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41.1945年(春和元年)10月 イスタンブール④

 ──夜が明ける頃には、雨は上がっていた。


 イスタンブールのオスマン朝末期に建てられたネオ・ゴシック様式の高級アパルトマン、カメリア・パレス。


 亡命を果たした女帝の仮御座所。


 丸ごと一棟借り上げた、その一階。


 仮御座所の職員向けの食堂が設えられていた。


 昨日も澤城(さわしろ)眞人(マコト)が食事を取ったテーブルには、今朝は先客がいた。


 まずは頭を抱えた外交顧問、綾小路(あやのこうじ)実頼(さねより)


 彼は元々色白なのだが、今日の顔色は塩素系漂白剤に晒した後の(ふんどし)のように真っ白である。


「……あかん、吐き気する。お味噌汁とかないん?」


 この世の終わりみたいな声が聞こえる。


「綾小路さんったら、昨夜は随分と飲んでましたもんねえ!」

「僕、お酒弱いのに、秋月(あきづき)くんが飲ますさかい……もう、しばらく酒はええ……」


 アハハ、と笑う猿顔の男は、二十六歳のマコトの二歳年上、二十八歳の侍従の秋月(あきづき)傳三郎(でんざぶろう)だ。


 朝まで戻って来なかった綾小路は、どうも二日酔いらしい。

 いつも糸のように細い目が、完全に閉じられている。

 イスタンブール到着で気が緩み、飲みすぎたのだろう。


「今日の朝食はサバサンドらしいですよ」


 マコトはトレーをテーブルに置き、綾小路の向かいに座る。


「焼いたサバをパンに挟んでいるようですね。イスタンブールの名物だと、主厨長(しゅきゅうちょう)安元(やすもと)さんが……」


「焼きサバ……」


 綾小路から、か細い鳴き声が聞こえた。


「サバサンドじゃなくて、焼きサバのお茶漬けがええ……」 

「……それは無茶では?」


 イスタンブールの主食はパンのようだが、米があるのかどうか、マコトは知らない。


「綾小路さん、お茶漬けに出来ないか聞いてきてあげますからー」


 だが、秋月が聞きに行ったところを見るに、あるにはあるのだろう。


「秋月さんって、上海にいた頃はほとんど関わりなかったけど、随分と気さくな人だったんですね……」

「……財閥の子息とは思われへんやろ」

「ええ」


 海運、造船、鉱業を主軸に様々な分野で事業を展開し軍需産業を担う大財閥の秋月財閥。

 その総帥、秋月傳蔵(でんぞう)男爵の三男が、秋月傳三郎だ。

 彼の経歴は確か、啓櫻(けいおう)義塾大学商学部卒業後、宮内省入省、当時の帝の第一皇女陽宮(はるのみや)睦子(ちかこ)の侍従に叙任──だったとマコトは記憶している。


