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37.1945年(春和元年)10月 アンカラ

 イラクとトルコの国境のハブール川を越えると、岩山ばかりの景色が一変した。


 木々が赤や黄色に秋色を纏って出迎えた。


 見知った色合いに睦子(チカコ)の表情が、少しだけ和らいだ。


 いや、見知った色というのは、エリザベス──と名乗るMI6の諜報員(エージェント)、リズベス・ターナーの主観だった。


 リズベスは睦子の故郷の景色を知らない。


 思い描いたのは、秋のロンドンのハイド・パークの景色だ。


 睦子の帝国──東の果ての島国とは全く別の景色だろう。


 でも、彼女が秋の色を懐かしむように目を細め、小さく息を漏らしたのを見て、きっと彼女の故郷も似たような色になるのだろう、とリズベスは思った。


 ヘアピンカーブの山道で揺れるトラックから、流れる秋へ向かって、リズベスは懐かしい童謡を口ずさむ。


「綺麗な歌ね」


 隣で睦子がぽつりと呟く。

 

 一九〇〇年代初頭の英国の児童向け戯曲の劇中歌だ。

 けれど、睦子は知らないようだった。

 彼女は、知っている曲なら一緒に口ずさむ。


 ──少しばかり調子外れに。


 だけど、この曲は黙って耳を傾ける。


 平和をもたらす、幸運の青い鳥を探す童話、その歌を。


 このときの彼女は、まだ知らない──。



 ──1945年(春和元年)10月下旬、アンカラ。



 ディヤルバクルというトルコ南東部の城塞都市で英国軍のトラック車列とは別れ、トルコ国鉄(TCDD)の汽車に乗ったのは三日前。


 何度か乗り換えをし、今、乗っている夜行列車はトルコ共和国の首都アンカラから西へ向って、出発したところだ。


 列車の終点は──イスタンブールのハイダルパシャ駅。


 明日の朝には、この旅の終着地、イスタンブールへ着く。


「ちょっと、煙草を吸ってくる」


 マコト(マシュー)が、コンパートメントを出て行った。


 彼は、睦子の前では煙草を吸わない。


 睦子が煙を嫌がるからだ。


 リズベスは、「あたしも、ちょっといい?」と睦子に断ってから、続く。 


 コンパートメントは四人席の寝台で、部屋割りは睦子とリズベス、マコトが同室で、ダニエルと綾小路は隣の部屋だ。


 睦子のみを残し、護衛が揃って席を外すことは、不用心だと理解している。


 けれど、これを逃すと、彼と二人で話す機会はもう、ないかもしれない。


 リズベスには、睦子のいないところで聞きたい話があった。

 コンパートメントの外から様子を伺いながら話すつもりで通路へ出た。


 マコトも用心のため、コンパートメントのすぐ前で、マッチで煙草に火をつけ、紫煙を吐き出していた。


「マシュー。マッチ、貰っていい? ライターのオイル切らしちゃって」


 マコトは、少しだけ眉をひそめてから、無言でマッチの箱を差し出す。


 彼はリズベスのことを快く思っていないし、皮肉は存分に吐くが、わざわざ意地悪をするようなことはない。


 リズベスは、マッチを擦り、煙草に火をつける。

 煙を吐き出し、視界を曇らせるそれを眺める。


「……腕の調子はどうだ?」


 睦子がいるコンパートメントに視線を固定したまま、煙草を咥えたマコトが聞く。


「くどい。掠めただけだし、もう治ってる。あんたたちは心配し過ぎ」


 そう言って、リズベスは、マコトから目をそらす。


 鉄道に乗り換える前、ディヤルバクルでトラック旅の埃や垢を落とすために公衆浴場(ハマム)に寄ったときにも、睦子が左上腕の傷跡を散々心配していた。


 テヘランで銃弾が掠めた傷跡は、周囲が少し盛り上がっているだけで、完全に塞がっているのに、だ。


『痛くない? 沁みない? 流すの手伝うわよ?』


 とか。


『垢すり? ゴシゴシされて大丈夫なの? 傷が開かないかしら?』


 とか。


 ──あんたは王族でお世話される側の人間で、世話の焼き方なんて知らないくせに。


 そんな心配より、自分たちの心配をしろと、リズベスは思う。


「……あんたこそ、イスタンブールから、どうするの?」


 リズベスは、本題を切り出した。

 でも、マコトは答えなかった。


 睦子がコンパートメントのドアを少し開けて見ているからだ。


 マコトとリズベス、二人で話す機会が少ないのは、役割分担や同族嫌悪による感情の問題もあるけれど、最も大きな理由は睦子だ。

 

 彼女はマコトが他の女と二人きりになるのを嫌がる。


 三白眼気味の大きな目を少し細めて、黒曜石の瞳が、ジトッとこちらを見ている。

 その視線はひと月前の夏のインド洋みたいな湿度だった。


「あんたのマシューは盗らないけど」


 リズベスは呆れて、肩をすくめた。


「……その誤解は勘弁してくれ」


 マコトも髪を掻き上げながら、渋い顔をした。 

「あたしだって、マシューは嫌」


 任務だと言われても、どうにかなんて絶対になりたくない、というのがリズベスとマコトの共通認識だった。


 だが、コンパートメントから出てきた睦子は変わらずジト目だった。


「あんたってホント、嫉妬深い」


 リズベスがため息と一緒に煙を吐き出すと、睦子は頷く。


「自分でも驚いてるわ」


 嫉妬を否定しなかった睦子は、マコトの背中に抱きつく。


 ──この男は、私のものよ。


 そう、主張するように。


「おい……『ハル』。俺は今、煙草を吸ってるんだが……」


 マコトは少し困ったような声で、彼女の偽名を呼ぶ。


「気にしないわ」


 でも、睦子は離れない。


 マコトは、彼女を振りほどこうとはしなかった。


 抱きつかれたまま、長くなった灰を、壁付けの灰皿へ落とした。




 それから、結局、話は出来ずに、夜汽車は西へ駆け抜けて行った。


 睦子は──いや、『ハル』は、この列車がイスタンブールに着いてしまったら、『女帝』に戻らなければならない。


 英国商人マシューの妻などではなく、生涯独身が決まりだという敗戦国の女帝に。

 

 彼女は、この男を手放せるのだろうか?


 ひどく執着してしまっているのに、果たしてそれが出来るのだろうか?


 そして、この男はどちらを選ぶのだろうか?


 自分の人生か、彼女との愛か。


 そのどちらを。


 星が瞬かない暗い夜空を車窓から見上げて、リズベスはため息をついた。



   *



 翌朝、イスタンブールはハイダルパシャ駅に到着し、列車を降りる。


 下車するとき、マコトは、睦子に手を差し出し、こう言った。


睦子(ちかこ)……いえ、陛下、お手を」


 この旅で使っていた『ハル』という偽名ではなく、本名の『チカコ』と呼んで。


 すぐに『Your(ユア) Majesty(マジェスティ)』に相当するであろう敬称──『陛下(ヘイカ)』と、言い直した。


「……ええ。ありがとう」


 睦子は少し震えた声で返答し、その手を取った。


 旅は終わったんだ、とその瞬間、リズベスは思った。


 睦子のパンプスのヒールが、プラットホームを打つ。


 その音が、止まっていた女帝の時間が再び動き出す、時計の針の音みたいに、聞こえた。


次回38話更新は2026年3月25日(水)21時頃を予定しております。

次回よりイスタンブール! 亡命編クライマックスです!

39話は3月26日(木)21時頃、2夜連続更新です。

その後、新章となります。

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