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48.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑪

 夜露に濡れた白椿のような、青みがかった白の薄絹。


 幾重にも重ねられた薄絹が胸元から腰へ柔らかな襞を描きながら流れ落ちるドレスは、清楚でありながら、背中だけが少し大胆に開いていた。


 髪飾りも、揺れる耳飾りも、首飾りも、つややかに青白く輝く真珠。

 

 すべて、東洋の一級品。


 そして、それを纏う女は、淡い光の中で揺らぐように見える。


 真珠に彩られ、編み込まれたぬばたまの黒髪。


 意志の強そうな弓形の眉。


 くっきりとした二重瞼と、黒揚羽がはためくように上下する長い睫毛。


 三白眼気味の大きな目。


 黒曜石のような冷たい色の瞳。


 陶器のように白い肌。


 冴え冴えと凍える夜の月のような美貌。


 なのに、男を見上げ、薄紅色の小さな唇に笑みを浮かべると、冬の月の美貌が、春風のような少女めいた可憐さに変わる。


 なのに、大きく開いた背は、思わず目を背けたくなるほど、背徳的な色気を湛えていた。


 東洋人にしてはスラリと手足が長く、デビュタントの少女でありながら、美しさと艶と存在感は、一級品。


 絹の上質な手袋に包まれた手が、白手袋の男の手に重なる。


 彼女が手を取った男もまた、美しかった。


 さらりと流れる髪は太陽の光のような、眩しいプラチナブロンド。

 

 少し困ったように下がった眉と、優しげに輝く新緑のような翠の瞳。


 やや丸顔ではあるが、彫りが深く整った顔立ち。


 精悍な笑みを浮かべる大きな口。


 背中が広く、身長が高い。


 だが、雄々しいだけではなく、その立ち姿は優美。


 仕立ての良いタキシードは一見、黒に見えるが少しばかり青が滲むミッドナイトブルー。


 黒の絹のラペルに、銀のラペルピンが揺れていて、洒落者という印象を受ける。


 その彼の一挙手一投足に注目が集まっている。 


椿(つばき)、私と踊ってくださいますか?」


 熱の籠もった翠の目で見つめられ、椿、と偽名で呼ばれた睦子(ちかこ)は、


「ええ」


と応じる。


 彼女の表情は、後ろ姿からは当然見えない。


 でも、その後ろ姿の大きく開いた背中の、艶めかしい肌を見た瞬間、喉がひどく渇いた。


 目を逸らすべきだと理解していたのに、一瞬遅れた。


 ざわつきの中、睦子の手を取り、ペラ・パレスホテルのパーティー会場の中央へ連れて行った男の名前。


 セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフ。


 社会主義革命で滅びたロシア帝国の帝位請求権を持つ青年だ。


 継承順位は第二位、二十五歳。


 ──欧州の王族皇族の慣習に照らすなら『十九歳の女帝』の配偶者として釣り合う身分、だ。


 トルコの建国記念日に当たる共和国記念日、その前夜祭における、この出会いは、仕組まれ、お膳立てされたものである。


 睦子の背にセルゲイの手が添えられる。


 ワルツの調べに、薄絹がたなびく。


 黒曜石と翠の視線が絡まる。


 ──思わず目をそらした。


 昨日仕上がったばかりの紫黒の上質な生地の三つ揃いを着用し、通訳として随行したマコトは、ホールの中央で老若男女の注目を集め、ワルツを踊る美しい二人を見て、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「やっぱり絵になりますね。『うちの姪』と彼」


