42.1945年(春和元年)10月 イスタンブール⑤
「澤城さん、陛下がお召しです」
午前中、マコトは部屋で綾小路が無言で投げつけたトルコ語辞典を片手に、現地の新聞を読んでいた。
そこへ女官が呼びに来た。
荻野ではなく、別のもっと若い女官だった。
おそらく年の頃は二十代前半。
少しウェーブのかかった黒髪を襟足で緩くシニヨンに纏めている。
身長は荻野よりも少し小柄だが、肉付きは彼女のほうが良い。
荻野も含め、ここの女官たちは、上海には来ていない。
側衛官や近衛兵の面々と共に4月に帝都を発ち、樺太の国境で共産主義者亡命を装ってソ連へ入国、横断という、きな臭いルートでイスタンブール入りしたらしい。
なので、昨日が初対面だ。
個別の自己紹介も、まだだった。
向こうは既に知っているようだが。
「えっと……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
マコトは先導する女官に声をかけた。
ソ連経由組の氏名は把握していたが、上司の藤木中佐から見せられた名簿には写真は添付されていなかったので、顔と名前が一致していない。
女官が振り返り、歩み寄る。
「菊池蓉子と申します。お見知りおきを」
女官の──蓉子の小首をかしげる仕草と、上目遣いで媚を含むどんぐり目と、甘ったるい舌足らずの声と、腕に触れる白い手に、マコトは違和感を覚える。
──口説くつもりで名前を聞いたわけではないのだが。
「澤城さんって、美形ですよね。彫りが深くて、外国の役者さんみたいですね」
「……あ、どうも」
容姿を褒められてもこれっぽっちも嬉しくはないので、マコトは素っ気なく受けとる。
不自然にならないようにそっと振り払い、距離を取る。
「でも、澤城さんって陛下のお手付きなんですよねぇ。残念。陛下って美人だけど、ご気性が少々苛烈でいらっしゃるでしょう?」
「……」
お手付きではないし、手も付けてもいない。
睦子の気性が苛烈なのは否定しないが。
「可愛くって、気立てのいい女の子にしたほうがいいと思うけど、どうですか?」
「……」
マコトは失礼を承知で、質問を黙殺することを選んだ。
見目の良さに、わかりやすく媚を売る人間は『わかりやすくていい』のだが、好悪の感情とはまた別である。
「陛下、お召しの者を連れて参りました」
五階の帝の御居間となっている部屋へ通される。
白のリボンタイブラウスに紺のフレアスカートを纏ったこの部屋の主──睦子は、カウチに身を預け、黒のティーストラップハイヒールに縁取られた長い脚をゆっくりと組み直す。
そして、不機嫌を隠そうともせずに言い放つ。
「私、橘に呼んでくるように伝えたはずなんだけど?」
長い睫毛を伏せる。
少し細められた三白眼気味の大きな目。
その黒曜石の瞳は|射殺〈いころ〉さんばかりに、蓉子を射抜く。
だが、蓉子は動じない。
ニコニコと笑い、甘ったるい声で答えた。
「だって橘さん、『お上のお衣装のお直しで忙しいです』って言うんですもん」
「だとしても、あなたが代わらなくてもいいと思うの」
睦子は優雅に笑みを浮かべたが、眼光は鋭いままだ。
睦子と蓉子、二人とも和やかに笑う。
けれども、部屋の空気は和やかさとは程遠く、頬を切り裂くような吹雪のような冷たさを思わせる。
雨上がりの秋だというのに。
「だって、荻野さんは来客の対応してましたもん」
「御託はいいわ。あなたはあまり彼に近づかないでほしいのだけど」
両者はにっこり笑ったまま、一歩も引かない。
睦子に至っては露骨に牽制している。
「わかってますよぉ。でも、陛下がいらなくなったら下げ渡してくださいね」
だが、その牽制が効いている気配がない。
「物じゃないのよ、彼は。下がりなさい。部屋には誰も近づけないで」
「はーい。失礼致しました」
とりあえず、蓉子が退出したことにより、少しだけ張り詰めた空気が緩む。
マコトは睦子に聞いた。
「お前、あの女官のこと嫌いなのか?」
すると、睦子は小さくため息をついて、艶やかな流し目でマコトを見上げる。
「マコト、私はね、食べ物と人間の好き嫌いは言わないのよ」
睦子の艶っぽい声に、マコトは思う。
──嫌いなんだな。
この妙な艶は、感情を悟らせないための演技だろう。
「あなたは、ああいう子、好き?」
「いや、どちらかというと苦手」
「じゃあ、いいわ」
少し機嫌を直したように、ふふ、と柔らかく笑う。
──これは、想定以上に不味いな。
睦子は、マコトへの好意を隠さない。
亡命のための偽装夫婦の距離感をそのまま持ち越してしまっている。
「で。何のために俺を呼んだんですか、陛下?」
「会いたかったから?」
「デコピンしてもいいですか? 手加減無しで」
「ちょっと、待って、さすがに冗談よ! 仕事の話をしましょう。人払いはしてあるから、座って」
睦子が隣に座るように促す。
「いえ、陛下、俺はこのままで」
マコトは、断固拒否した。
「……つまんないわねぇ」
「つまるつまらないの話じゃないんだよ」
距離をわきまえさせてくれ、とマコトは心の中で天を仰ぐ。
そして、ふと気づく。
「指輪、右にしたのか?」
テヘランで買った偽の結婚指輪は昨夜まで左の薬指にはめられていたが、今は右の薬指に変わっている。
「1月生まれの私が、誕生石のガーネットの指輪をしていても、おかしなことはないでしょう?」
睦子は小さく息をつく。
──意味はずらしたのよ、と言うように。
長い睫毛を持ち上げて、マコトを見据えて、睦子は再び、口を開く。
「……本題なんだけど……新聞とラジオは、ようやく手に入るようになったでしょう。それでね、ざっと読んではみたけど、私には判断がつかないから、あなたの意見がほしい」
彼女はローテーブルに積んだ英語とフランス語の新聞の束を一瞥する。
一番上に積まれた米国系報道機関の新聞の見出しには、敗戦国である八洲の政府に五つの改革を要求する、と書かれていた。
組合結成、教育の自由、専制の終焉、経済民主化。
その五つの一番目にあるのは、女性の解放。
具体的な内容は婦人参政権だ。
「婦人参政権については、学友や女官たちと論じたことがあるわ……女性である私たちにも権利はあって然るべき、と。皇族である私は別としてね」
睦子は遠い目をして言う。
「……長らく色んな方々が主張し続けても、遅々として変わらなかった国を変えてくれるなら」
蝶のようにはためく睫毛がふわりと揺れる。
「もしかしたら、米国をはじめとする連合国の占領統治は悪いものではないのかもしれない。むしろ旧体制の悪しき慣習を変えてくれるかもしれない、という可能性を考えてしまうの」
睦子は長い睫毛を一度伏せてから、目を開き、マコトを見据えた。
「私は国を取り戻す、などという陳腐な理想は掲げたくないの。国に殉じる馬鹿馬鹿しさなんて、この戦争で、もうたくさんよ」
強い声で言い切る。
そして、静かに、マコトへ問いかけた。
「その前提を考慮して、私は、亡命政権を立てる必要が、本当にあると思う?」
次回更新は2026年4月29日(水)昭和の日、正午頃の予定です。




