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39.1945年(春和元年)10月 イスタンブール②

「私に一夜だけ、夢を見させてくれないかしら?」


 ──嗚呼、睦子(ちかこ)は。


 ──恋を葬るために、俺を呼んだのか。


 マコトは、それを悟った。

 

 睦子は、微笑みかける。


 高貴でありながら、毒を含んだ、女の顔をして。

 

「……自暴自棄になるな」

「別に自暴自棄なんかじゃないわ」

「こんな真似はよせ」

「あなた……(みかど)の命に背くの? それとも女に恥をかかせるつもり?」

「そんなつもりは──」

「それとも、私じゃ駄目?」

「違う、そうじゃなくて──」

「なら、大丈夫。一度だけで忘れるから」

「は?」

「終われば、国からも任務からも自由になるといいわ。私のことなんて忘れてどこへでも好きに──」


 それを聞いたマコトの頭の中で、何かが切れる音がした。

 

 マコトは睦子を乱暴に自分から引き剥がし、間髪入れずに彼女の額を思いっきり人差し指の爪で(はじ)いた。


「────っう!」


 睦子は声にならない悲鳴を上げ、額を押さえて、(うずくま)る。


「っざけんなっっ!!」


 マコトは、腹の底から怒鳴る。


 額を押さえたまま、睦子が呻く。


「……痛いわ。ものすごく痛い。手加減を忘れたの?」

「これでも手加減してるっ、阿呆!」

「阿呆って、ちょっと……」

「手加減なしでいいなら拳で殴ってる!」

「私、帝よ? 不敬が過ぎるわよ?」

「不敬も何もあるか! 色気づいてんじゃねえよ! このクソガキがっ!」

「……ちょっと、そのガキの色気にグラっときてたでしょ? 最後に一度くらいの過ちは大目に見てもらえるわ。何もなかったことにして忘れてあげるから」

「だから、一度だけで忘れられてたまるか! 簡単に忘れるな! 阿呆!」

「……また、阿呆って言ったわね……」

「あまりにも阿呆だからなっ! 自分の心を殺すために俺を使うなっっ!」


 マコトは肩で息をする。


 睦子がようやく、顔を上げる。


「……ねえ、亡命政権の女帝だなんて、いつ無惨に死ぬかもわからない上、慣習で夫を持つことも許されない。そんな可哀想な私のために、思い出の一つぐらい作ってやろうと思わないの?」

「勝手に思い出にしようとするな」


 マコトはピシャリと言う。

 不服そうに揺れる黒曜石の瞳を、見据える。


「……いいか。ちゃんと聞けよ。俺はまだ役に立つ」

「……役に立つ、って?」

「欧州の主要言語は大体話せる。通訳兼護衛として連れて行け」

「連れて行けって……正気?」 

「ああ、正気だ。熟考した結果だ。俺はここで降りないからな」

「あなた、何の覚悟も忠誠心もないでしょう?」

「ねえよ。でも、こんなあんたを置いてどこかへ行けるかよ。ここで降りるのは後味が悪過ぎるんだよ」

「……一緒に死ぬつもりもないくせに、これ以上付いてこないで」

「だから、死ぬつもりもないし、あんたを死なせないために付いていくんだ」

 

 交差していた視線が、不意にそれる。


「……連れて行って、愛する男に死なれたら私はどうすればいいのよ?」


 睦子が視線を外すように長い睫毛を伏せる。


「あなたの綺麗な灰青の目も、整った顔も、初めて会ったときから好きだった。でも、私……あなたの心と未来も欲しいと思ってしまったの。でも、そんなの、許されないの、私には」


 薄く紅を引いた唇を歪める。 


「だから、ここで終わらせて! 思い出だけを抱いて生きて死んでいけるから!」


 声を荒げた睦子は、目を閉じて唇を噛む。


 絶対に泣くものか、とでも言うように、蹲ったまま俯く。


 肩が小刻みに震える。


「……俺が、死ぬ前提で話すな」 


 マコトは膝をつく。


「心も未来も欲しけりゃくれてやるよ」


 睦子の震える肩に腕を回す。

 

「許されなくっても……俺の知らないところで勝手に死ぬな」


 ──絶対に離すものか。


「俺を側に置け、睦子……」


 腕に力を込める。


 ──悪い女帝の術中に、もう、落ちている。


 恋を、なかったことには、もう、出来ない。

 