 睦子の財閥令嬢という偽装身分『椿』の叔父役の、タキシードを着た秋月(あきづき)傳三郎(でんざぶろう)が呑気な声で言う。


 それが余計にマコトの神経を逆撫でた。


 平静を装うように、手に持つグラスのシャンパンに口をつけるふりをした。



 ──なぜ、この様な事態になったのか。



 話は、同日午前二時頃に遡る。



   *



 カメリア・パレスの一階の食堂で。


 綾小路はサモワールに炭を足し、温め直した湯で紅茶を淹れた。

 イラクの砂漠での野外調理の手つきは不慣れで不器用だったのに、サモワールの扱いは手慣れていた。


「サモワールの使い方は知ってるんですね……」


 不思議に思うマコトに綾小路は言った。


「僕、本省勤めの前に、アンカラの大使館で三年ほど一等書記官をしとったやろ。だから、サモワールの扱いには慣れてんねん」

「……使用人に任せずにご自分でなさることもあったんですね」

「澤城さん、僕を何やと思うてるん? お茶ぐらい淹れられるわ」


 何、って、お公家さんのお坊ちゃん、とマコトは思ったが、口には出さない。


 イランのテヘランからトルコのディヤルバクルまでのトラック旅の間は、睦子の茶のついでに綾小路の分も用意していた。


 単に野営慣れしてなかったのと料理が出来なかっただけか、とマコトは小さくため息をついた。


 ポットとカップをトレーに乗せ、綾小路は糸のように細い目を、さらに細めて言った。


「込み入った話は部屋でしまひょうか」


 妙に優しい声であること『も』引っかかる。


 ──エリザベスとダニエル他、MI6のカメリア・パレスの監視の記録にあった綾小路の外出の履歴が、自分の記憶と一致しなかった。


 厨房の食料庫がどこかに繋がっているのは間違いない。


 階段を上がり、二階の綾小路と相部屋の自室に戻った。


 綾小路はライティングテーブルにトレーを置き、ポットの紅茶をカップに注ぐ。


「ちょっと冷めとるけど、どうぞ」


 マコトはカップを受け取るが、口をつけずに、綾小路をじっと見る。


「用心深いねえ、あんたは」


 デスクチェアに座った綾小路が、紅茶に口をつけて、苦笑する。


 そして、折り畳まれた紙片を内ポケットから取り出す。


「これは、お上が、秋月財閥の令嬢の秋月(あきづき)椿(つばき)として招待されとる前夜祭のパーティーの招待客名簿や」


 紙片を綾小路はマコトへ渡す。

 

 受け取り、開くとタイプライターで印字された招待客の名前が並んでいる。

 

「……同じものは一度確認していますが?」


 マコトは首を傾げながら、確認する。


「同じ、ちゃう。赤鉛筆で書き込んでるやろ。お上も偽名を名乗るし、他にも偽名を名乗っとるのが┃たくさん《ぎょうさん》おるんやけどな……」


 財界人の他に亡命者の集うパーティーだ。

 それは、マコトも承知していた。

 偽名の者の素性については、侍従で財閥家の三男の秋月傳三郎から、可能な限り聞き取りをしたはずだった。


「伏せられとったやろう。調べるのに骨が折れたわ」


 なのに、一番の大物が漏れていた。


 とある男の名前の下に書かれた『Sergei Nikolaevich Romariev』の赤文字。


Romariev(ロマリエフ)……って、ロシア帝室の姓ですよね」


 マコトがポツリと漏らすと、綾小路は頷く。


「皇太后様の差し金やろうな。娘可愛さに余計なことなさらはったんや。牧原侍従長は皇太后様の命令で動いとる」

「──陛下のお母様が?」


 マコトは先日、睦子が言ったことを思い出す。



『私は、弟の治世が戦争責任なんてものに汚されないために位についた。不名誉はすべて私が持っていく。お母様(皇太后)もそれを望んだから……』



 不名誉は、娘に──皇太后はそのように望んだはずだ。

 

 不審そうなマコトの顔を見て、綾小路は首を横に振った。


「いや、娘可愛さというよりは人身御供にしたことへの贖罪やろうな。何につけても東宮様が一番やねん、あの御方は。どちらにせよロクでもないことをしてくれはったのは間違いあらへん」


 綾小路は眉根を寄せる。

 おそらく彼は皇太后を快く思っていない、少なくともマコトにはそう見えた。

 

