表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/50

46.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑨

 先帝の第一皇女陽宮(はるのみや)睦子(ちかこ)は、傍系皇族に降嫁し宮家の妃になるための教育を受けてきた。


 弟の東宮が幼少だから、『中継ぎ女帝』の想定が、なかったわけではないが、先帝の照和帝(しょうわてい)は齢四十を幾らか過ぎても身体頑健で、健康不安などはなかった。


 ゆえに、東宮が成人する前に崩御するとは、あまり想定されていなかった。


 それに、先帝には久慈宮(くじのみや)をはじめとする弟宮もいた。


 だから、睦子が帝位につく可能性は、極めて低く見られていた。


 その見通しで、彼女はあくまでも帝国の『社交界の華』になるように育てられたので、統治のための帝王学を修めていない。


 なのに、先帝は戦時中に崩御し、東宮でも久慈宮でもなく、睦子が帝位にのぼった。


 そして、敗戦とともに亡命し、現在はトルコのイスタンブールにいる。



 ──彼女は今、想定外の未来に立っている。



「あ、お上。右手薬指の指輪はトルコでは婚約の意味ですよ。外交顧問の綾小路さん以外は気づいていないですけど、外しておいたほうがいいと思います」


 女官の橘は小さな声で睦子に忠告した。


「では、失礼致します」


 そして、書斎から立ち去る前に、振り返り、トルコ語の本の表紙を指さす。


「あ、それからこの本は従兄弟で婚約者……その彼の浮気を知り、主人公の女が結婚を取りやめて逃げる話なんです。丹羽宮(にわのみや)様と婚約破棄なさったお上と、少々境遇が似ております。読み終わったら、お貸ししましょうか?」

「……私は丹羽宮に愛人がいたことはどうでも良かったのよ。間延びした馬面が好きになれなかっただけ。婚約破棄は帝位についたせいだし……あとトルコ語は読めないから結構よ」


 長い睫毛を伏せた睦子は、右手のガーネットの指輪を左手で隠すように押さえて、首を横に振る。


 指輪は、マコトがテヘランで睦子に買い与えたもの。


 英国人と華僑の夫婦に偽装するための『結婚指輪』だった。


 大八洲(おおやしま)帝国と英国の二重国籍のマコトが、英国籍の方の──マシュー・エヴァンスとして、その妻のハル・エヴァンスに贈った、ということになっている指輪。


 元は、左手薬指にはめていたものだ。


 橘は書斎を出ていった。

 扉がバタンと音を立てて閉まる。


「……橘は物語が好きで、色んな国の言葉が読めるのだけど、話すことには興味がないから、発音がサッパリなのよね」


 そう言いながら、睦子は右の薬指の指輪を外して、左の中指にはめてみようとしたが、入らない。

 右の中指も、もちろん駄目。

 小指にもはめてみたが、緩い。


 睦子は大きくため息をついた。


「……マコト、悪いけど預かってて」

「……返すのか?」

 

 マコトはわずかに片眉を上げた。


「違うわよ。預けるだけだからね。いつか返してもらうわよ」


 仏頂面で、睦子はマコトに指輪を手渡す。


「居間へ戻るわ。それから、ダニエルとエリザベス(リズ)のこと頼んだわよ。調べておいて。お願いね」


 やはり、彼女の命令は『お願い』なのだ。


 この人に帝としての統治や亡命宮廷の制御は難しいのでは──そんな不安がマコトの胸に沈殿する。


 マコトは掌で光るガーネットの指輪を見て、居間へ戻る睦子に続く。


 この指輪は、既に本来の役目を終えたものだ。


 ──いつか、返せる日が来るのだろうか?


 そんな、詮無きことを考えながら、彼女の背中を追った。



   *



 後で橘が持っていた本の表紙のトルコ語を辞書で調べてみたら、それは、『ミソサザイ』という小さな鳥の名前だった。


 あの本の主人公と境遇が似ているらしい睦子のお印は蝶。


 鳥と同じく、空を舞う蝶。

  

 ならば蝶は、籠の中で暮らすのか、それともはばたくのか。


 ──それとも、翅をもがれるのか。


 今のマコトには、どうなるのか、皆目見当がつかなかった。


 だが、一つだけ気づいたことがある。


 亡命宮廷は、亡命政権を機能させるためのものではない。


 睦子を亡命政権の女帝に祭り上げるにしては、政治や外交に関与出来る人間があまりにも少ない。


 香港を出る前に上官の藤木中佐から聞いた『亡命政権』の構想──眉唾ものだ、と藤木自身も言ってはいたが──やはりそんなものを維持するようには考えられていない。


 人員の選抜基準も、能力でも、忠誠心でもない。


 ──生き延びることに特化した人選。


 それが、ここに着いて五日目のマコトの正直な感想だった。


 生き延びるとはいっても、個別に戦闘能力が高いわけではない。


 ただ、帝国の敗戦を悲観し、絶望している者はいない。


 ここにいる者は、たとえ『女帝に万が一があっても』、各々が生き残るために動くだろう。


 ここにいる者は。


 ──女帝を利用しようとしているのかもしれない。

  

 だとしても、不思議ではない。


 でも、あまりにも、個々がバラバラな印象だ。

 

 女帝の恋を黙認し協力する女官、荻野三也子。


 軍需産業を担う財閥の子息の侍従、秋月傳三郎。


 貞操観念に問題がある女官、菊池蓉子。


 トルコ語の書物を読みこなすが堂々と仕事をサボる女官、橘桂子(けいこ)