 恐らくは帝室との繋がりの強化と徴兵逃れが目的だったのだろう。


 だが、当人は邪気をあまり感じないクリクリとした目をこちらに向けて、細長い手を振る。


「綾小路さん、安元さんが作ってくれますってー!」


 このカメリア・パレスは、表向きは秋月物産の駐在員寮として借り上げられていると、マコトは昨日聞いた。


 上海での仮御座所、上海萬陽ホテルも実は同じく、海軍と縁が深い秋月財閥が借り切っていた。


 そう──子猿のような目鼻立ちで、人当たりが良く、ひょろりと細長い体躯が非力そうで、人畜無害に見えるが、秋月は重要人物なのだ。


 まあ、彼の背後にいる秋月財閥が意思決定権を持っていて、彼自身は連絡役に過ぎないのかもしれないが。


 マコトは、小さくため息をつき、口を開いた。


「綾小路殿、俺はここに残ることになりました」


 前置きをするのが面倒だったので、単刀直入に、投げ出すように、伝えた。


「はあ? 今、何て?」


 綾小路がサラサラと顔にかかる直毛をうっとおしそうに押さえ、顔を上げた。


「陛下をお守りするために、通訳として、俺はここに残ります」


 それまで閉じられていた綾小路の目が、過去最大級に見開かれた。


「あと、実はトルコ語はあまり出来ないので、教えてください」

「はぁ!?」


 いつも糸のように細い綾小路の目が、まともに開かれるのを、初めて見たな、とマコトは思った。



   *



「ぬけぬけと、残るって、どういうことや」


 マコトは廊下に出ろと綾小路に言われて、出るなり胸倉を掴まれた。


「僕はお上から、あんたは残さへんって、聞いてたで?」

「それはいつ?」

「イラクのキルクーク手前あたりで、あんたが哨戒に出てたときや」

「……俺が昨夜『残る』と陛下に申し上げたので、そのときはまだ、そのおつもりだったんでしょうね」

「昨夜?」

「はい、綾小路殿が飲みに行ってらっしゃった間に」


 胸倉を掴む手に僅かばかりの力が籠もる。


 だが、二日酔いで今にも崩れ落ちそうな綾小路の力は、大したことはないので、マコトはされるがままになっている。


 制圧するのは簡単だが、残るつもりなら、波風は立てないほうがいい。


「……まさか、お上に……?」


 綾小路は見上げるように睨むが、マコトは静かに見下ろした。


「ご想像なさってるようなことは、何もしていません。通訳として残る、と申し上げ、それを陛下がお許しくださっただけです」


 多少前後は端折ったが、昨夜の出来事については嘘はついていない。


「あんた……お上はどう見ても、あんたを()いとる。(ちょう)を笠に着て、何ぞ企てる気ぃ、(ちゃ)うやろうな?」

「俺がそのつもりでも、それをお許しになるほど陛下は暗愚でしょうか? あの御方は気まぐれですが、生易しくはないですよ」


 ──それは彼女への侮辱だぞ。


 マコトが目で言うと、綾小路は視線をそらした。


「綾小路さーん! お茶漬け出来てますよー!」


 食堂から、秋月が顔を出す。


「あの御方は、国家元首や。わきまえなはれや」


 綾小路がマコトの胸倉から手を離した。


 重い身体を引きずるように食堂へ戻っていく綾小路の代わりに、秋月が廊下に出た。


 秋月は左右で少し幅の違う二重瞼の黒目がちな目を細めて、人懐っこい笑みをマコトに向ける。


「大変ですね、『イグナチェフさん』……あ、失礼、今は『澤城さん』でしたね。上海ではあまり話したことはなかったけど、陛下の遊び相手を務められた『ご寵愛の君』の顔は忘れてませんよ」


 マコトが上海で名乗ったソ連外交官役の偽名をあえて呼んで、言い直す。


 ──やっぱり、秋月傳三郎は、曲者だな。


 それに、引っかかるのは、『ご寵愛の君』という呼び名。


 ──上海のときから、彼にはそう見られてたのか……。


 ということは、これから先もそう見られる、ということだ。


「陛下って面食いであらせられるから、この人は好みだなってすぐにピンときましたから、オレ」


 秋月は、笑いながら食堂へ戻っていった。


 マコトは、これは、先が思いやられるな、と心の中でため息をついた。



   *



 朝食後、マコトは牧原侍従長に呼び止められた。


 四階の事務室に連れて行かれて、服務心得を口頭で説明を受け、誓約書に署名し、捺印を押した。


 牧原は重々しく言う。


「陛下に誠心誠意お仕えし、励まれよ。澤城」


 そして。


「それから、御座所での不純異性交遊は禁止。厳に慎むように」


 そう、言い渡されたのだった。


 マコトは、どこからが不純異性交遊に該当するのだろう、と明後日なことをうっかり真剣に考えそうになった。


 ──線引きはどこだろうか。


 だが、マコトが自重しようが、きっと彼女(ちかこ)は踏み越えるに違いない。


 だから、そこは適宜、境界線を設定するしかないな──と、マコトは曖昧な結論に至った。


次回更新は2026年4月16日21時頃を予定しております。

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