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45.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑧

澤城(さわしろ)さん、助けてええ」


 昼下がり、二階の部屋で一人トルコ語の習得に勤しんでいたマコトに秋月(あきづき)傳三郎(でんざぶろう)が泣きついてきた。


 ここは、大八洲(おおやしま)帝国の女帝のイスタンブールでの仮御座所、カメリア・パレス。


 そして、その隣の在トルコ大八洲帝国大使館イスタンブール事務所で、事務長の三崎夫妻が遺体で見つかってから、三日。


 マコトは女帝・睦子(ちかこ)を夜間に無断で連れ出した咎で、牧原侍従長より謹慎処分を食らっていた。

 クビになるかもと思ったが、『彼をクビにするなら、牧原、あなたの監督責任も問うわよ』と睦子がゴリ押したため、とりあえず三日の謹慎処分で済んだ。

 そして、今日が三日目、謹慎最終日だ。


 ──済んだ、と思っていいのかは、わからないが。


 閑話休題。


 とりあえず、ノックもせずにドアを開け放った猿、ではなく、猿顔の秋月財閥の非常識三男坊にして女帝の侍従の話を聞かねばならない。


「助けて、とは?」


 マコトはこの三日間、謹慎中だというのにたびたび駆り出されていた。


 同室の綾小路も朝から晩まで外出して不在で、監視役が日中はいない。

 牧原侍従長も、綾小路ほどではないが外出が多く、不在がちだった。


 監視の人員は、もっぱら女帝である睦子の方に割かれている。


 ゆえに、マコトの謹慎処分があまり機能していない。


 用を足す以外部屋から出てはならない、という体裁上、侍従の日向(ひゅうが)が朝昼晩の三食を部屋まで運んでくるが、それだけだ。


 昨日などは、『一番背が高いから』という理由だけで館内の電球の取り替えに付き合わされた。


 ちなみに秋月は、高所恐怖症で脚立に上れないのだと言い、マコトが作業しているのを、ただ見ているだけだった。

 厳密には、へらへら笑いながら電球を手渡す係に徹していた。


「陛下が、澤城さんを連れてこいって言うんです」


 そして、秋月の回答は要領を得ない。


「秋月さん、あの、用件の結論だけを言わないで、理由を教えてもらえますか……?」


 曰く、明日、イスタンブールの外交官や財界人の集まるパーティーに出席するので社交ダンスの練習が必要なのだが、秋月は壊滅的にダンスが苦手らしい。


 五階の女帝の御居間では、睦子が腕組みをし、仁王立ちで待ち構えていた。


「マコト、あなた、社交ダンスは出来たわよね?」

「……アレクサンドルだったときに一度だけ踊りましたね。そんなこともありましたね」


 上海でマコトが混血の容姿を生かし、ソ連外交官を偽装して睦子に接触していた頃、滞在時間を引き延ばす口実のため、様々な暇潰しに付き合っていた。


 チェスや囲碁将棋、カードゲームなどに興じたり。

 ピアノの連弾に付き合ったり。

 レコードや映画の鑑賞など。

 様々な健全で実にくだらない遊戯で、時間を潰し、滞在時間を引き延ばしていた。


 ──ワルツを踊ったのは一度だけ。


 社交ダンスを暇つぶしにしたのは、一度きりだった。


 ──女帝に軽々しく触れるのは、あまり良くない、と。

 

 指や背に触れていることを、必要以上に意識してしまうのが厄介だったことを覚えている。


「……下手だったことは、覚えておいででしょう?」

「わざと下手に踊っているように感じたのは覚えてるわ」


 マコトは心の中で舌打ちをした。


 この女帝は妙に勘が良いのだ。


「……場末のダンスホールで踊る程度のものですよ」


 あくまでも、諜報員として女性から情報を取るための手段の一つに過ぎない。

 上手くもなければ、下手でもないし、好きでもないし、嫌いでもない。

 