 癖が強いだけなのか、それとも──何か理由があって配置されているのか。


 侍従の日向や、他の者たちは職務に忠実だが、上海に『残った』青木女官長を筆頭とする『忠臣』たちとは明らかに毛色が違う。


 それに、外交顧問の綾小路と牧原侍従長も、目的が完全に一致しているようには見えない。


 綾小路は摂政久慈宮と丹羽宮首相から指示を受けているようだが、牧原侍従長はどうも系統が違うように感じる。


 そもそも、牧原寛太郎は海軍大将から退役後、近代国家への変革を遂げた明知大帝を祀る神宮の宮司という、名誉と実務を兼ねた地位に就き、今年1月に女帝の侍従長に抜擢された人物だ。

 帝室の祭祀に深く関わっていたとはいえ、宮廷からすれば外様(とざま)だ。


 特に姫宮御殿の紅梅寮時代からの持ち上がり組の女官や侍従にとっては、牧原は外部から来た上司だ。


 つまり、一枚岩からは程遠い。


 ──そして、なぜ、隣の大使館事務所で事務長三崎とその妻が殺害されたのか。


 実行犯は事務所内部だとしても、その指示は、亡命宮廷(カメリア・パレス)側と繋がっているのだろうか。


 牧原侍従長が、三崎夫妻は自殺だ、と言った目的は何だろう──?


 犯行に使われたのは、おそらく英国か米国製の消音器付きの拳銃だ。

 だが、バルコニーから見えた範囲に、銃痕が多く、軍人の仕事にしては『無駄撃ち』が多かった。

 ざっと見えただけで、壁に二発、夫人に三発、三崎に一発。

 装弾数六の英国製の消音器付き拳銃なら、撃ち切っている。

 

 大使館事務所の陸軍海軍駐在武官の二人のどちらかが実行犯とは考えにくい。


 ならば、誰が──?


 あの手の銃は、入手出来る人間が限られている。

 訓練された諜報員(エージェント)のための銃だ。

 それを、あんな撃ち方をする人間が扱うはずがない。


 ──不審なことはたくさんあるのに、点と点はバラバラで、線が繋がらない。


 マコトは顔を上げる。

 

 時計は午前零時を指した。


 謹慎処分はこの時間をもって終了だ。


 同室の綾小路は今日も午前様のようだ。


 ──綾小路も何らかの工作に励んでいるのは間違いない。


 小さくため息をついたマコトは背広の上着を羽織り、中折れ帽をかぶり、部屋を出た。


 回廊を抜け、階段を降り、正面玄関ロビーで近衛兵──といっても軍服ではなく警備員に扮した伊集院(いじゅういん)片桐(かたぎり)に、マコトは中折れ帽を取って軽く会釈した。


「おい、ちょっと待て、特務のスパイ。こんな夜更けにどこへ行く気だ?」


 だが、伊集院が突っかかる。


「陛下のお使いで、少々」


 マコトが囁くように言っても、伊集院は生意気そうな大きな目で()めつける。

 片桐も常日頃の昼行灯めいた穏やかさを引っ込めて、不審そうな目を向ける。 


 帝及び宮城(きゅうじょう)の守護のため、帝国全土から選抜された最精鋭の近衛隊は、出自、容姿、能力、そのすべてが揃っていることが当然とされる。


 ゆえにエリート意識が高い。


 だから、どこの馬の骨とも知れない特務機関出身で、その上混血のマコトを、伊集院と片桐は見下している。


 そして、女帝直々の指示で雇い続けられ、側に(はべ)っていることを快く思っていない。


「おい、やめろ。伊集院少尉、片桐少尉」


 一階の奥から出てきた寝間着姿の角刈りの男が制止する。


 男の名前は樺山(かばやま)久通(ひさみち)


 樺山は元は近衛第一師団歩兵第一連隊連隊長で、階級は大佐。


 伊集院や片桐の、現在の直属の上官だ。


 樺山は、食堂で白湯でも貰ってきたのだろうか、湯気が立つ湯呑みを持っていた。

 そして、無意識に胃のあたりを手で擦る仕草をする。


 ──そう言えば、この人は、一応は帝国及びカメリア・パレスの現状を憂いているよな。


 マコトは思い出す。


「……陛下の言いつけなら、行っていい」


 苦々しげに言った樺山に、マコトは会釈をして、助かったなと思いながら、カメリア・パレスを出る。


 ふわりと吹く風にかすかに潮の匂いが混じっていた。


 マコトは海から漂う湿った空気を吸い込み、吐き出す。


 深夜で人通りも車通りも絶えたイノニュ通りを渡り、向かいのアパルトマンのドアを静かに開ける。


 管理人は居眠りをしている。


 管理人室の前を、足音を立てず通り抜けて、階段を上がる。


 三階の海側の部屋のドアをノックする。


 しばらくしてから、ドアが開いた。


 白髪が幾筋か混ざったくすんだ茶色の頭がドアの隙間から覗く。

 少し眠たげな榛色(はしばみいろ)の目がマコトの方を向く。


「やっぱり来たか、マシュー」


 マコトの英国名を呼び、MI6の諜報員(エージェント)、ダニエル・スペンサーが部屋へ招き入れた。


 ドアを閉めるなり、マコトは言った。


「ダニエル。大使館事務所の事件について聞きたい」

「挨拶もなしとは、随分だな?」


 ダニエルは芝居がかった仕草で肩をすくめる。


 彼は英国製の消音器付きの拳銃を入手が可能な諜報員(エージェント)で、なのに、射撃の腕前が壊滅的。


 消音器付きの拳銃が使われた、やけに『無駄撃ち』の多い殺人現場から推測すると──。


「三崎夫妻はあんたが()ったんじゃないよな?」


 目下、一番怪しいのはダニエル・スペンサーだった。


次回47話の更新は2026年5月28日(木)21時頃更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