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43.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑥

「その前提を考慮して、私は、亡命政権を立てる必要が、本当にあると思う?」


 睦子(ちかこ)はマコトに聞く。

 前提を考慮して──この枕詞はつまり、前提を考慮した上で、覆しても構わない、ということだろう。


「何を目的にしているか……だな。あんた自身は、帝位に執着はあるのか?」


 マコトは国家への帰属意識が薄い。

 帝国のためなど、個人的にはどうでもいい。

 だから聞くのは、個人的な望みだ。


「俺の意見でいいならば……あんたの成功条件は何だ?」


 マコトは少し斜に構えて、問う。


「帝国民族の存続、次に弟の東宮を含む皇族の命の保証、次に私と随員の命の保証、これらを国際的に保証してもらうこと」


 睦子は静かに三つの条件を並べた。


「……やっぱり、権力への執着は無いんだな」

「あるわけないじゃない。私は、弟の治世を戦争責任なんてものに汚されないように、そのために位についた。不名誉はすべて私が持っていく。お母様(皇太后)もそれを望んだから……だから然るべきときが来れば、帝位に未練はないのよ」


 睦子はマコトを見つめる。

 マコトはその視線を受け止め、少しの『引っかかり』を飲み込み、理路整然と返す。


「なら、亡命政権は不要です。民と皇族の安全のために『いざとなれば立つ』──その準備はしていると見せかけるだけで十分です」

「見せかけ、だけね。実にあなたらしい案ね」


 小さく嘆息する。


「やっぱり、そうよね」


 睦子は肩をすくめた。


「米英中からの帝国への降伏要求の最終宣言では、第十項に民族滅亡の意図はないと明記されていたが、皇族の安全は、今のところ不透明だ。それに……行方不明の女帝を戦犯として裁くべきか、新聞各紙の論調がまだ割れている」


 マコトが眉根を寄せて、小さく息をつく。


「そうなのよね……米国が提案する改革は、理念自体はそう悪くないと思うわ。でも……私たちの安全が、ね。民の実態も見えない」


 睦子は新聞を広げ、小さな記事を指で叩く。


「都市部では食糧難が深刻……米国政府も飢餓を警戒しているみたい。支援を検討している、と」


 睦子は一拍置いて、淡々と続けた。


「民が飢えれば、革命思想は簡単に広がるもの……それは米国も望まないでしょうね」

「だろうな……とまあ、ここまでは、俺でもわかるけど、俺はあくまでも現場の諜報員だから、外交や国際政治には明るくない。このカメリア・パレスで一番その筋に明るい綾小路殿は……」


 マコトは顎に手を当てる。


「綾小路は、摂政久慈宮(くじのみや)殿下、丹羽宮(にわのみや)首相陣営の間諜なんだろう?」


 外交顧問の綾小路は丹羽宮の学友で、睦子の叔父、久慈宮とも個人的には親しい間柄だ。


 睦子は頷く。


「ええ。私と叔父様たちの利害が一致しているのか、現状では計れない。だから、綾小路が敵か味方かわからない、と私はアフワーズで言ったわね。今もあのときとあまり状況は変わっていない」

「……なら、まずはトルコで抑留中の外交官を味方に引き入れるべきか……帝国大使館のイスタンブール事務所はここの隣だったな?」

「……なんとか綾小路の目を盗んで会えないかしら? 出来れば、牧原侍従長にも知られずに」

「夜陰に乗じて、か……二人を欺こうと思うならば」

「不純異性交遊のふりでもしましょうか。夜の密会(ランデブー)ということで」

「もう少し言い方、考えましょうか、陛下。牧原侍従長に言われましたよ。『不純異性交遊は禁止です』と」


 流し目で言う睦子を、マコトは真顔で諌めた。


「つまんないわねぇ」

「可愛らしく拗ねても、その手には乗らないからな」

「あら、可愛いと思ってるなら乗ってくれてもいいじゃない?」


 小さく口を尖らせる睦子に、マコトはため息をつく。

 