 綾小路は摂政久慈宮(くじのみや)丹羽宮(にわのみや)泰彦(やすひこ)現首相の間諜だが、睦子には情がある。

 忠義と身内への情に似たような何かだ。

 

「ロクでもないこととは……?」


 マコトが問うと、綾小路はため息をついた。


「皇太后様が、春から夏にかけて帝室財産を欧州へ移すときに、あっちこっちに親書を送ってたらしいんやけど、そのうちの一つがロマリエフ宛やったんやて。娘の結婚相手にふさわしい年頃の青年がいれば(めあわ)せたい、持参金もはずむ、と書いとったらしい……つまり、これは、縁談や」


 忌々しげに、綾小路は額に手を当てる。


「縁談……? 女帝は生涯独身が大八洲(おおやしま)帝室の慣習ではなかったのですか……?」 


 マコトは恐る恐る聞いた。

 だから、丹羽宮との婚約は解かれたと、聞いている。


 綾小路はサラサラと額に落ちる黒髪をぐしゃりとかき上げる。


「女帝は男系継承の皇統を混乱させんために、結婚も出産も許されへん。それを破ろうとしとるんや、あのお人らは」


 苦々しげに吐き捨てる。


「父系から帝の血筋を引いていること、これが大八洲の帝位継承権の条件や。千年以上前から現在まで『女帝』という母系の権威のみによる継承は、ずっと避けられとる。避けるために女帝は生涯独身の定めがあるんや」


 マコトは頷く。


「……古代の女帝が寵愛する僧を帝の位につけようとした事件があり、そのことからも女帝の血筋からの継承が忌避されているとも、聞いたことがあります」


 マコトの言葉に綾小路が、一瞬、鋭い目線を投げかける。

 

「そういう話もあるにはあるけどな……」


 綾小路は静かに呟き、目を閉じて、息を吐く。

 そして続ける。 


「お上は戦時特例の中継ぎ──東宮様を温存して敗戦処理をするために立てられた女帝や。処刑か譲位が前提や」


 綾小路が柔らかな声で発した『処刑』という言葉に、マコトは腹の底が冷えるような心地がした。


「もっとも、ロマリエフ家に輿入れしたら連合国も手ぇ出しづろうなる。ロマリエフ家は英国王をはじめ欧州王族の親戚やから、その中に入ってしまえば英米としてはやりづらい。せやから戦争責任かって有耶無耶になるやろうし、莫大な持参金として国際法上、合法に皇室の外貨資産の保全も出来る。亡命皇族のロマリエフはカネがあらへんから美味い話やし、三方良し、よう考えたもんやと思うわ」


 綾小路は膝を打つ。

 ロマリエフと婚姻を結べば、最悪の『処刑』は回避出来るだろう。

 でも、表情は曇ったままだ。


「……欧州では基本的には父系での継承が優先やけど、英国みたいに女王の子が継ぐこともある。女帝に皇配がおるのは当たり前や。せやから、大八洲の慣習と継承法が融通が利かん、というのも僕個人は理解しとる。皇配を持ったほうが、お上もお幸せになれるかもしれへん……あの御方は降嫁する前提でお育ちあそばされたんや。独り身の女帝なんて気の毒や。でもな」


 息を大きく吐き、綾小路は項垂れる。


「一度、前例が出来れば、人はそれを拡大解釈する。世の常や。未来に禍根が残るやろう。しかも、今回の縁組はロマリエフ……欧州の皇族との縁組は前例がない上に、大八洲の女帝がロシア帝位請求権を持つ子を生むことになる……将来、ソ連情勢が変わったときに、どれだけの火種になるか、わからへん。危険すぎるんや。よその国の争いに巻き込まれるんは堪忍してほしいやろ?」


