50.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑬
10月28日の夜、トルコは、共和国記念日の前夜祭で、祝祭ムード一色になる。
夜のイスタンブールが、赤い国旗で埋め尽くされている。
白い三日月と星が、赤と夜闇の中で風にたなびく。
ペラ・パレスホテルの綺羅びやかなダンスパーティーから睦子を、マコトは連れ出してしまった。
ロシア帝位請求者の亡命皇族、セルゲイ・ロマリエフの手から強奪するように。
マコトは睦子の手を引き、路面電車と人が行き交う賑やかな通りを足早に通り過ぎ、急な坂を下った。
やがて古い石畳の路地に入ると、風景が一変する。
古びた石造りと木造の建物がひしめき合い、統一感のない猥雑な景色が広がる。
街灯はまばらで、灯りは薄暗い。
港湾労働者や船乗りのための安宿街のようにも見えるが、それだけではない。
赤くぼんやりとした光が漏れる鉄格子の窓辺に、化粧の濃い女たちが寄りかかっている。
ある女は透けるほど薄いネグリジェ姿で、またある女は真っ赤な下着にガーターベルト姿で、通りを歩く男たちに流し目を送り、声をかける。
男たちは女を物色し、不躾な視線で眺める。
女がタバコの煙を吐き出し、男に微笑みかける。
安物の香水の甘ったるい匂いと煙草の匂いが、じめっと湿った石畳にまで染み付いているようだ。
嬌声や怒号が、ざわめきの中に混ざる。
豪奢で上品なペラ・パレスホテルとは、別世界のような卑猥で下品な場所。
それでも、バルコニーには、他の地区と同様に赤い国旗が掲げられている。
それが、ここは別世界ではなく、地続きなのだと思い出させる。
マコトは睦子の手を引き、ここも足早に通り抜けようとした。
「Oda boş, kısa süre」
『部屋空いてるよ。短時間で』
トルコ語で、おそらくそんな意味の言葉が聞こえた。
連れ込み宿、なのだろうか。
薄暗い入り口に佇む客引きの年配の女性と、目が合う。
「マコト、身を隠す場所を探しているの?」
睦子が囁く。
「身を隠す……」
「テヘランのときみたいに宿は? あそこは旅館じゃないの?」
「…………」
睦子の背中が大きく開いたドレスの、艶めかしい素肌を思い出しながら。
マコトは決して振り返らず、三秒ほど黙り込んだ。
「……やめておきましょう」
「どうして?」
「どうしてって……」
「少しぐらいの汚さは我慢出来るわよ」
「そうじゃなくて……俺が、我慢出来ないから」
どこかから聞こえる甲高い声を背景に、端的に言った。
「テヘランでは大丈夫だったのに……?」
「そうじゃなくって……」
「じゃあ、どうして?」
マコトはため息をつく。
これ以上、説明したくない、察して欲しかった。
他の男のために着飾った姿に欲情していると、察して、いっそ軽蔑してくれたら楽になれるのに。
なのに──。
睦子は足を止めた。
繋いだ手が、わずかに逆らう。
「……こんなところで立ち止まるな」
振り返る。
灯りは薄暗く、笑い声と、ガラス越しの気配と、何かが軋む音。
汚らわしいこの場所で。
睦子の青白い薄絹のドレスと白い肌だけが、浮いている。
飾りたてた真珠と同じように無垢な聖女に見えるのに。
なのに、娼婦よりもずっと毒々しい色香を纏っていた。
睦子はマコトに笑いかけた。
「ここ、そういう場所なんでしょう?」
「……そうだな」
「じゃあ、いいじゃないの」
唇に指を当て、さらりと言う。
その無邪気さと毒々しさに、マコトは一瞬言葉を失った。
「いいって……何がだ?」
「誰も詮索しない。身分も関係ない。名前もいらない」
少しだけ首を傾けて。
