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36.1945年(春和元年)10月 キルクーク

 軽い銃声が響いた。


 反射的にマコトは睦子(ちかこ)の視界を掌で塞ぐ。


「見るな」


 そして、低く呟く。


 車上から発砲したのは、エリザベス(リズ)


 盗賊団のリーダーと思しき馬上の人物の頭を撃ち抜いた。


 四五口径の消音器付ライフル銃を近距離で撃ったから、落馬した男の頭部は直視に耐えない有様だ。


 エリザベスは顔をしかめる。


「鈍ってる、この距離まで仕留められないなんて」


 左上腕部の銃創はほぼ塞がっているし、利き手側ではない。

 それでも反動を受け流す感覚が少し合わないのだろう。


 風に血の匂いが混ざった。


 マコトはその匂いを嗅いで、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げた。


 でも、睦子には匂いを決して悟らせまいと、自分の袖を彼女の鼻先に寄せ、そのまま柔らかな頬に触れた。


「マコト……?」

「しばらく、このままでいいか?」


 マコトの囁きに、睦子は頷くこともせずに、黙り込んだ。


 

 ──1945年(春和元年)10月中旬、イラク北部、キルクーク周辺。



 イランの首都、バグダッドを過ぎて北上すること数日、一行が便乗する英国軍のトラック車列は小規模な軍勢の襲撃に遭った。


「昼間の襲撃、略奪目的のこの辺りの部族やって」


 その日の夜、どこかから鍋を借りてきた綾小路が言った。


「反政府軍とかやなくてよかったねぇ。銃がちょっと揃ってたのが気がかりやけど、ダニエルさんと同じぐらい下手くそやったしなあ」


 綾小路は水筒から鍋に水を注ぐ。

 バケツで作ったベンジンストーブの火の上に、鍋を乗せる。


「あの、ちょっと火の周りに、その辺の石を積んだほうが……今日はちょっと風が強いので、火が消えると思うんで」


 マコトは綾小路に少しばかり遠慮がちに言う。


「ああ、そうやね」


 綾小路にしては珍しく、マコトに対して嫌味を挟まなかった。

 風に吹かれても決して絡まることのない直毛の前髪を中折れ帽に仕舞い直して、ストーブの周りに岩を置く。

 両手には似合わない軍手をはめているのだが、手つきが全体的に危なっかしい。


 ──慣れていない。 


「お上もちょっと滅入ってはるから、僕の秘蔵の乾飯と味噌を供出しましょうかと思うてなあ」


 綾小路は竹の皮に包まれた乾飯と味噌玉を取り出した。

 今年の春に帝国から持ち出したのだろうか。

 見たところ、カビ等は発生していないから大丈夫だろう、と思いたい。


「お上……食欲もずっとあらへんしなぁ」


 睦子はテヘランを出た直後から食欲がないままだった。

 マコトは小さく頷く。

 

「彼女は、胃腸は頑丈なので、やはり精神面、ですよね……」


 エリザベスに、いつまでも落ち込まないで、と叱られてから、空元気で明るく振る舞っているのが、痛々しい。


「元から、精神状態で食事量に増減のある方やさかい、しゃあないねんけどね。体調を崩さんように無理して食べてはるけど」


 綾小路は乾飯を沸騰した湯に割り入れる。

 乾飯は先に水で戻すはず……清潔な水が貴重なので、工程をやむを得ず省略したのかな、とマコトは信じることにした。


「何かあっても、興奮状態のときは食べるんだけどな……」


 上海萬陽ホテルで毒殺を危惧していた頃、睦子は随分と食が細っているように見受けられた。

 それも毒殺を恐れ、とはまた別で、長期的な心労も要因だったのかもしれない。


「図太そうに見えて、存外に繊細やからね」


 綾小路は煮立った鍋に味噌玉を入れる。

 味噌は煮立たせると風味が飛ぶ。

 だが、もう入れてしまったので、後の祭りだ。

 マコトは黙ることを選んで天を仰ぎ見た。


 遠くで油田のフレアスタックの炎が煌々と夜空を照らす。


 風が強くても黒い煙が流れ切らず、星はあまり見えない。


「バグダッドで買った干しナツメ(デーツ)はおやつによく食べているんで、大丈夫だとは思うんですが……」


 バグダッドの市場で、大きな紙袋いっぱいに買った干しナツメは干し柿に似た味がする。


 とても甘い。


 甘党の睦子は大層、気に入っている。


 彼女は隙あらば、干しナツメを口に運んでいる。


 その姿は、まるで小動物のようだ。


 凛とした長身の彼女とは、正反対の印象。

 

 食べている姿が可愛らしく見えるとか、主観は横に置くとして、干しナツメのおかげで、彼女が栄養失調に陥る可能性は、とても低い。


 というか、干しナツメ《おやつ》の食べ過ぎでお腹がいっぱいになっている、という疑惑もある。 


 まあ、食べないよりはいいんだが、とマコトはため息をつく。 


「女の子やから、甘いもんお好きやもんね。お上は」

「甘い物ばかりだと、虫歯になるぞ、とは言ってるんですが……」


 マコトがため息をつくと同時に綾小路は乾飯と味噌が煮立つ鍋に、英国軍の糧食、缶詰のコンビーフを入れた。


「……何でそれを入れた?」


 今までの工程は流して見守っていたが、これは流石に看過することが難しい。


「具がないと寂しいやん」

「いらないだろ……せっかくの味噌味が全部死ぬぞ」

「えー、味噌やで?」


 極東の島国の調味料では、味噌は、味の濃い調味料の代表格である。


 だが、スプーンでひとすくい、味見をした綾小路は愕然とした顔をする。


「コンビーフの味しかせえへん!」

「だから、言っただろう……」


 味噌雑炊になるはずが、表面にコンビーフの油が膜を張っている。


 かくして、コンビーフ雑炊が出来上がってしまった。


 ──脂っぽく味付けが濃いはずなのに、英国料理でたまにある、虚無の味がする。

 

 毒見のために一口食べたマコトは思った。


 味噌は完全に行方不明で、隠し味として、コクや旨みに寄与している気配すらない。


「毒はないが、無理に食べるものではないからな」


 マコトは碗を睦子に渡す。


 睦子は恐る恐る、スプーンで一口すくって食べる。


「食べられないほどじゃないわよ」


 お白州で沙汰を待つ罪人よろしく砂上に正座をする綾小路に向かって言う。


 言ったきり、無表情でスプーンを口に運び続ける。


「お上、ご無理しはらんでも……」

「食べなきゃ、勿体ないじゃないの」


 申し訳なさそうに縮こまる綾小路に、睦子はため息混じりに返す。


「……ありがとう、綾小路」


 彼女にしては珍しく、ぶっきらぼうな調子だった。


 ダニエルとエリザベスも、


「英国にはウナギのゼリー寄せとか、もっと信じられないくらい不味い料理が存在するんだ。これなら問題ないさ、ミスター・アヤノコウジ」

「豚の餌よりはマシじゃん」


 と、食事が不味い国の人間の感想(ひにく)で綾小路を慰めた。


 そして、マコトは『綾小路()()、二度と料理はさせない』と固く誓った。


 もちろん、上海で捌けもしないニワトリを捌こうとした睦子は論外である。


次回更新は2026年3月12日(木)21時頃を予定しております。

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