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49.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑫

 トルコの共和国記念日前夜祭のペラ・パレスホテルより、時間は少し遡る。


 同日午前七時。


「秋月くん、ちょっと(ツラ)貸してくれるか?」


 カメリア・パレス一階の職員食堂前で。


 綾小路は淡い笑みを浮かべながら、侍従の秋月傳三郎(でんざぶろう)を呼び止めた。


 秋月は左右の幅が少しばかり違う二重瞼を(しばたた)かせて、回れ右をした。


 だが、次の瞬間、壁がドカッと鳴る。

 マコトの長い左脚が、秋月の進行方向を塞ぐ。


「面貸せって言ってるだろうが」


 斜に構えたマコトが、ドスを効かせた低い声で言う。


「な、何ですか……?」


 秋月がへらっと笑う。


「秋月くん、僕らに話してないことあるやろう? ちょーっとばっかし、朝ごはん前にな、聞かせてくれるやろか?」


 綾小路は柔らかな声で、細い目をさらに細めて笑うが、笑っていない気配が見え隠れしている。


「連れションしようかー?」


 やれ、とでも言うように、綾小路がマコトに視線を投げかける。

 マコトが秋月の襟首を掴み、食堂向かいのトイレへ引きずっていく。


 そして、マコトの手が離れ、綾小路がトイレのドアを閉めるなり、秋月はタイルの上に土下座をした。


「どうか! 命ばかりはお助けください!」


 がばっと額を擦り付けんばかりに頭を下げる。


 矜持というものがまるで感じられない。


「秋月さん、顔を上げてください」


 少し声を落としたマコトに向かい、秋月はおずおず顔を上げる。


「トイレの床で土下座した服で陛下の御前に参上なさるつもりですか?」


 マコトは眉間に皺を寄せて、心底軽蔑した冷ややかな眼差しを送る。


「ほんまやわ、(ばっち)いわあ」


 綾小路も呆れてため息をつく。


「え、オレ、合服のモーニングは一着しか持って来てないんですけど……日向(ひゅうが)さん、替えのモーニング貸してくれるかなあ」

「秋月くん、問題、そこと(ちゃ)うで」


 ちなみに余談だが、秋月の侍従の先輩である日向とは背格好が似ているので、服の貸し借りが可能である。


「秋月くん、話戻すけどな、これ、今日のお上が出席するパーティーの招待客名簿やけど、セルゲイ・ロマリエフが来るって、隠しとったやろ?」


 綾小路が懐から紙切れを出す。

 幾人かの招待客の名前の下に、赤鉛筆で別の名前が書き足されている。

 タイプライターで打刻された名前が偽名で、赤鉛筆のほうが本名だ。


「皇太后様が親書送ってたとか、調べるの骨折れたんやで」

「牧原侍従長の指示だったんですよー! 確かに秋月物産から現地企業を介してあちらさんを招待してもらったのはオレの手配ですけど!」


 秋月は唾を飛ばし、早口で捲し立てた。


「……まだ聞いていないことまで吐くなよ……」


 マコトはゲンナリとしながら、ため息をつく。


 今は助かるが、秋月は財閥の三男坊で、背後の秋月財閥は亡命の支援者だ。


 連絡係がこの口の軽さでは、正直、困る。


「確かに二人には黙っているように、指示されましたから黙ってましたけど、陛下にはちゃんとお伝えしてます! 陛下は承知してます!」


 なおも早口で捲し立てる秋月の言葉に、聞き捨てならない部分があった。


 マコトと綾小路は動きを止める。


「陛下が……?」

「ご存知、やて?」


 マコトが秋月の胸倉を掴んだ。


「承知しているって、何をだ?」




 それから、二時間後。


 同日午前九時。


「ええ、知ってるわよ」


 カメリア・パレス五階の女帝の御居間で。


 女官長代理の荻野三也子(みやこ)に爪の手入れをさせている睦子(ちかこ)は、事も無げに言った。


 テーブルには舶来品の爪紅の小瓶が並ぶ。

 少しばかりツンとした化学薬品の匂いが鼻につく。


「陛下、縁談をお受けになるんですか?」


 マコトは詰め寄る。


 睦子はクスリと笑う。


「あら、嫉妬しているの?」

「違う」

「嬉しいわ」

「人の話を聞け」

「聞いてほしいなら落ち着きなさい。嫉妬を剥き出しにしているあなたも素敵だけど」


 クスクスと鈴を転がすように笑う。


「あの、なんや痴話喧嘩みたいに聞こえますけど、僕がおるん忘れてませんか? お上?」

「忘れてないわよ。だから何?」

「忘れてないなら余計に悪いですわ」


 綾小路が顔をしかめて、ため息をつく。


「陛下、出来ました」

「やっぱり、三也子は器用ね。爪、とっても綺麗だわ」

「恐れ入ります」


 睦子は赤い爪紅を塗った両手をうっとりと眺める。


「ダンスパーティーなんだろう? どうせ手袋をつけるのに……」


 マコトが毒づくと、睦子が涼やかに返す。


「手袋を外すこともあるかもしれないじゃないの」

「それはどういう場合だ?」

「さあ、知らないわよ」


 はぐらかした睦子は、微笑を浮かべる


「……そろそろ本題に入らせてもろうて、よろしいでしょうか?」


 綾小路が間に入る。


「お上は、セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフ殿下との縁談の危険性は承知してはりますか?」


 そして、睦子へ向かい、静かに問う。

 

