35.1945年(春和元年)10月 カスレ・シーリーン
「紅茶ばかりじゃなくて、飯もちゃんと食べろ」
マコトが眉間に皺を寄せて睦子に言う。
「ごめんなさい。食欲がなくて」
「ちゃんと毒見しただろ」
「そうなんだけど……」
「油っぽいコンビーフと硬いビスケットがつらいのはわかるが……」
睦子は薄い笑みを浮かべて、長い睫毛を伏せて、首を横に振る。
エリザベスが怪我をしてから睦子は塞ぎ込んでいる。
彼女は自分のために誰かが傷つくことを割り切れない。
君主としては致命的な欠点だ。
彼女はどこまでも生々しく、俗物で、人間臭い。
生来の高貴さに反して。
それが人間的な魅力に作用しようとも、非常時の君主には向かない性質だ。
──1945年(春和元年)10月上旬、イラン、イラク国境、カスレ・シーリーン。
マコトと睦子、綾小路とMI6のダニエルとエリザベスの五人はテヘランを脱出し、バグダッド経由トルコ行きの英国軍の物資と撤退人員運搬のトラックに便乗して、イスタンブールを目指している。
盗賊被害が多発する地域を通るので、警戒しながら車列を組んでの移動となる。
白人の将校とインド人兵士の部隊、現地で雇われたペルシャ人やアラブ人など、人種構成は様々だった。
その雑多な人種の中でも、睦子だけは妙に浮いていた。
長い睫毛が頬に影を落とす東洋の神秘の匂いが濃い美貌は、妖しげにも儚げにも揺らぎ、印象が定まらない。
それに、日焼けをしていない透き通るような白い肌や、背筋が伸びた綺麗な所作のせいで、高貴さが隠し切れていない。
こんな場所にいる身分の女ではない──。
下級兵士には、何の情報も下りていないはずなのに、明らかに遠巻きに『触れてはいけない何か』のように見られている。
居心地の悪さも、彼女の食欲不振の原因なのだろう。
それに環境も最悪だ。
砂漠は、昼間は焼けるように暑いのに、夜は晩秋のように冷え込む。
テヘランを出て一部は舗装道路もあったが、大半は未舗装の砂利道だった。
軍用トラックの荷台はひどく揺れる。
椅子は硬いし、人数分に少し足りない……椅子と床、どちらにせよ尻が痛いに変わりはない。
その上、巻き上がる砂埃に、時折咳き込む。
そんな状態で車列は南西へと向かって走った。
そして四日後の今夜、カスレ・シーリーンという、イランとイラクの国境の街にたどり着いた。
ここには英軍駐屯地がある。
検問があり、補給も行うが、宿舎は決して大きくはないため、外部の人員を収容出来ない。
だから、今日も野営だ。
トラックを道端に停車し、その脇で、空き缶に砂を入れホワイトガソリンを染み込ませたもの──ベンジンストーブに火を点けて休む。
「ほら、毛布。一緒に包まらないと寒いぞ?」
マコトは睦子に自分の隣で休むように促す。
「リズは?」
「哨戒中」
マコトが短く答えると、赤い炎にぼんやりと照らされた睦子の顔色が曇る。
エリザベスは、まだ左上腕部の銃創が治り切っていない。
でも、マコトと交代で哨戒と睦子の護衛に当たっている。
マコトとエリザベスは元々戦闘要員だが、綾小路は外交官、ダニエルは参謀役で、二人の腕前は自分の身を守るのが精一杯だ。
ゆえに、利き手で銃が扱える以上、怪我人のエリザベスも戦闘員に数えざるを得ない。
「……そうなの……」
「だから、俺で我慢してくれ」
睦子はマコトのことも少し避けている。
側に置くことで、負わせるかもしれない『傷』に怯えている。
「そこのおっさんどもよりはいいだろ?」
「おいおい、十代後半の若い女性からしたら二十代後半の私たちなんて、みんな同じくおっさんなんだから、自分だけがお兄さんだと思うな、マシュー」
マコトが無理に軽口を叩くと、ダニエルから不平の声が上がる。
「確かに僕は三十路も半ばのもっとおっさんやけど、お上に下心があるんは、あんただけやで」
ダニエルの辛辣な言葉に頷いた綾小路が、追い打ちをかける。
「下心なんて、ありません」
マコトが否定すると、睦子が毛布を握りしめて、ぽつりと呟く。
「下心、ないのね……」
何か踏んではいけないものを踏んだ気がする。
マコトは察した。
