、名乗った。
「略儀ながら、女帝陛下にお話を伺いたい」
ウラジミール・イシュチェンコは無表情のまま、不躾に言った。
「私に話って、何かしら?」
睦子はマコトの肩から顔を出す。
彼女は不躾には不遜を、と言わんばかりの笑みを浮かべている。
こうなったときの睦子は止められない。
──いや、止めないほうが事態は上手く回る。
マコトは話すことは睦子に任せて、周囲を見渡す。
索敵を優先する。
「八洲の外交官、ムシュー三崎が殺害された事件について何か知っているか?」
イシュチェンコの思わぬ直球に睦子は目を瞬くが、すぐに元の不遜な笑みに戻る。
「知らないわ。だって、私が会う前に殺されてしまったんだもの」
ふわりと甘い抑揚で睦子は返す。
イシュチェンコは薄茶色の目の片方を眇める。
「あなたが殺害を指示したのでは?」
睦子は大げさに肩をすくめる。
「まさか。あの夜の時点でも、現在でも私は三崎さんのこと、よく知らないの。あなたと彼はお知り合いだったの?」
「ごく一般的な、外交官としての交流はありましたよ。それ以上でもそれ以下でもありませんが」
憮然と答えるイシュチェンコに睦子は、甘く問いかける。
「でも、私よりは彼のこと、ご存じよね? 彼は帝国が敗戦したことを悲観していたの?」
マコトはハッとする。
牧原侍従長は、三崎が殺害されたあの夜に、こう言った。
『三崎くんは、帝国の未来を随分と憂いていましたね……いえ、噂ですけど、随分と奇行があったとも聞きます。自殺でしょうかね。何とも痛ましい』
だが、イシュチェンコの答えはこうだった。
「さあ、どうでしょうか。彼の内心は測りかねますが」
それは、『憂いている素振りは見せなかった』ということ。
──そして。
「……つまり、敗戦後、トルコ政府の監視下で抑留中のはずの彼と連絡が取れていたということね。『ごく一般的な』という割に随分と懇意なのね」
イシュチェンコは片眉を上げる。
わずかに滲む動揺に睦子は笑みを深くする。
「あなたと彼は、何らかの理由で連絡を取り合っていた。でも、彼が殺害されたから、とりあえず真相に近そうな私に接触する機会を狙っていた。そして、私たちが前夜祭のパーティーを抜け出したことにより、今ここで対面しているわけね?」
睦子はクスッと笑う。
「マコト、周りに彼の仲間はいる?」
「今のところは、いない。人混みに紛れているならわからないが、大方ペラ・パレスから単独で追って来たのかと」
「咄嗟の行動、というわけね」
イシュチェンコは、瞬きを一つした。
「話す機会を窺っていたが、ペラ・パレスでは『防御』が硬かったから……後を追った」
蝶の翅のように長い睫毛をはためかせ、睦子はイシュチェンコへ艶っぽい視線を送る。
「ごめんなさい。ペラ・パレスでご挨拶も出来なかった上に真相からも程遠くて。でも、せっかくですもの。私からお伺いしていいかしら?」
唇に指を当て、妖艶な微笑を浮かべて、甘く、無邪気に問いかける。
「三崎さんへの連絡の内容は、我が国の外交機密かしら? それとも私の身柄についてかしら? 三崎さんは、ソ連への身柄の引き渡しを拒否したの?」
睦子は、直感をデタラメに唇から紡ぐ。
──さも、それを『知っている』事実のような響きで。
イシュチェンコが前へ一歩、踏み出す。
「無駄よ。あなたよりマコトのほうが速いわよ。今ここで、私の身柄を確保することは不可能よ」
睦子は罠にかかった獲物にふふっ、と上品に、でも嘲笑うように、笑う。
イシュチェンコはかすかに眉をひそめて、口を開く。
「交渉途中だった。我々は女帝陛下へ危害を加えるつもりはない。丁重に扱うとは申し出ていた」
「でも、イランの首都テヘランで『お迎えに来た』ソ連の方々は、私の同行者に向かって発砲したわ」
「……内務人民委員部か……彼らと私では、所属や命令系統が違う。彼らのような野蛮なことはしない」
「野蛮なことはしない、ね」
睦子が呟いた、そのとき──。
マコトは殺気を感じた。
次の瞬間、橋の欄干の下から小柄な影が宙に踊る。
「|Don't move.《うごくな》」
鈴のような声が、そのまま、イシュチェンコの横腹に割り込んだ。
亜麻色の波打つ髪が海風に揺れる。
妖精のような華奢な女。
その青い湖を思わせる瞳には、強い殺意。
英国秘密情報部MI6の諜報員エリザベスが、消音器付きの拳銃をイシュチェンコの背後から脇腹に突きつけていた。
「彼女は英国の監視下にある。横から手出しは無用だ」
エリザベスは低い声で恫喝した後、声を張り上げる。
「新市街側へ走って! ダニエルがカラキョイ港近くに停めた車で待ってるから!」
これは『味方の』助け舟ではない。
MI6の都合による監視対象の緊急保護で、睦子にもマコトにも拒否権はない。
というか拒否すると面倒なことになる。
いつから尾行されていたのか、わからないが、エリザベスは気配を消すことに長けている。
──たとえ、最初から索敵に集中しても気づかないほどに。
マコトは目を眇める。
「……わかった」
マコトは低い声で短く伝え、イシュチェンコを一瞥した。
イシュチェンコは何か言いたげにこちらを見たが、口を引き結ぶ。
そして、マコトは睦子の手を引き、新市街方向へ走り出す。
「とんだ邪魔が、入ったわね」
「まったくだ」
毒づきながらトルコ共和国建国を祝う花火に背を向けて、二人は走る。
カラキョイの港の側で、若白髪のひょろりと背が高い男が、停めた車に背を預けていた。
こちらに気づいたダニエルが片手を軽く上げる。
「急にペラ・パレスからいなくなったって聞いて、心配したぞ。みんなで車載無線を飛ばしまくって、探してたんだぞ」
ペラ・パレスホテルにはダニエル、エリザベスではないMI6の諜報員が監視に張り付いていたから、当然と言えば、当然だが。
ダニエルは眉を下げ、マコトの髪をワシワシと撫でる。
マコトは二十六歳、ダニエルは二十九歳。
ほんの少し三つ年上というだけで、保護者ヅラをするダニエルに、マコトは思わず舌打ちをした。
次回更新は2026年7月9日(木)21時頃を予定しております。
来週木曜日はお休みさせていただきます。




