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40.1945年(春和元年)10月 イスタンブール③

 ──夜が明ける頃には、雨は上がっていた。


「お熱はございませんね」


 黒のワンピースに白のフリルエプロンをつけ、赤みがかった癖毛を今日もきっちり編み込んだ女官長代理荻野(おぎの)三也子(みやこ)が、ベッドに横たわったままの睦子(ちかこ)の口から体温計を回収する。


 睦子はようやく身じろぎをして、ベッドから起き上がる。


 そして、左手薬指にはめたままだったガーネットの指輪を外し、右手薬指にはめ直した。



 ──1945年(春和元年)10月下旬、イスタンブール。



 雨上がりのボスポラス海峡が見渡せる居間で。


「陛下、朝の拝診でございます。玉体に何か変化はございませんか?」


 鼈甲縁の眼鏡をかけ白衣を着た小柄な初老の男が、少し高めの柔らかな声で問いかける。


 睦子は侍医、(もり)麟太郎りんたろう医師による、朝の診察を受ける。

 

 侍医による診察は、帝の朝の決められた日課

だ。


 それはここ、イスタンブールの仮御座所、カメリア・パレスでも変わらない。


「いえ、特にないわ」


 睦子は短く答えた。


 問診に続いて、脈拍、血圧、顔色や咽頭の確認が行われる。

 検温は、目覚めて身じろぎをする前に、女官により基礎体温が記録される。

 発熱の有無だけではなく基礎体温を調べるのは、睦子が女性の身であるからだ。


 ──そして。


「ああ、それから今日は内診が必要なんでしたか……」


 歯切れ悪く呟く森に、荻野が淡々と伝える。

 

「いえ、わたしが確認を済ませております。異常は見受けられませんでした。陛下はまだ、お綺麗なお身体のままでございます」

 

 帝の朝の決まった流れに、今朝は嫌な工程が一つ追加された。


 月のもののときも調べられるので、慣れてはいるけれど、下世話な詮索のために入念に調べられたのは、言い表し難い不快感を覚えた。


 男性侍医ではなく女官の荻野が済ませてくれたのは、僅かばかりの配慮であり、温情だった。


「ああ、そう。じゃあ、必要ありませんね。次は体重測定をさせていただきます。それから御手洗いのほうも後ほど確認を──」

 

 ──尊厳も何もあったもんじゃないわ。


 睦子はため息をついた。



   *



「……澤城(さわしろ)眞人(マコト)を通訳として留め置きたい、と仰られましたか?」

「ええ、彼は嘘が苦手だから……裏切られる前に気づけるわ。少なくとも私は」


 朝食を摂りながら、睦子は侍従長の牧原に言った。


「現状、彼ほど欧州の語学に精通している者はここにはいないでしょう。外交顧問の綾小路もそれなりに出来るけど、他の仕事もあるし、ずっと通訳としてつけるわけにはいかないでしょう」


 睦子はグラスの水に口をつける。


 この水は、先程、給仕を担当する侍従の日向(ひゅうが)が毒見したものだから、即効性の毒はない。


 ──遅効性の毒はわからないけれど。


 睦子は自嘲するように小さく笑う。


 昨夜、自分の恋心を葬るためにマコトを寝室へ呼んだ。


 終わらせるために、一線を越えるつもりだった。


 けれど、どこかで、彼が絆されることにも賭けていた。


『だから、ここで終わらせて! 思い出だけを抱いて生きて死んでいけるから!』


 声を荒げたときに言ったことは、半分本気で、半分演技だ。


 自分のせいで、彼が死ぬのは嫌。


 危ない目に遭わせたくない。


 逃げてほしい。


 重荷を背負わせたくない。


 民間人として、平穏無事に。


 どこかで幸せに生きてほしい。

 

 その気持ちは、嘘偽りはない。


 けれど、どうせ自分が死ぬならば、彼の腕の中で息絶えたい──これも睦子の本心だった。


 ──幸せだった、と思って死にたい。


 睦子のささやかなエゴであり、毒だった。


 ──けれど、彼は私を生き延びさせてしまう人。


 そう、それ以上に──。


 マコトがいる方が、生存率が上がる。


 これも、睦子の生存欲求に即した願望であり、客観的事実だ。


 マコトは今までに何度も睦子の命を救っている。


 彼がいなければ、今、生きて、イスタンブールで朝食を口に運ぶことなど、不可能だった。


 だから、同情や倫理観で流されるのではなく、彼自身の意思で選ばせたかった。


 一夜の過ちで思い出にするか。


 幸せなど、何一つ、約束は出来ない未来を選ぶのか。


 ──この未来(じごく)を本気で選ぶのか。


 そのための言質を取りたかった。


「……彼はまだ私の役に立つ。彼もそれを望んでいる。昨夜、本人と話して確認したわ」


 睦子が言うと、牧原は静かに目を伏せた。


「……ならば、陛下の仰せのままに。ですが陛下、不純異性交遊は厳にお慎みください」

「まあ、何のことかしら?」

 

 牧原の釘を差すような言葉を、睦子ははぐらかす。


「澤城にも、陛下の玉体を汚すような真似は、決してせぬよう、伝えておきます」


 牧原はちらりと睦子を一瞥した。

 

 口元は柔らかく微笑んでいるが、目は笑っていない。


 ──私の我儘で、マコトを面倒事に巻き込んでしまったわね。


 ほんの少しだけ、心の中で懺悔をした。


 でも、留め置いたことは、後悔していない。


 ──でも、これが、私の選択。


 遅効性の毒になるかもしれない選択でも。


 ──きっと、いつか、あなたに恨まれてしまうでしょうね。


 睦子は黒揚羽のようにはためく長い睫毛を伏せて、小さな唇に苦笑を浮かべた。


新章「女帝と通訳編」開幕!

もう1話更新してます。

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