大八洲(おおやしま)の女帝がロシア帝位請求権第二位のセルゲイ・ロマリエフ殿下に輿入れする──今はそれで、外交上の理由で連合国はお上に手出ししづらくなります。ですが、将来ソ連の政体が崩壊すれば、あなたの御子がロシアと大八洲、両国の火種になります」


 すると、睦子は首を横に振る。


「……そもそも、縁談を受ける、ということが誤解だわ」

「誤解?」


 胡乱げなマコトに、睦子は頷く。


「結婚するつもりは、今のところはないわよ」

「今のところは?」

「今のところはね。そうじゃなくて、味方を作りたいと思ってるのよ。セルゲイ・ロマリエフは欧州の王族と親戚だし、亡命者ネットワークにも繋がっているでしょう。だから、お友達になれたらいいわね、と思っているのよ」

「お友達?」


 なおも胡乱げなマコトに、睦子は指を顎に当て、不思議そうに首を傾げた。


「お友達よ」


 マコトの背後で綾小路が頭を抱えている。


「せやけど、この縁談を止めようとしてたイスタンブールの大使館事務所長の三崎さんが殺されはったんですよ……」


 綾小路が呻くように言った。

 睦子が一瞬だけ、表情を歪めた。


「そうだったの……でも、まだ事件との因果関係は確定してないでしょう? 綾小路」


 でも、すぐに前を向く。

 綾小路は渋い顔を睦子に向ける。


「せやけど、それを抜きにしても、火中の栗をわざわざ拾うようなもんですよ?」

「そんなつもりはないわよ。まずは会ってお話ししてみたいだけよ」

「せやかて……って、お上、まさかとは思いますが、セルゲイ・ロマリエフ殿下が男前やから()うてみたいだけと、違いますか?」


 綾小路は懐から写真を出し、掲げた。

 掲げた写真の中の男は、彫りが深く整った容貌だ。

 精悍だが甘さのある、男前だった。


 睦子が少しばかり気まずそうに長い睫毛を揺らして瞬きをした。


 荻野が丸眼鏡を押し上げながら言う。


「陛下がセルゲイ・ロマリエフ殿下をご覧になってみたい、と仰られた件につきましては、わたしは承知致しております」

「三也子っ!」


 睦子の声に、マコトは目を眇めた。


「……陛下、わたしは陛下がどなたをお選びになっても、応援する所存でございます」


 荻野は両手を胸の前で組んで、ギョロリとした目にめいいっぱいの慈愛を湛えて、睦子を見つめる。


 睦子はコホンと、わざとらしく咳払いをした。


「写真だとわからないこともあるでしょう。実際お会いして人物を確認したいのよ」


 (もっと)もらしいが、これはおそらく詭弁の類いだ。


 マコトは遠い目をして、思い出した。


 睦子が救いようのない面食いであったことを。



 

 女帝の御居間を退出し、マコトは綾小路に声をかけた。


「……綾小路殿」

「何や?」

「あの人、男女の友情って築けると思います?」

「……顔が好みと(ちご)うて、相手に下心がなかったらいけるんちゃうか」

「セルゲイ・ロマリエフの顔は?」

「自分の顔、鏡で見てわかるやろ。あの御方は濃い顔がお好きやねん」

「……」

「せやから、澤城さんの思うように、手段を選ばんで、ご破算にしてくれてかまへん」


 ──丸投げかよ。


 マコトは心の中で舌打ちをした。



   *



 そして、時は現在に戻る。


 トルコの建国記念日に当たる、共和国記念日の、前夜祭。


 ここは、イスタンブールの新市街、ベイオール地区にある、著名人に愛され、現在は亡命者が集う、ペラ・パレスホテル。


 アール・ヌーヴォー調のガラスのドーム屋根と百合の花を模した豪奢なシャンデリアの下で。


 月下の白椿のような東洋の姫君は、太陽の恩寵を受けたような西洋の貴公子にリードされて、ワルツを踊る。


 その姿は、美しいお伽噺のように見える。


 人々はため息を漏らす。


 でも、このお伽噺に『めでたしめでたし』は、あってはいけない。


 ワルツの曲が終わる。


 お伽噺の時間が終わる。


 睦子とセルゲイの視線が絡み合う。


 周囲から拍手の音が割れんばかりに聞こえる。


 セルゲイは少し名残惜しそうに腕を解き、睦子に恭しく手を差し出した。


 睦子はその手にそっと、自身の手を重ねる。


 セルゲイにエスコートされ、睦子は壁際に戻って来る。


「秋月さん、グラスを預かってください」 

「へ?」


 マコトは秋月にシャンパングラスを押し付ける。


 そして、セルゲイの手から、睦子の手が離れた瞬間。


 マコトは睦子の手首を握る。


Excusez‐(エクスキュゼ・)moi(モワ)(失敬)」


 呆気にとられるセルゲイの翠の瞳に、ロシア宮廷の公用語であるフランス語で言って、マコトは睦子の手を引き走り出した。


「安全確保のための、一時退避だ」


 睦子にそれだけを早口で伝えて、ペラ・パレスホテルのホールを走り抜け、正面玄関へ向かう。


「あ、逃げた!」


 秋月の慌てた声を背に、走る。


 外に出れば、白い三日月と星の赤い国旗が街中を彩っていた。


 マコトは睦子の手を引いたまま雑踏に紛れた。

  

「どこへ行くの?」


 青みがかった白の薄絹が流れ落ちるドレスを翻して睦子が聞く。


 見上げる三白眼気味の大きな目、その黒曜石の瞳には不安と期待が入り混じっていた。


「さあ、どこだろうな」


 マコトは、はぐらかすように答えた。


次回更新は2026年6月18日21時頃の予定です。

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