「十分よ。これ以上、私が秋月に教えて、足を踏まれるのは、まっぴら」

「というわけなので、すみません、澤城さん」


 わざとらしくしょげる秋月に睦子は冷ややかな視線を送る。


「男性パートのお手本がないからダメなのよね。マコトと一度踊ってみるから、見てなさい」


 睦子がマコトへ優雅な仕草で手を差し出す。

 マコトはその手を取る。


「レディから手を差し出すのは、マナー違反です、陛下」

「わかってるわよ」


 さっきからずっと部屋の隅の蓄音機の側に静かに控えていた女官の荻野が、レコードの針を落とす。


 ジジッと雑音の後に少し割れたワルツの曲が流れる。

 マコトは睦子の背中に手を添えて、軽くステップを踏む。

 彼女が合わせてくれるので、多少拙くてもリード出来ているように見える。 


「あなたも行くんですよね、そのパーティー……共和国記念日の前夜祭の」


 明後日、10月29日はトルコ共和国の建国記念日に当たる、共和国記念日だった。


 明日の午後からは祝日で、街は赤と白の国旗の色と初代大統領の肖像で埋め尽くされている。


 睦子は小さく嘆息しながらワルツのステップを踏む。


「秋月財閥の令嬢を装ってね。正体を隠して顔つなぎだけでも、と牧原も言っているわ」

「俺の謹慎がたった三日で解ける理由ですね」

「ええ、護衛が出来る通訳が必要だから……橘が大急ぎでドレスの直しをしてるわ」

「亡命前の採寸で仕立ててしまった、のか……?」

「痩せてしまったから脇を詰めてもらわないといけなくてね……あ、でも胸の大きさはほぼそのままだから安心して」

「……何を安心?」

「あなた、おっぱい好きでしょ? よく見てたじゃない」

「嫌いじゃありませんが、そんなに見てません」


 マコトは視線が決して下に向かないように、顎を引く。


「オレ、何、聞かされてるんですかね……女帝とご寵愛の君(さわしろさん)猥談(わいだん)?」


 秋月が何か呟いているが、マコトは聞かなかったことにして踊る。


 睦子はくるりとターンをして、クスッと笑う。


「こうやって密談するのよ、秋月」


 少しだけ声を大きくして、睦子が言う。


 だから、これは聞かれてもいい内容なのだ。


 少なくとも睦子は、そう思っている。



   *



「で、本物の密談はこれからですか?」


 秋月の練習相手を荻野に一旦任せて、睦子はマコトを連れてバルコニーへ出た。

 ボスポラス海峡から吹き付ける風が、少し冷たい。


「風が強いわね。寒いから早く中に入りましょうか」


 ふるりと震えた睦子は居間に戻らず、隣の書斎のフランス窓を開ける。


「よかった。荻野が鍵を開けておいてくれて」


 廊下には側衛官(そくえいかん)廣田(ひろた)土屋(つちや)がいるので、あえてバルコニーを通ったのだろう。


「……陛下って、妙に手慣れてますよね」

「何が?」

「上手い具合に脱走するのが」

「帝都にいた頃は、よくやっていたもの」 

「……」


 この人の性格を考えたら、そうだろうな、と絶句しながらマコトは思う。


「荻野は私が九つのときから仕えてくれて、色々と助けてくれたのよね」


 ──融通のきく女官を抱き込んで、バレないようにちゃっかりと。


 上海では状況と立場を理解して脱走こそ、していなかっただけで。


 ちなみに、三日前のバルコニーから脱出したのだって、元は睦子の提案だ。


「まあ、座りなさいよ」


 睦子がカウチに座り、手招きをする。

 マコトは逡巡したが、誰も見ていないし、押し問答をするのが面倒なので、隣に座ることにした。


「それで、何か情報は増えた? 隣のご夫婦の件は?」


 睦子の質問にマコトは首を横に振る。


「綾小路殿は何も教えてくれないし、秋月さんに連れ出されてはいるけど、雑用させられてるだけだな。一個だけ手掛かりは増えたけど……」

「何よ? 一個だけ手掛かりって?」

「イノニュ通りの向かいのアパルトマンの三階にダニエルとエリザベスがいる。たぶん、こちらを監視している」


 秋月に電球の取り替えをさせられていたときに気づいた。

 英国秘密情報部MI6の二人とは、金角湾のカラキョイ港で別れてからそれっきりだったが、交代して帰国とはならずに、監視任務を継続することになってしまったらしい。


「……つまり三日前も何か見ていたかもしれない、ってこと?」

