34.1945年(春和元年)9月 テヘラン⑥
「扉を開けるなり顎に銃を突きつけんでもええやんか。寿命がえらい縮んだわ」
自動車の助手席に座る綾小路が振り返り、後部座席のマコトに向かって帝国の言葉で棘々しく言う。
キャラバン・サライに現れたのは、ソ連内務人民委員部NKVDの諜報員ではなく、綾小路と英国大使館からの出迎えだった。
綾小路は無事、自分の身を守って英国大使館へたどり着いていた。
そして、睦子たちの居場所が憲兵隊から伝わるやいなや、英国大使館から迎えの車を寄越すよう、いち早く掛け合い、同行したらしい。
車の後部座席に収まった睦子は窓の外を流れる夜のテヘランの街並みを眺めるフリをして、窓ガラスに映るマコトの輪郭を見る。
隣に座っているのに、少しだけ気まずくて、彼の顔を直接見ることが出来ない。
「はぐれた場合の符丁、決めてたやないか……そうか、短歌は香港育ちで混血のあんたには難解やったんかもしれまへんなぁ?」
「申し訳ありません。ですが、あの符丁は長いので、襲撃を想定した場合は使い物にならないです。もう少し短い符丁を提案するべきでしたね」
綾小路の棘に、マコトも棘で応戦する。
「それに、僕を囮にしくさってからに……僕、軍人さんのあんたと違うて文官やで? 死ぬか思うたわ」
「下手に戦わず、逃げるに徹してくださって、こちらも大変助かりました。ありがとうございます」
迂遠な嫌味が得意な公家華族の綾小路と皮肉が得意な半分英国人のマコトは、水と油、と言うには似た者同士で、じゃあ、この場合は、何て言うのかしら、と睦子は取り留めもないことを考える。
考えているうちに、車はライオンとユニコーンが門柱に鎮座する大きな鉄扉をくぐり、英国大使館の敷地内に入った。
敷地内は驚くほど静かで、街のざわめきが門の外に置き去りにされたようだった。
「……歓迎されてるんだか、監視されてるんだか」
マコトはボソリと呟く。
「さあ、どうでしょうな」
ルームミラーに映る綾小路の顔は、眉間に微かに皺を寄せた。
車は建物の正面で止まり、エンジン音が切れる。
代わりに遠くで聞こえる衛兵の靴音が車内に入り込んできた。
ドアが開く気配に、睦子は背筋を伸ばした。
車寄せにはダニエルがいた。
MI6の彼の偽装身分は外交官で二等書記官ということになっている。
「奥へ案内する」
ダニエルはどこか居心地が悪そうに、睦子たちを出迎えた。
それは偽の役割で本物の大使館に立っているせいなのだろうと、睦子は思った。
だが、次の言葉で、居心地の悪さの種類が違うことに気がついた。
「エリザベスが怪我をした」
それを聞いて、睦子は身を強張らせた。
*
エリザベスは左の二の腕に包帯を巻いていた。
何事もなかったように装っていたが、腕を上げるときに顔をしかめる。
「ごめん、汚しちゃった」
エリザベスから返されたスカーフは、睦子がマコトに買ってもらったものだった。
紺地のスカーフの銀糸の刺繍に赤黒い汚れが入り込んでいる。
おそらく血痕だ。
「いいのよ。汚れが目立たない濃い色だから……それに私もあなたの小花柄のスカーフを汚してしまったからおあいこよ」
睦子は平静を装うが、狼狽していた。
スカーフが汚れたことではなく、エリザベスの怪我に。
陽動を任せた裏口のほうが、本命と目され、重点的に配置されていたのか。
──俊敏で近接戦ではマコトを凌ぐ実力を持つリズを傷つけることが出来るほどの、手練れの敵がいた……?