 マコトは瞬きをして、頷く。


「理解は出来ます」


 綾小路は顔を上げ、気を取り直すように、紅茶を一口飲む。

 そして、小さく息を吐き、口を開く。


「せやから、澤城さんは心のままに、この縁談が流れるように、動いてくれて、かまへん」

「は?」


 優雅に紅茶の香りを楽しむ綾小路の発言に、マコトは首を傾げる。


「向こうの顔を潰さんように、明日のパーティーの顔合わせは避けられへんけど、あとはよしなに」

「……よしなに、って……」

「私情で好きに動いてかまへん」

「いや、そんな、急に軽く言われましても」

「こんなん、軽く言うしかあらへんやん」

「いや、でも……」

「あんたとお上が恋仲になるんを許したわけちゃうけどな。それより、もっと話は国家規模で深刻やねん」


 綾小路の歯ぎしりの音が聞こえた。


「だからといって……」


 怪訝な顔で俯くマコトに、表面上は平常心を取り戻した綾小路は、さらりと言う。


「ほんまは、ソ連とトルコの高官にたくさん(ぎょうさん)パイプのある三崎さんが、この話を止めてくれるはずやったんやけど、殺されてしもうたし」


 マコトはハッと顔を上げ、綾小路に問う。


「……誰が犯人か、綾小路殿は、心当たりがあるのですか? というか、厨房の収納庫は大使館事務所へ繋がってるんですか?」

 

 綾小路はふっと笑って、ポットからカップへ紅茶を注ぎ足しながら言った。


「僕は犯人は知らんけど、地下通路は大使館事務所に続いとるよ。あの屋敷をイスタンブールの大使館として外務省が買い上げたときから既にあったらしいから、オスマン帝国時代のもんやろうな。あんたに教えたら、お上と結託してロクなことせんやろうから、牧原侍従長が箝口令を敷かはったけど」

「……抜け道は、綾小路殿と牧原侍従長以外に、誰が知っていますか?」


 紅茶を一口飲んで、ふう、と綾小路はため息をつく。 

  

「カメリア・パレスと大使館事務所の非常脱出経路に指定されとるから、ほぼ全員、やろうな。お上とあんた以外」


 ──つまり。


「……大使館事務所の外交官や武官だけでなく、カメリア・パレスの人間も……」

「全員が三崎夫妻殺害の犯行が可能ってことや。牧原侍従長も怪しいし、僕も等しく怪しいってことや」


 マコトの呟きを引き取った綾小路が事も無げに言って、紅茶を煽った。



   *



 ──この縁談を成立させてはいけない。


 カメリア・パレスの人間のうちの誰かが、『縁談を成立させるために』三崎を消したのなら。


 裏にまだどんな意図が隠されているのか、わからない。


 ここは、イスタンブールの新市街、ベイオール地区にある、著名人に愛され、現在は亡命者が集う、ペラ・パレスホテル。


 アール・ヌーヴォー調のガラスのドーム屋根と百合の花を模した豪奢なシャンデリアの下で。


 月下の白椿のような東洋の姫君は太陽の恩寵を受けたような西洋の貴公子にリードされて、ワルツを踊る。


 その姿は、美しいお伽噺のように見える。


 人々はため息を漏らす。


 でも、このお伽噺に『めでたしめでたし』は、あってはいけない。


 ──これが、正しい『幸せ』、かもしれなくても。


 睦子が生涯独身の定めから解かれ、夫を持つことが出来るかもしれなくても。


 手に持つグラス──ダンスの前に睦子から預かったもの──を握りしめる。


 ──何割が理屈で、何割が私情なのだろうか。


 マコトは自嘲するように笑って、踊る二人を見つめた。


 未来の国家的禍根など、どうだっていい。


 彼女が幸せに生きていれば、それで良かったはずなのに。

 

 ──たぶん、俺は、睦子の幸せを祈れない。


 自分には幸せにする地位も身分もないのに、どうしようもない私情を自覚する。


 そして、誓う。


 ──この縁談、ぶっ潰す。


次回更新は2026年6月11日(木)を予定しております。

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