「そういうこと」

「そう」


 睦子は首をかしげ、マコトの肩に寄りかかる。


「ねえ、マコト」

「……そっちは何か増えたか?」

「いいえ。明日の予定以外は何も知らされていないわよ。ねえ、マコト?」

「何ですか? 陛下」

「ねえ、二人っきりのときぐらい、陛下って呼ぶのやめてくれないかしら?」

「……」

「┃睦子ちかこ、って呼んで?」

「……それは、あまりにもただならぬ呼び方ではありませんか?」

「私たちって、ただならぬ関係じゃないのかしら?」

「そういう回答に困る質問はよそうか……」

「ねえ、睦子、って呼んで」


 睦子は潤んだ黒曜石の瞳で見上げる。

 浮かんでいる色は、おそらく懇願。


 正直、どうしていいか、わからない。


 ──彼女に恋を断ち切らせなかったのは、自分だ。


 咄嗟に、いや、あえて『個人』としての意味を込めて、何度もその名前を呼んでいる。


 それに、三日前にひどい状態の射殺体を見てしまった『普通の人間』が、心の傷を負っていないわけがない。


 ──名前を呼ぶことで、少しでも落ち着くなら。


「ち──」


 マコトが呼びかけたとき。


「お上まで昼間から男を連れ込まないでください……」


 カウチの背もたれの方から声が聞こえた。

 睦子の涼やかな声ではなく、低めの女の声だ。


「っ……」


 マコトは息を呑んで振り返る。


 トルコ語の表題(タイトル)が印刷された本を片手に持った女が、カウチの後ろで立ち上がる。

 女官のお仕着せの黒いワンピースを着て、黒髪を後れ毛が出ないようにきちんと纏めた彼女は、睦子よりは背が低い。

 でも、どちらかといえば長身の部類で、肩が角張っていて、がっしりとしている。


 存在感のある佇まいなのに。

 なのに今まで、ちっとも気配がなかった。


「橘、なんでここに?」


 睦子に橘、と呼ばれた二十代半ばの女は、切れ長の目をマコトと睦子に向けて、ため息をついて唇を結ぶ。


「……私のドレスを直してるんじゃなかったの?」


 睦子が猫なで声で聞くと、橘はもう一度ため息をつく。


「昼食から戻ったら衣装部屋で菊池さんと近衛兵の戸崎さんがよろしくやってたので……仕方なくここで隠れて、この前にシルケジ駅近くの本屋で買ってきた本を読んでサボタージュしてたんですけど」

「……どこから突っ込んでいいのか、わからないわねえ」


 睦子も、今はあまり強く言えないので、曖昧に濁す。

 マコトは、自分の話術では墓穴を掘るのが関の山だから、一切口を挟まないでいよう、と固く誓う。


「ちなみに、菊池さんの少し前までのお相手は側衛官の廣田さんでしたよ」


 橘が投げやりに同僚の女官の職場恋愛事情を吐く。


 マコトとしては出来れば聞きたくなかった類の情報だ。


 ──牧原侍従長曰くの、御座所での不純異性交遊禁止、とは。


 マコトは軽く頭痛がした。


 睦子も額に手を当てて、小さく呻く。


「痴情のもつれに発展しそうなら、個別に呼び出すけど、一旦は聞かなかったことにしていいかしら……後、今ここで見たこと聞いたことは他言無用よ」


 睦子は大きくため息をついた。


 ──これは、大変だな……。


 癖が強いというか、問題の多い部下、というか臣下が複数人いるのは、難儀だな、とマコトは睦子に同情した。


 そして、懸念した。


 睦子は臣下の掌握が、出来ていないことを。


 最低限の統制しか、していない。


 ──現状、忠誠を誓い、彼女の意のままに動く人間は、幼い頃から仕える女官の荻野三也子、ただ一人かもしれない。


 これは、良くない、とマコトは思う。


 睦子は上に立つ者としての資質はある。


 人を惹きつける才能がある。


 場の空気を都合良く書き換える話術も演技力もある。


 ここぞというときに引かない胆力もある。


 だが、強権的な命令をあまり好まない。


 命令していても、どこか『お願い』しているように聞こえる。


 だから。


 ──放っておけない、と思わせる反面。


 統治する力が弱く、臣下に舐められやすいのだ。


次回46話の更新は2026年5月21日(木)21時頃を予定しております。

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