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38.1945年(春和元年)10月 イスタンブール①

 ──母が亡くなった日も雨だった。


『あの子さえ、いなければ、もっと幸せな人生だったのかもしれないのに』


 祖母が棺の中の母に向かって漏らした言葉を。


 十五年前の香港で。


 十一歳のマコトは、扉の影から聞いていた。


 

 その年のうちに、マコトは父に引き取られ、英国人の祖父母の元を離れ、東の帝国へ渡った──。



 ──1945年(春和元年)10月下旬、イスタンブール。



 イスタンブールのアナトリア半島側──アジア側にあるハイダルパシャ駅は、ネオ・ルネサンスドイツ様式の建築に、オスマン風の花や草木の色鮮やかな内装が施されている。

 東洋から欧州を結ぶシルクロードの終着駅に相応しい、壮麗な駅舎だった。


 ステンドグラスの影が大理石の床を彩る。


 その床を打つヒールの音が、時計の針を進める音のように響く。


 止まっていた女帝の時間が動き出す。


 真白のツーピーススーツを纏った睦子(ちかこ)が前を見据えて歩く。


 マコトはそれに、半歩後ろから続く。


 ボスポラス海峡に突き出た埋立地に建つ駅舎からは、フェリー乗り場と海が望める。


 人混みの中、青い海を背に、東洋人の老人が立っていた。


 老人といっても、白髪は一糸乱れることなく整えられ、銀縁眼鏡の奥の眼光は、柔らかなようで鋭い。

 上質な三つ揃いに包まれた身体は、背筋が伸びたまま微動だにしない。


 ──それもそうだ、海軍大将から帝都東京明知(めいち)神宮の宮司を経て、女帝の践祚(せんそ)に伴い、侍従長(じじゅうちょう)に就任した男だ。


 並の老人であるはずがない。

 

略儀(りゃくぎ)ながら、平服(へいふく)にて拝謁(はいえつ)(たまわ)りますことをご容赦願います、陛下。再び龍顔(りゅうがん)を拝し奉ること、恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます」



 牧原(まきはら)寛太郎(かんたろう)侍従長が最敬礼で女帝を出迎えた。



 フェリーでボスポラス海峡を渡り、欧州(ルメリ)側の新市街へと向った。


 金角湾のカラキョイ港でMI6のダニエル、エリザベスと別れ、自動車に乗り込む。


 車は、オスマン時代から栄える港街から坂を上り、北へ向かう。


 タクシム広場の共和国記念碑を横目に、西側の坂を下る。


 車内の空気は重い。

 時折、助手席の牧原が、町並みを説明する。

 それに後部座席の睦子が、頷く。

 だが、両脇のマコトと綾小路は、私語を発さない。


 見慣れぬ異国の景色だけが車窓を流れ、目的地に着いた。

 

 ボスポラスを望む在外公館が集まるアヤスパシャ地区のアパルトマン。

 イノニュ通りに面した、オスマン帝国末期に建てられたネオ・ゴシック様式の装飾過多な地上五階建て地下一階のオフィス兼住居。


 その名はカメリア・パレス。


 ここがイスタンブールでの女帝の仮御座所となる。


還御(かんぎょ)!」

「「お帰りなさいませ!!」」


 還御、という帝の帰還を知らせる言葉は、本来この場(イスタンブール)には似つかわしくない。


 だが、吹き抜けの玄関ホールに響く女官の高らかな声に、十数名が唱和した。


 今年、春に帝都より移動した女官、側衛官(そくえいかん)近衛兵(このえへい)


 七月以降に上海より順次移動した侍従、侍医(じい)


 ──居並ぶ者たちが最敬礼で女帝を迎える。


 睦子は背筋を伸ばし、赤い絨毯を踏みしめる。


 自動昇降機(エレベーター)へ牧原侍従長が先導し、睦子、その後ろに女官一人が続く。


 マコトは自動昇降機の前で、睦子に向かって無言で一礼する。


 自動昇降機のドアを女官が閉める。


 ガシャン、と鈍い金属音がした。


 昇降機はゆっくりと上昇し、最上階へと向かった。


 マコトは顔を上げた。


 ──女帝をイスタンブールまで送り届けた。

 

 ──最後の任務が終わった。


 マコトの、帝国陸軍特務機関『不二組(ふじぐみ)』の諜報員としての最後の任務は、ここで終わったのだった。



   *



 雨粒が、窓ガラスを叩く。

 一階に設けられた職員用の食堂で昼食を終えた頃、雨が降り始めた。


 その後、マコトが通されたのはカメリア・パレスの二階、綾小路の部屋だった。

 女官から『こちらをお使いください』と言われたので、相部屋らしい。


「何や、今日はあんたと一緒かいな。久しぶりに一人で羽根伸ばせると思うとったのに」


 綾小路が嘆いてから、大袈裟にため息をついた。


「……我慢してください」


 居心地が悪いことこの上ないが、仕方がない。


「まあ、ええわ。あんたに話さなあかんこともあるし」

「話さなくてはならないこととは?」


 マコトは身構える。


 綾小路はイランのアフワーズで、言った。


『無事に着きましたら、こちらであんたの行き先の段取りはつけますさかい』と。


「そんな、身構えんでもええやんか。あんたを口封じに消すには人員が足らん。上海海軍特別陸戦隊から、たった一人でお上を連れて逃げおおせる人間を消そう思うたら、何十人もの命がいる。それは買いかぶりとちゃうで。文官を躊躇なく囮に使う卑劣漢やし」