乙女心は難しい。
下心があると答えても最低だし、ないと答えても地獄。
そして、あるか、ないかで問われると、なくはないが、正直に答えるのも不正解である。
*
人々が寝静まり、月のない、空気が乾いた夜空に星が瞬く。
いや、瞬くなどという生易しい表現は少しそぐわない。
空を星がびっしりと埋め尽くしている。
星座も一等星もどれがどれか、わからないぐらいだ。
マコトの隣にぴったりと寄り添うも眠れない様子の睦子が、星に向かって左手を伸ばした。
オリオン座の赤い一等星に。
東から昇り始めた赤い一等星は、赤色巨星で星としての寿命が短いと言われている。
睦子は赤い一等星の隣に赤いガーネットの指輪を並べる。
偽物の結婚指輪を並べてみせる。
今、マコトと睦子は英国での書類上、夫婦だ。
でも、指輪も書類も、敗戦国の女帝の亡命──その偽装のための、仮初のもの。
いずれ終わりはやって来る。
イスタンブールまで──遠いようで、時間はもう、それほど長くはない。
「起きてる?」
「ああ」
睦子の囁くような問いかけに、マコトは短く返す。
「少し、つまらない話をしていいかしら?」
「……どうぞ」
マコトが頷くと、睦子は星空を見上げて、小さく笑う。
「……私ね、民に皇女や女帝という幻想を見せることが私の役目だと、ずっと思って生きてきたの」
澄んだ空気を涼やかな声で震わせる。
「逃げたくても、逃げちゃいけないって思っていたわ」
「……逃げちゃいけない、なぜ……そう思ったんだ?」
マコトは静かに問う。
睦子は三白眼気味の大きな目の、黒曜石の瞳に星空を映しながら答える。
「民衆の理想から外れた皇族ってね、非難の的になるのよ」
美しいものを見上げながら、震えるような残酷な答えを。
「第一皇女として生まれた以上、衆目から逃れることは出来ない。そう言われて育ったわ。私、美貌の皇女だ、と持ち上げられてきたけど、期待を裏切れば、石を投げられると思ってたの」
凛とした声が、今にも泣き出しそうに聞こえる。
「……石を投げたら、投げた人間は、皇族に対する不敬罪で罰せられるだろう?」
マコトが訝しむように返したが、睦子は小さく首を横に振る。
「誰かが石を投げたら、皆が一斉に投げるものよ。それを不敬罪だけで止められると思う? 品性を欠いたとなれば、皇籍剥奪だってありうるのよ。だから逃げなかったのよ」
嘘が上手な彼女は、期待された『役』を容易く演じられてしまった。
きっと、逃げるより楽だったのだろう。
──俺と違って。
マコトの思考を見透かしたように、黒曜石の瞳が向けられた。
「でも、私と違ってあなたは、もう、いつでも『役』から降りられる。誰かが石を投げて始まった戦争は終わったわ」
静かに、マコトを見つめて睦子は言う。
「だが、あんたの戦争はまだ終わってないだろう……?」
「……そうね。でも、あなたの戦争はもう終わったはずよ、香港で。イスタンブールまで引き延ばしてしまったけど……あなたは、そこで降りていいのよ」
──どうして、彼女は自分だけですべてを引き受けようとするのか。
イスタンブールに着けば、彼女は亡命政権の女帝に祭り上げられる。
香港で連合国に差し出されたほうが楽に死ねた、なんて末路もありうる。
──なのに。
死にたくないと泣いたくせに、どうして、自分の身一つ、命一つで済むのならそれでいい、と差し出そうとするのか。
どうして、『役』に殉じようとするのか。
どうして、立場を優先させるのか。
どうして、他人を……。
いや、彼女の家族や、東宮である弟のためでも。
──俺には納得できない。
「イスタンブールまで。よろしくね」
忠誠心も覚悟もない人間をこれ以上連れてはいけない、と睦子は見切っているのだろう。
マコトは、ただ、藤木中佐からの最後の命令と己の良心に従って、ここまで来たのだから。
自分はイスタンブールで降りるのが最善だとわかっている。
だが。
──釈然としない。
作中のベンジンストーブは1940年代の野戦仕様です。
大変危険なので絶対に真似しないでください。
次回更新は2026年3月5日21時頃を予定しております。




