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44.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑦

 在トルコ大八洲(おおやしま)帝国大使館のイスタンブール事務所は、三階建ての西洋風木造建築だった。


 厳密には一階は石造り、二階と三階が木造で、白く塗られている。


 オスマン帝国時代はここが大使館だったが、トルコ共和国建国で首都がアンカラに移ったため、大使館もアンカラに移転した。

 その後、イスタンブールには出先機関として大使館事務所が残された。


「Je suis votre nouvelle voisine. Je viens vous saluer après mon déménagement.(新しい隣人です。越してきましたので、ご挨拶に参りました)」


 その夜の闇に映える白亜の玄関前にて。


「Le maître des lieux m’a invitée ce soir.

(今夜、この家の主に招かれておりますの)」


睦子(ちかこ)は言った。


 口からでまかせのフランス語が、夜に舞う蝶のようにふわりと甘い抑揚で響く。


 黒揚羽のようにはためく長い睫毛が縁取る三白眼気味の大きな目、夜闇より深い黒曜石の瞳、その眦には得も言えぬ艶が滲む。


 控えめながらも仕立ての良い紺のワンピースを纏った身体はスラリとしているが、曲線の主張がやや強い。


 午後十時に、色香を漂わせる若い女。


 つまり、『そういう女』に見える。


 トルコ憲兵は睦子を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見てから、『誰が呼んだんだよ、この女』と呆れた顔をする。


 中に人を呼びに行き、すぐに戻ってきた。


 憲兵と一緒に東洋人の男が一人、出て来た。


 抑留されている外交官の一人だ。


 おそらく二等書記官だろう。


 彼は怪訝そうに睦子を見て、言う。


「ここの主は妻帯者だが、誰に招かれた? 少なくとも事務長が招くわけがないのだが?」


 揶揄するような声に、睦子は背筋を伸ばし、顎を引く。


 長い睫毛を伏せて、艶と甘さを消す。


「私が『エスコート』に見えて?」


 新聞に載った楚々とした女帝の肖像写真と同じ表情をして、凛とした涼やかな声で言い放つ。


 瞬間、外交官がハッと表情を変えた。


「事務長に会わせてくれるかしら?」 

「……中へご案内します」

「ええ、よろしく。でも先に事務長を呼んでくださらない?」

「はっ! ただ今、呼んで参ります!」


 態度がガラリと変わる。


 そして、その後すぐ、事務長の三崎(みさき)は頭を、その妻は頭と胸と腹を撃たれて血を流し息絶えた状態で、三階の部屋から発見された。



   *



 大使館事務所の二階応接間で、睦子とマコトは待機していた。

 事件が起こったそのときに現れた二人は、念のためと、トルコ憲兵に足止めされていた。


「……なぜ、不審な物音がしたとか、もっと無難なことを言わなかったんだ?」


 半ば正体を明かすような真似はしなくてもよかったのではないか、とマコトは憲兵に聞こえないよう、小さな声で詰問する。


「だって物音、していないでしょう」


 だが、睦子は静かな水面に水滴を落とすような声で言う。


「レコード盤の曲しか聞こえていなかったもの。銃声が聞こえていたら、あなたは私をこの場に連れて行かないでしょう?」


 そう、銃声は聞こえなかった。


 誰も銃声を聞いていない。


 事務長の三崎が握っていた拳銃は帝国製のもの。


 撃てば、室内に反響した音が、必ず外に漏れる。


 レコードの音では、掻き消せないほどの銃声が。


 ──三崎の拳銃は使われていない。


 帝国製の拳銃には消音器を取り付けることは出来ない。


 おそらく、使われたのは消音器がついた英国製か米国製の拳銃だろう。


「三階のバルコニーの窓から見えた光景は無理心中のようだったが、あれは他殺だ。事務長が握っていた銃とは違うものが使われている」


 マコトは睦子に耳打ちをして、眉間に皺を寄せる。


 それに、窓には内鍵がかかっていた。


 赤いリボンを回収し路地に降りる前に、マコトは目視で確認した。


 大使館事務所、内部の犯行だろう。


「じゃあ、私たちを犯人に仕立てる罠だったのかしら?」


 ぽつりと漏らす睦子にマコトは首を横に振る。


「いや、手紙にはバルコニーから訪問するなどとは書いていないから、それは違うな……」


 理論上、不可能だ。

 バルコニーから訪れる計画は『二人しか』知らない。


 ちなみに、正面玄関から『そういう女』を装う手口は、事前の打ち合わせでマコトが却下していた。


 結果的に睦子が咄嗟に再利用したのだが。


「……私のせいかもしれないし、違うかもしれない、そういうことね……」


 睦子がそう言ったところで、カメリア・パレスから、迎えが来た。


 綾小路と牧原侍従長だった。


「Siz o genç hanımın uşağı mısınız?」


『あんたたちはあのお嬢様の使用人か?』


 わずかに聞き取れたトルコ憲兵の言葉から、外交官たちはカメリア・パレス(亡命宮廷)側と口裏を合わせたんだな、とマコトは察した。


 カメリア・パレスは大八洲帝国の大財閥、秋月財閥傘下、秋月物産の駐在員寮ということになっている。


 そこに滞在することになった秋月一族のお嬢様のご乱心、ということにでもして、この深夜の訪問劇を対外的に辻褄を合わせるつもりなのだろう。


 牧原は、睦子に目礼する。


 それからトルコ憲兵を呼び止め、綾小路ではなく、『わざわざ』大使館事務所職員に通訳してくれ、と頼んでから、こう言った。


「三崎くんは、帝国の未来を随分と憂いていましたね……いえ、噂ですけど、随分と奇行があったとも聞きます。自殺でしょうかね。何とも痛ましい」


 ──女帝に類が及ばないようにするためか、それとも。


 それとも意図はなく、正直に証言しただけか……?


 どちらにせよ、牧原侍従長は、捜査を撹乱する証言をした。


次回45話の更新は2026年5月14日(木)21時頃の予定です。

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