「それとこれとは話が別です、陛下」

「──はい、そこまでです、陛下」


 マコトの声に別の声が重なる。


 ノックもなくドアを開けた女官の荻野の声だった。


 荻野はつかつかとマコトに歩み寄って、丸眼鏡の向こうからギョロリとした目で見上げる。


「澤城さんをお借りしますよ」 

「は?」


 マコトは胡乱げな声を出し、睦子は不機嫌そうに眉をひそめた。


「ちょっと、三也子まで彼を物扱いしないでよ」

「陛下が今朝、仕立て屋を呼ぶように仰せになったでしょう。今、来てるんですよ」

「……ああ、そうだったわね」

「仕立て屋?」

「澤城さんの三つ揃いを新調するんですよ」

「は?」

「陛下のお付きの通訳がしょぼくれていては困るんですよ。行きますよ」

「話はまだ途中だから、後で戻ってきてねー」


 マコトは荻野に半ば引きずられるように隣室に連行された。


 ちなみに、代金は給金から天引きされるという。


「お仕着せじゃないんですか?」

「違います」


 荻野は無情に言った。



   *



 隣の大使館事務所の外交官たちは、トルコ政府の監視下にあった。

 だが、二日に一回の散歩や買い物など、外出は憲兵の同行を条件に許されているらしい。


 それをマコトは昼食時、カメリア・パレス一階の職員食堂で侍従の日向(ひゅうが)から聞き出した。


『お久しぶりです』


 マコトがソ連外交官を装い女帝・睦子の仮御座所であった上海萬陽ホテルに日参し始めたばかりの頃、日向は案内役に配置されていた。


 色々と黙っていたことを詫びたら、逆に黙ってイスタンブールへ向かったことを詫びられて、世間話をする。


 その合間に。


『隣の大使館事務所の外交官の方々は抑留中と聞きましたが、食事はどうされているのでしょう?』


 そんなふうに問いかけると、今年三十歳になったというつぶらな瞳の青年は、知っていることをいくつか教えてくれた。


 マコトは事務所からぞろぞろと群れをなして出てきた外交官たちの後を尾行した。


 監視の憲兵は二人だ。


 対して外交官はその妻も含めて、七人。


 憲兵は一応の体裁上、付いているだけで厳しい監視というものでもない。

 

 外交官たちの雑談に耳を立てる。


 そしてマコトは、事務長と呼ばれた男にめがけて走り、ぶつかり、背広のポケットに封筒を滑り込ませる。


désolé(デゾレ)(すみません)』


 フランス語で謝り、足早に立ち去った。


 封筒の中身は赤いリボンと、たった一行だけの手紙だ。


『睦言を交わしてくださるなら、夜十時、バルコニーに梅を蝶に結んで』


 赤いリボンを梅と表現したのは、睦子が皇女時代に暮らした御殿が別名『紅梅寮』と呼ばれていたからだ。

 

 リボンの結びと封蝋は蝶。

 