睦子は血の気の引いた顔で紺のスカーフを握りしめた。
「なんで……」
感情を押し殺して呟く睦子に、エリザベスは明るく振る舞う。
「ドジったのよ」
すると、ダニエルが渋い顔で首を横に振る。
「ドジったんじゃない。女帝が先制攻撃を仕掛けたら、身代わりとして成立しない……時間稼ぎのためにわざと受けた」
ダニエルに睨むように見下ろされた睦子は、彼が、かつて『私もリズも巻き添えを食うのは勘弁願いたい』と言ったことを思い出した。
「かすり傷だから」
なおも睦子を庇うエリザベスに、ダニエルは冷ややかに言い放つ。
「リズ、傷痕や後遺症が残るかもしれないんだ。甘やかすな。これはハルの責任だ。ハルにも、ちゃんと自覚してもらわないと困る」
「……身代わりになるって言い出したのはエリザベスだろう」
見るに見かねたマコトが口を挟む。
「ああ、そうさ。だが、そちらが何も悪くない、という顔をするのは、私はどうかと思う」
だが、ダニエルの返答は取り付く島もない。
「……これくらいで堪忍してもらえますやろか。お上には僕からちゃんと申し上げますさかいに」
最大限に柔らかく、棘抜きされた言い回しで、綾小路が仲裁に入った。
ダニエルは睦子を一瞥し、エリザベスに「早く休め」と声をかけ、客間へ引き上げた。
睦子たちも割り振られた客間へ向かった。
毛足が長い赤い絨毯が敷かれた廊下は足音が消える。
「エリザベスさんが怪我をしはったのは、あちらさんの落ち度ですから、お上は何も気にする必要はありません」
代わりに綾小路の声が妙に響いた。
「ですが、下々の者が怪我をすることに、いちいち動揺なさらないでください。御心はわかりますが、あなたは帝です。この先イスタンブールでお仕えする者たちの士気に関わります」
柔らかな声に乗せられた冷たい正論。
睦子は何も言い返すことが出来ず、黙り込む。
マコトも唇を結んだ。
ここで口を開いても、誰のためにもならないと、わかっているのだろう。
──マコトは安易な慰めはくれない。
そういう男だ。
だから信用出来るけど、この場では、もう少し何か言葉が欲しかった。
「マコト」
客間に入る前に、睦子はマコトに呼びかけた。
「マコトはイスタンブールまで、怪我しないでね?」
そして、懇願するように言う。
「ああ、気をつけるよ」
マコトは困ったような色を灰青の瞳に滲ませて、薄く笑う。
安易な約束や慰めはくれない。
きっと、これが彼の精一杯の慰めなのだろう。
*
翌日、ハル・エヴァンス名義の旅券、結婚証明書──『マシューの妻』であることを証明する書類を受け取った。
それを見たとき、睦子は少し浮かない顔をした。
ほんの紙切れ数枚に、ハル・エヴァンスとして署名をしただけで、いとも容易く、それらの公的書類は出来てしまった。
「こんなに簡単に『別人』になれてしまうのね」
睦子が呟く。
「『ハル』……李陽はフランス領インドシナのサイゴン出身の華僑。フランスはサイゴンの華僑を国民とは認めていないし、帝国占領統治下では、中国籍旅券の更新もままならなかったはずだ。戦後の混乱で出生証明の取り寄せも難しい。実質無国籍なら、人道上の保護という理由で英国人の配偶者としての立場が優先される」
マコトは淡々と言う。
彼の、マシュー・ケイレブ・エヴァンスの『妻』と記録に残る、偽の名前と経歴を騙る女に対して。
「そう、なのね……」
「不自然なことはない。まあ、書類作成の速さは、特別枠で超特急だが」
昨日の夜のキャラバン・サライで『俺の複雑な心境を汲んでくれると有り難い』と言ったときとは、打って変わって。
マコトは、まるで、何も感じていないように淡々と説明をしてくれた。
──リズに身代わりで傷痕が残る怪我をさせ、マコトの人生にも消えない記録を残して。
──私は今までもこれからも、一体どれだけ他人を犠牲にするのだろうか……?