「……それは口封じに俺を消す、という選択肢も存在していたんですか?」

「まあ、それは、言葉の綾や」


 テヘランで囮に使われたことを根に持っている様子の綾小路は、細い目を更に細めて、作り笑いを浮かべる。


 そして、再び口を開く。


「あんたの英国人のお祖母(ばあ)さん、ロンドンで生きてはるで。テヘランの英国大使館で聞いた、確かな話や」



   *



 四年前の秋、香港で英国商人の祖父が亡くなった。


 その日も雨だった。


 マコトは死に目には会えなかったが、葬儀には間に合った。


 その年の十二月の帝国軍による香港攻略作戦の工作のために、香港に潜伏し、滞在していたから──。


 葬儀の後、祖母に『何も聞かないで船に乗ってください』と英領インドのカルカッタ行きの切符(チケット)を渡した。


 敵国の民間人を事前に逃す行為は、情報漏洩の観点から、軍規違反相当だったが、血の繋がった祖母をこれから戦闘が始まる場所に置いておけなかった。


 カルカッタ行きの船に乗った、その後の消息は、知ろうとしなかった。


 ──生きていてくれたのか。


 マコトは安堵と苦いものを同時に抱えた。


 祖母は、一人娘が残した、たった一人の孫であるマコトへの情はあった。

 しかし、妻子ある東洋人の男との間の──『混血児』で『不義の子』である以上、言葉には表せない感情を抱えていた。


 だが、そんな内情までは知らない綾小路は、『お祖母さんのところに身を寄せるなら、仕事の紹介はダニエルさんに聞きなはれ。僕は忙しいんや』と言って、どこかへ出かけていった。


 綾小路は夕食の時間を過ぎても戻らず、日付が変わろうとしている今も、戻っていない。


 その間、マコトは旅費として預かった手元金を精算する際に、牧原侍従長に(みかど)──睦子との謁見(・・)を申し出たが、『今日はお疲れですから』とやんわりと断られていた。


 マコトはベッドで寝返りを打つ。


 ──これからどうするべきか。


 そのとき、コンコンと扉を叩く音がする。


 綾小路が戻ってきたのかと思ったが、違った。


「夜分に恐れ入ります、澤城(さわしろ)さん」

 

 女の声が、マコトの帝国名の姓を呼んだ。

 

 扉を開けると、少し赤み帯びた癖毛を編み込み、丸眼鏡をかけた痩せぎすの女が、薄いそばかすの上のギョロリとしたツリ目で、マコトを見上げた。


「陛下付きの女官の荻野(おぎの)と申します。少々よろしいでしょうか?」


 ここに着いたとき、『還御!』と言った、高位の女官だ。


 だが、位の割に、若い──まだ、二十代後半だ。


「陛下がお呼びです。つかぬことをお伺い致しますが、ここに着いてからお風呂には入られましたか?」

「はあ、夕方にいただきましたが……」

「そうですか。服装は……そのままで構いません。私に付いてきてください」


 冷たさを含んだ声で荻野はマコトに言う。


 トラウザーにシャツとベスト、ネクタイはしていないが、そのままで、良いという。


 ──『帝の御前』に参上するというのに。


 ──それに、こんな夜更けに、一体?


 マコトは訝しみながらも、荻野に付いていく。


 自動昇降機は使わずに階段で最上階まで上がる。


 荻野は一度も振り返らず、廊下を静かにゆっくりと歩く。


 この階に人がいる気配はあるのに、物音がしない。


 静寂が支配する最上階の廊下の、奥の突き当たりの部屋。


 その次の間と思われる場所で、荻野は振り返る。


 そして、マッチ箱に似た小箱をマコトに押し付けた。

 荻野は冷えた指先で、マコトにそれを握らせる。


「必ずお使いください。陛下は奥にいらっしゃいます。ここから先は澤城さん、お一人だけを通すように陛下が仰せです」


 マコトは渡されたものを見て、目を疑う。


「どうぞ、中へ」


 荻野に促されて、マコトは部屋へ踏み入れた。


 背後で扉が閉まる音がする。


 豪奢なシャンデリアがぶら下がる寝室。


 雨粒で濡れる窓からはボスポラス海峡が見渡せるはずだ。


 でも、夜の今は、船舶や対岸のアジア側の灯火が滲むように闇に反射して、広がっていた。


 窓の側に睦子がいた。


 彼女が振り返る。


 白く豊かな胸元が大きく開いた白羽二重のナイトガウンを、纏って。


 伸びかけの黒髪を襟足で編み込んで生花を、飾って。


 唇には薄く紅を引いていた。


 黒揚羽のようにはためく長い睫毛を上げて、三白眼気味の大きな目、その黒曜石の瞳がマコトを捉える。


 今までで、一番、美しい彼女。


 ──ああ、これは。


 誘惑、なんて、生易しいものじゃない。


 ──覚悟。


「マコト」


 涼やかな声が名前を呼ぶ。


「……女官から渡された、これは何だ?」


 マコトは気圧(けお)されそうになりながら睦子に問う。


「へえ、マッチの箱みたい」


 クスッ、と睦子が妖艶に笑う。


「マッチの箱みたいじゃない。『必ずお使いください』と念押されたが?」

「この夜に必要なもの?」


 中身が何か、睦子はたぶん、わかっている。


「……どういうつもりだ?」


 マコトが低い声で聞いた。


 睦子は答えず、マコトに歩み寄る。


 しゅるりと衣擦れの音を鳴らして。


 ダマスクローズの香油の匂いを漂わせて。


 背伸びをして、ガーネットの指輪が光る左手を頬に添える。


 そして、耳元で囁く。


「私に一夜だけ、夢を見させてくれないかしら?」


 ──嗚呼、睦子は。


 ──恋を葬るために、俺を呼んだのか。


 マコトは、それを悟った。


明日2026年3月26日(木)も21時頃に更新予定です。

次回、亡命編完結です。

お楽しみに!

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