21.1945年(春和元年)9月 スマトラ東岸①
柔らかな光に、朝の気配を感じた。
マコトは目を開ける。
意志の強そうな弓形の眉。
伏せられた長い睫毛。
細い鼻筋。
半開きの薄紅色の小さな唇。
それらが美しく配置された瓜実顔。
起き抜けに目に入ったのが、至近距離の睦子の顔。
肩の上で切り揃えられた黒髪は、白いうなじに汗で張り付いている。
白い絹のシュミーズしか纏っていない柔らかな胸のふくらみは、規則正しく上下して、穏やかな寝息が聞こえる。
すぐさま起き上がりたかったが、腕枕をしている状態だから、起き上がれず。
首だけ巡らして確認する。
──よかった、服は……着てる、穿いてる。
ほおぉーーー、と長いため息をつく。
──1945年(春和元年)9月上旬、スマトラ東岸沖。
マコトは昨夜のことを思い出す。
睦子が嘔吐した洗面器を片付けて、マコトは船室へ戻った。
戻ったら、ナイトガウン姿の睦子がマコトが寝るはずだった二段ベッドの下段で横になっていた。
横になっているけど黒曜石の瞳はしっかりマコトを見ていた。
つまり、起きていた。
「なんで、そっちにいるの?」
マコトが単純に疑問として聞くと、睦子は言った。
「一緒に寝ちゃダメかしら?」
上目遣いで見上げる睦子にマコトは問う。
「理由は?」
睦子は艶っぽく答える。
「私たち夫婦役じゃなかったかしら?」
マコトは灰青色の目を細めて、げんなりとする。
「俺の純情を弄ぶつもりなら断るぞ」
すると、睦子は拗ねるように口を尖らせる。
「本当は何かあったら怖いから、と言っちゃダメかしら?」
マコトはグッと言葉に詰まる。
反対側の二段ベッドの下段では、睦子に対しての襲撃があれば反応が遅れる。
「……じゃあ、上段で寝ろ。下段の俺が先に敵襲に反応出来る」
「嫌。上段、暑かったもの」
「人間二人の方が暑い」
暖かい空気は軽くなるので天井付近に溜まる。
だが、その原理で天井付近が熱せられるより、人間一人分の熱量の方が明らかに大きい。
「香港で『一緒に死んでさしあげますよ』って言ってたのに?」
「粥に毒が入ってたときはな……そういう心中みたいな意味じゃない」
「あれ、ちょっと嬉しかったのに。私を弄んだのね」
「……弄んでない。あんたと一緒にするな」
マコトは眉間に皺を寄せる。
睦子は上目遣いで睨んでから、枕を抱える。
ここから梃子でも動かないぞ、という構えだ。
しばらく睨み合ってから、マコトが根負けする。
やけくそ気味に睦子の隣に転がる。
「心中したいわけじゃないんだからな」
「イスタンブールまで守ってくれるんでしょ?」
「守り抜くって誓ったからな」
「でも死ぬときは一緒に死んでね?」
「嫌だね。二人で生き抜くんだよ。俺を馬鹿にするな」
睦子がクスクスと笑う。
「じゃあ、安心して眠れるわ。でも、やっぱり暑いわね」
「だから言っただろ。人間二人のほうが暑いって」
「あと、狭いわね」
「船室のベッドって狭いんだよ。それに俺もあんたも平均より大きいからな」
「縦だけよ。横は大きくないわよ」
「いや……人間って身長に比例して多少幅も増えるんだからな。それにあんたは英国船のマズイ飯だろうがモリモリ食うから縦にも横にも育つわけだ」
主に育ってる箇所に、マコトは思わず視線を向けそうになった。
でも、見ないよう、視線を明後日の方向へそらす。
「ちょっと、胸を見ながら言わないでよ。不埒ねえ」
「見てない。どっちが不埒だよ……同衾を誘ったあんたのほうがよっぽど不埒だ」
憮然としたマコトに、睦子は艶やかに悪戯っぽい顔をする。
「あら、じゃあ、暑いから、ガウンを脱いでもいいかしら?」
「一緒のベッドで寝るだけだからな? 何もしないからな?」
「わかってるわよ。暑いから脱ぐだけよ」
「いや、ほんとに脱ぐのかよ?」
「だって、暑いんだもの」
「やっぱり、俺を弄んでるだろ?」
「あら、そんなつもりはないわよ?」
「いや、絶対、わかって揶揄ってるだろ?」
睦子はまたクスクスと笑う。
するりとナイトガウンを脱ぎ、シュミーズ一枚で、マコトに寄り添う。
「温かい」
小さく呟く。
愛おしそうに、頬を肩に擦りつける。
「マコトも、無事でよかった」
柔らかな声を漏らし、マコトの腕に抱きつく。
「……おい、ちかこ……」
若干の『抗議』の意を込めて呼んだが返事がない。
返事の代わりに、穏やかな呼吸音が聞こえる。
マコトの複雑な心境を我関せずと言わんばかりに、睦子は寝息を立て始めた。
──この状況で寝るのかよ!
天衣無縫。
自由奔放。
唯我独尊。
傍若無人。
思いつく限りの四文字熟語を並べて、マコトは苦虫を百匹ほど噛み潰した気分になった。
──これが、女帝。
マコトは眉間の皺を深くして二段ベッドの天板を仰ぎ見た。
そして、妙な気を起こさないために、心の中で素数を唱え始めた。
それが昨晩のこと。
マコトは結局、睦子の温もりと柔らかさを意識し過ぎて、そして、敵襲を警戒して、穏やかになど眠れず。
素数だけではなく、円周率や数式も唱えた。
浅い眠りを何度か繰り返し、朝を迎えた。
船室の扉をガンガンと叩く音がする。
「朝七時って言ったのに、いつまで寝てるんだ! もう八時だぞ!」
英国の外交官を名乗るMI6の諜報員、ダニエル・スペンサーの声だ。
「あー、一時間も余分に寝かせてもらってありがとうございまーす」
マコトは煽るように、声を張って言い返す。
「おい! 遅刻するなって言っただろ!?」
「まだ身支度が出来てないんで、待っててもらえます?」
ダニエルの怒鳴り声に、いけしゃあしゃあと返す。
マコトはシャツとスラックスを身に着けているが、睦子はシュミーズ一枚だ。
女帝の支度は、おそらく、まだまだ時間がかかる。
「ん、朝なの……?」
そして睦子は、のんびりと起き上がる。
口に手を当てて、優雅に欠伸を漏らした。
次回22話は、2025年10月30日(木)更新予定です。