睦子は暗澹とした思いを胸に、マコトから目をそらした。
左手薬指のガーネットが留められた銀の指輪を、右手で隠すようにそっと撫でた。
*
「トルコまで通してもらうのに、イランの国王やイラクの国王にご挨拶の書簡は、本当に出さなくてもいいのかしら?」
「なりません。あちらも知らぬ、存ぜぬのほうが助かるんです」
「失礼にあたらないかしら?」
「失礼でも証拠を残さんほうがええことはあるんです」
「でも……」
「お上。あなたは今『ハル・エヴァンス』なんです。英国大使も面会は遠慮したいと言わはったでしょう?」
「……」
国家元首として儀礼を通したほうが良いのではないかと綾小路に尋ねて、諌められた。
「もう、いいわ」
睦子は、ふいっと目をそらし、無言で英字の新聞に目を通した。
8月下旬から一ヶ月分の英国の新聞だった。
でも、戦勝国側からの情報からは、敗戦後の帝国の実態は読み取れない。
わかるのは『帝国』が連合国側に対して、『協力的』であること、その程度だ。
直近──と言っても外交郵便で届けられるので一番最近、一週間ほど前の記事。
その記事では、モーニング姿の摂政久慈宮惟仁と略装軍服の連合国軍総司令の写真が大きく取り上げられていた。
直立不動で緊張した面持ちの久慈宮に対して、連合国軍総司令の大男の米国人は襟をくつろげ、ゆったりとした立ち姿だった。
「……貴公子と名高いナルシストの叔父様がこんな情けない写真を許すだなんて……」
睦子の唇から愕然と言葉が零れた。
摂政である久慈宮──睦子の叔父は東洋人にしてはスラリと背が高いはずだが、米国軍人の大男の隣では貧弱な小男にしか見えない。
「あの御方はナルシストでも、プライドはあらしまへんから。気にすることはありません、お上」
綾小路は、久慈宮を腐しているのか睦子を慰めているのか、よくわからない台詞を吐いた。
久慈宮と綾小路は私的な友人関係だ。
綾小路は三十五歳、久慈宮は三十四歳、学年は一つ違うが、綾小路は傍系皇族で現首相の丹羽宮泰彦の同学年で学友だった。
そして、久慈宮と丹羽宮は歳の近い従兄弟同士で、仲が良かった。
その縁で、三人は親しい間柄だ。
だから、綾小路は久慈宮の人となりをよく知っている。
つまり、良いところも悪いところも、把握している。
睦子は、いいえ、と首を横に振った。
「綾小路、あなたもわかるでしょう?」
眉を曇らせ、綾小路を見上げた。
「叔父様がこの絵が、必要だと判断したから、撮らせたということが」
久慈宮惟仁は、必要があれば道化を演じられる、そういった男だった。
敗戦を国内外に強く印象付けるために必要だから、撮らせるまで、なのだろう。
皇族を『演じる』ことにおいて、久慈宮の右に出る者はいない──少なくとも睦子は、そう認識している。
「……我が国は本当に戦争に負けたのね」
睦子は小さく呟いて、項垂れた。
今まで、国が戦争に負けた、という実感は薄かった。
それより、自分が一旦は死を免れた、という実感のほうが強かった。
マコトに救い出されて香港を出てから、自分のことばかりに関心が向かっていた。
国や民や、皇族である家族や親類たちが、どのような境遇にあるか、そんなことは頭の中から抜け落ちていた。
いや、忘れようとしていた。
──『仮にも』帝であるのに。
それから数日後、在テヘラントルコ大使館から五人分の査証が発給された。
英国軍の物資と撤退人員輸送のトラックに便乗し、睦子、マコト、綾小路、ダニエル、エリザベスの一行はテヘランを離れた。
砂埃が巻き上がる未舗装路を往く、過酷な旅が始まった。
次回35話の更新は2026年2月26日(木)21時頃を予定しております。