「あなたが『我慢出来ない』としても、胡蝶の夢よ。誰も咎めない」
甘い声で続ける。
「……ちかこ」
呼び方が、無意識に崩れた。
その瞬間、睦子の三白眼気味の目が、わずかに細くなる。
「ほら」
繋いでいた手を、一度、解きかけて、指を絡ませて握り直す。
「全部、言って?」
逃げ道を塞ぐように。
「何を我慢しているの?」
理性を揺らす声。
マコトは衝動のままに、繋いだ手を強く引く。
「っ……」
睦子が少しよろけたところを抱き留める。
背中が大きく開いたドレスの素肌の部分に触れて、抱き寄せる。
マコトは睦子の顎に指を当て、顔を近づける。
吐息がかかる距離まで。
唇と唇が触れる寸前まで。
「……こういうことです。その先も」
「なら──」
「でも、ここでは、俺が嫌だ」
顔を遠ざけて、手を離す。
マコトは上着を脱ぎ、睦子の肩にかけた。
「……そのままじゃ、寒いだろう?」
「ええ……ありがとう。温かいわ」
睦子が上着の前を合わせるように握る。
チリリと胸が焦げるような、微かな罪悪感を覚える。
睦子が寒いかどうかは、マコトにとっては二の次だった。
ただ、ドレスの大きく開いた背中の肌を、これ以上、他の誰かに見せたくなかった。
──ただの、独占欲。
睦子は黒揚羽のようにはためく睫毛を伏せ、なおも誘うように流し目でマコトを見上げる。
マコトは目をそらし、睦子の手を再び握る。
石畳の坂を下り、路地を抜けた。
しばらく歩いて、金角湾にかかるガラタ橋に差し掛かる。
橋を歩いて、真ん中あたりで足を止める。
マコトが大きくため息をついて、蜂の巣みたいな模様の鉄の欄干にもたれかかると、睦子は口を尖らせる。
「隠れるんじゃないの?」
「……隠したら、そのまま閉じ込めたくなる」
マコトが言うと、睦子は意外そうに口に手を当て、真顔になった。
「……監禁は……ちょっと、嫌ね」
「だろうな」
自嘲とも苦笑ともつかない笑いが、マコトの口から漏れる。
「でも、ここは開け過ぎてるから俺の身体より橋の内側に入ってくれるか? 船からの狙撃が怖い」
「それは……あなたを盾にするみたいで、嫌なんだけど……」
「俺はあなたの通訳であり、護衛であり、盾なんだが」
マコトは淡々と事実を並べた。
すると、睦子は婀娜っぽく笑う。
「恋人じゃないの?」
冗談とも本気ともつかない調子の声で。
でも、伏せた長い睫毛の隙間の黒曜石の瞳は、真っ直ぐこちらを射る。
「……それは、ちょっと保留にしてくれ」
目をそらして、努めて軽く。
揶揄われていることにしてしまおう。
それでいいのに。
「保留って、何よ?」
「ああ、もう、うるさい……」
拗ねた顔で食い下がられても、本気などと、受け取ってはいけない。
「うるさいって──」
──受け取ってはいけないのに。
ガラタ橋の向こうの旧市街側から花火が上がる。
上がる花火からマコトは目を背けて。
睦子の頬に手を添えて。
誰もが花火を見ている隙に、少し乱暴に、唇を重ねる。
一瞬、触れただけで、すぐ離れる。
ほんの少し、堪えきれなかった。
「好きだ……」
──想いが、溢れるように決壊してしまう。
ドン、と花火の音が聞こえる。
睦子が頬を染め、潤んだ黒曜石の瞳でマコトを見上げる。
瞳には花火ではなく、マコトの顔が映る。
「私も──」
でも、マコトはその続きを言わせないように、睦子の唇に人差し指を当てた。
「お前は……帝は、人の好き嫌いは、言っては、いけないんだろう?」
マコトの言葉に、睦子は一歩、後ろに下がる。
「……でも、好き嫌いはあるもの! 私は! あなたがっ!」
マコトは睦子の腕を引き、抱きしめる。
「言うな。逃げ道は残しておいてくれ」