 封蝋の蝶は図案は違うが、睦子のお印を想起させるものだ。


 いささか婉曲的で艶文っぽいが、察しが良ければ気づくだろう。


 ──女帝からであると。


 万が一、手紙が露見しても、マコトが女性の手跡を装って書いたので言い訳は出来る。


 ちなみに、リボンも封蝋のシーリングスタンプも、マコトの上海での女帝関連符丁連絡用の残り物だ。


 そして、夜──手紙の指示通り合図のリボンはテラスの手すりに蝶結びにされている。


 ──一応、伝わったらしい。


 マコトは二階の綾小路と同室の部屋を抜け出し、トイレの窓から外に出て、壁とバルコニーを伝い、五階を目指す。


 カメリア・パレスの壁は装飾が多いため登りやすい。


 マコトは警備上あまりよろしくないな、と考えながらするすると登り、五階のバルコニーにたどり着いた。


 窓が開いた空き部屋の中に紺色のスタンドカラーワンピースを身に着けた睦子が一人で佇んでいた。


「遅い。待ったわよ」


 肩の上でぬばたまの髪を揺らして振り返る。


「待ったって、どれくらいですか?」


 マコトがポケットから取り出した懐中時計は十時ぴったりを指していた。

 品質の良い品ではないので多少遅れている可能性があるにしろ、誤差の範囲内だ。


「一分か二分よ」


 だが、睦子は誤差の範囲を物ともせずに、腰に手を当て胸をそらす。


「私を待たせるだなんて」

「……全然待ってないじゃないですか……じゃあ、お急ぎですから、ちょっと空中散歩ということで」


 マコトは睦子を肩に抱え上げた。


 カメリア・パレスと大使館事務所とは狭い路地を挟んで数メートルの距離だ。


 五階のバルコニーと三階建ての屋根の上なら──。


「絶対に声を出さないでくれよ」


 海風の音に歌謡曲の旋律が混ざる。


 それが聞こえる大使館事務所の方向へ。


 マコトは、部屋を駆け抜け、助走をつけてバルコニーへ出る。


 バルコニーで跳び上がり、手すりを蹴り、跳躍する。


 夜闇の明かりを映すボスポラス海峡を横目に浮遊感を感じる。


 夜空に放物線の軌道を描いて。


 膝を曲げて、勢いを殺す。


 屋根に静かに着地する。


 肩に担いでいた睦子を屋根の上に降ろす。

 息を止めていた彼女が、大きく息を吐く。


「……叫ばないでくれて感謝します」

「っ、必死で我慢したわよ」


 マコトはよろけながら屋根を歩く睦子に手を貸す。


 赤いリボンが手すりに結ばれている三階のバルコニーへ。


 マコトは先にテラスの手すりに降りて、睦子を抱える。


「肩に体重かけて」

「こう?」

「重……」

「うるさいわよっ。これでもちょっと痩せたのよっ」

「テヘランのときよりは軽いけど……」

「じゃあ、つべこべ言わないの」

「でも、俺はちょっと肉付きがいいぐらいのほうが好きなんですよね」

「なっ、なんですって!?」

「声、大きい」


 マコトは軽口を叩きながら、睦子をバルコニーに降ろして、振り返る。


 歌が聞こえる。


 帝国の言葉がブルース調の曲に乗っている。


 少しうるさいぐらいに。


 イスタンブールでは少し珍しい洋風木造建築。


 その白い木枠のガラス窓。


 歌謡曲はその窓の向こうから聞こえる。


 室内には明かりが灯っていて、蓄音機の上でレコード盤が回る。


 その回転から少し視線をそらすと。


 橙の電灯の明かりとも、紺を基調とした絨毯とも違う色が。


 白の壁に飛び散った赤黒い色彩と、複数の弾痕が。


 マコトの目に映った。


 絨毯の上に。


 拳銃を手に持ったまま頭から血を流して伏している男性。


 頭、胸、腹から血を流して倒れている女性。


 おそらく事務長とその妻。


「……っ!」


 窓を開けようとする睦子をマコトは腕を掴んで、止める。


「馬鹿かっ。今ここで飛び込んだら容疑者になる」


 極力声量を落とし、でも鋭く叱りつける。

 睦子は血の気の引いた顔を上げる。


「でもっ……」

「帰るぞ。長居は無用だ」

「まだ息があるかもしれないじゃない!」

「息があったとしても、あれじゃ助からん」

「じゃあ、せめて玄関から。誰かに知らせないと!」

「ダメだ。面倒なことになるぞ」

「お願い! それでもいいから!」

「わかったから、声を落としてくれっ」


 マコトは念のためバルコニーの手すりに括られた赤いリボンを回収した。


 睦子を背負って雨樋を伝い、海側の路地に降りる。


「……どうなっても知らないからな」

「だってこんなの知らないふりして済ませられないじゃないの!」


 大きくため息をつくマコトを置いて、睦子は足早に坂を上る。

 山側のイノニュ通りの角を左へ曲がり、大使館事務所正面へ向かう。


「おい、慌てるな。何て言うか考えてないだろ?」

「考えてるわよ。うまくやるから大丈夫」


 睦子は監視役兼警備のトルコ憲兵の前に立つ。


Bonsoir(ボンソワール)(こんばんは)」


 睦子は艶やかに微笑んで、甘い声に流暢なフランス語を乗せる。


「Je suis votre nouvelle voisine. Je viens vous saluer après mon déménagement.(新しい隣人です。越してきましたので、ご挨拶に参りました)」


 まさかの引っ越しの挨拶。

 この時間に、である。

 フランス語を話す、若くて身なりの良い、美貌の女。


 明らかに不審極まりなかった。


 もう少しマシな言い訳はなかったのか、とマコトは内心頭を抱えた。


次回更新は2026年5月6日(水・祝)正午頃を予定しております。

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