「マコト……馬鹿よ、あなた……今なら、逃げていいのに……」

「阿呆と馬鹿でちょうどいい」

「ちょうど良くなんてないわよ……お祖母様が英国にいらっしゃるんでしょう? 綾小路が言ってたわ……」

「だから?」

「会いに行かなくて、いいの?」

「……今は、いいんだ。俺は睦子の側にいたい」


 睦子はしばらく迷った末に、こわごわと手を伸ばす。


 ゆっくりとマコトの背中に指を滑らせる。


 そして、小さく嗚咽を漏らした。



 泣いて。


 泣いて。


 泣きじゃくって。


 泣き止んで、鼻を啜り、目を腫らした睦子が言う。


「据え膳なのに食べないのね」

「据え膳?」

「『据え膳食わぬば男の恥』とか言わなかったかしら?」

「……食べません」

「とっても色っぽくしてもらったのに」

「……とりあえず、もう少し、胸をしまえ」


 マコトは白羽二重のナイトガウンから覗く豊かな胸の谷間から目をそらして、さっきデコピンをした額に口づけを落とす。


「……これは食べたに入らない?」


 鼻にかかったいつもより幼い声に、マコトは首を横に振る。


「入らない。それ、食べたら、絶対毒入りだろ? お前、絶対にロクでもないこと企んでるだろ?」

「乱暴されたと言えば、あなたのこと追い出せるかしら、としか考えてなかったわよ……さっきまでは」

「……『さっきまでは』?」

「何通りか使い道があることには気づいたけど、教えてあげない」

「教えなくてもいいけど……というか聞きたくもねえよ。誘っておいて……どんだけ悪辣なんだよ」

「あら、『毒を食らわば皿までも』じゃないのね?」

「その手に乗るか……胸の谷間を寄せるな」


 油断も隙もないと、マコトはため息をつきながら睦子から目をそらす。


「それに、あんたが企まなくても、牧原侍従長と綾小路あたりにロクでもない目に合わされる……政治的に不味すぎる」


 女帝と関係を持ったまま、宮廷に居座る──それは政治的な意味を持ち過ぎる。

 放置してもらえる可能性はゼロに近い。


「……それもそうね」


 睦子も、それを理解しているようだ。

 小さく嘆息する。


「ただ、据え膳を食べていないと、この状況でどうやって証明するか……」

「……それは荻野と侍医が私の身体を調べるわ。帝のそういうことって、実は容赦なく開けっぴろげだから」

「……」


 帝である以上、彼女は周囲に、生身の人間であることや尊厳よりも、その身体と皇統を適切に管理することを優先されてしまう。


 マコトはその部分に関しては、何の力にもなれない。


 と言うよりは、力になろうとすれば、意味が生まれてしまう。


 何の慰めにもならないと思いながら、マコトは睦子の髪を指に絡めた。


「追い出そうとするなよ。俺は残るんだから」


 そして、髪にも口づけを落とした。



   *



 女帝の寝室を出て、次の間で、マコトは待機していた荻野へ小箱を差し出した。


「……使っていません」


 荻野は一瞬だけ目を伏せ、受け取り、箱の中を改めて、再びマコトへ差し戻す。


「念のため、お持ちください」

「ですが──」

「陛下のお身体のため、念のため、です。どうであれ、お持ちください。受け取っていただけなければ、『今後』こちらへはお通しできませんから」


 荻野の丸眼鏡の奥の目が、強く訴える。


 ──俺がここに残ることも、他も全部、この女官、聞き耳を立てていたな。


 ならば、女官に睦子への私的な面会を、融通してもらえるに越したことはない。


 受け取っておいたほうがいいだろう。


 マコトは、ソレは自前でも所持しているのだが、と思いながら、小さく息を吐いて、小箱を手に取った。


「侍従長に根回しはしておきますが、私はそれほど力になれませんから、悪しからず。ご承知のほどを」

「わかってますよ」


 静かに告げて、マコトは踵を返す。


 扉を開けた先の廊下は、この先の未来を暗示するかのように、明かりは消え、真っ暗だった。


 夜目のきくマコトは一歩踏み出し、足早に女帝の階層(五階)から立ち去った。


次回の更新は2026年4月9日(木)21時頃を予定しております。

新章「女帝と通訳編」も、よろしくお願いします。

身分差の恋と諜報都市イスタンブールでの謀略、どうぞお楽しみに!

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