腕の中の愛しい女に、低く囁く。
「っ……いらない。逃げ道なんていらない、馬鹿……」
腕の中で苦しげに息を吐き、泣きそうな声が聞こえる。
──ずっと、このままでいられたらいいのに。
そう思った。
セルゲイとの縁談を壊したところで、極東の帝国の女帝に課された生涯独身の慣習──その構造へ回帰するだけで、表立って結ばれることは、ない。
腕の中の女は、手に入らない。
いや、手に入らない、とは少し違う。
強引に手に入れたとしても。
──代償が釣り合わない。
自分は元より日陰の者であり、いくら誹りを受けても構わない。
失うような地位も名誉も、持っていない。
だが、彼女には失う地位も名誉もある。
関係が露見したときには、自分とは比べものにならないほどの誹謗中傷に晒されるだろう。
千年経っても、目を覆いたくなるような破廉恥で酷い逸話が残る、僧を寵愛した女帝のようにならないと、一体、誰が言い切れる?
──妻子ある東洋人の父を愛し、俺を産んだ母でさえ、陰でどれだけ悪く言われたか。
そうでなくとも、戦争責任──その不名誉も、この細い肩に、乗せられているというのに。
欲してしまえば、彼女の罪が増えてしまう。
なのに、この腕の中の体温を、手放したくない。
一瞬だけ触れた唇の柔らかさを思い出す。
もう一度、触れたくなる。
──今日はどうかしている。
マコトは自嘲する。
綾小路が『心のままに』とか『思うように』とか言うからだ。
──こんな感情は、扱えるように出来ていない。
その瞬間。
不意に視線を感じた。
「Извините, я сейчас занят(取り込み中、失礼)」
低い声のロシア語が聞こえた。
睦子を庇うように左手で抱きしめたまま、マコトは振り返る。
同時に、いつでも拳銃を抜けるように右手は腰へ伸ばす。
腕の中で睦子が息を呑む気配がした。
一人の男がこちらを見ていた。
中肉中背で頬骨の位置が高い、スラブ系男性だった。
金メッキの六つボタン三掛けダブルブレスト──肩章が軍服を想起させる、黒のスーツ。
バイザーキャップのクラウンには羽ペンのモチーフ、バンドには星と鎌と鎚の国章が光る。
腰には短剣を佩用している。
本物のソ連外交官の正装制服だ。
密使という設定でもなければ、女帝に謁見するソ連外交官はこの制服を着用していなければならない。
色素の薄い茶色の目が静かに圧を放つ。
「Dans votre pays, les démonstrations publiques d’affection sont-elles habituelles ? C’est… intéressant.(あなた方の国では、公共の場での愛情表現は一般的なのですね? 興味深い)」
さっきはロシア語だったが、今度はフランス語だ。
薄茶色の目には侮蔑の色が浮かんでいる。
どこから見られていたのかと、マコトは内心頭を抱えたが、素知らぬ顔をした。
「何でしょうか、御用は?」
「さっきはちょっと盛り上がっちゃっただけで、若気の至りよ。普通は路上でキスなんてしないわ」
「……あなたは黙っててくれますか? 話がややこしくなる」
ほんの一瞬前、ほぼ現在進行形を若気の至りと言い切る睦子を、マコトは背中に庇いつつ、男に向き直った。
「ソビエト連邦外務人民委員部在イスタンブール領事館の一等書記官、ウラジミール・ペトロヴィチ・イシュチェンコだ」
男は身分を明かし、名乗った。
「略儀ながら、女帝陛下にお話を伺いたい」
ウラジミール・イシュチェンコは無表情のまま、不躾に言った。
次回更新は2026年6月25日(木)21時頃を予定しております。




