22.1945年(春和元年)9月 スマトラ東岸②
午前九時。
外交官夫妻という肩書きのMI6諜報員、ダニエル・スペンサーとエリザベスの客室は、客船改造型輸送船メアリー・オブ・インディア号の上層部にある一等客室だった。
蒸し暑い二等客室に比べれば、幾分、過ごしやすい。
船の外側にあるプロムナードデッキに面している窓も廊下側の窓も、今は閉じられているが、それでも階下よりは気温が低い。
設備も少し上等で、二段ベッドと折りたたみ式テーブルの二等客室と違い、古びているがテーブルとソファがあった。
そこで、マコトと睦子は、並んで座り、冷め切った朝食を口に運ぶ。
艶やかに内巻きに整えた肩より少し短い黒髪。 血を舐めたような赤い口紅。
華奢な肩と細い腰を際立たせる共布ベルト付きの白い開襟シャツワンピース。
マコトに手伝わせて身支度に一時間費やした睦子は、少しも悪びれずに、優雅な所作でミルクと砂糖たっぷりの紅茶を口にする。
食事も紅茶も、マコトが毒見をした。
そのとき睦子は、向かいに座るダニエルとエリザベス、二人に、『いつものことよ』と泰然と微笑んだ。
下々の者が奉仕することは当然であり、それに労うことが自分の務め、と言わんばかりの態度だ。
──これが生まれながらの女帝、という演技だな。
マコトは思う。
極東の帝室では、天子の徳の高さが尊ばれるから、謙虚であることが良しとされ、こうした『帝王』らしい振る舞いはあまり好まれない。
だから、これは、西洋の王族を想起する英国人、ダニエルとエリザベスへ向けた大袈裟な演技だ。
……と思いたい、というのがマコトの本心だ。
マコトに対する睦子の態度は、全体的に傍若無人なので、これが素の可能性も捨てきれない。
そもそも睦子は、皇女や女帝として、他人に見られることが前提の人生を送ってきたせいか、一挙手一投足が芝居じみている。
そのとき、その場面で、見せる顔が変わる。
そのせいで本質というものが、マコトにも今ひとつ掴み切れていない。
でも、毒見をするときは、いつも申し訳なさそうな顔をするから、今日のこの態度はやはり演技だろう。
いつもの方が演技でなければ、だが。
そして、マコトがこの茶番を止めずに便乗しているのは、主導権をあちら側に握らせないためであった。
あと、マコト自身の寝坊の失態を誤魔化すためでもある。
素直に謝罪するのはこちらの敗北を意味するので避けたい。
ダニエルとエリザベスはじっとこちらを観察している。
昨夜の様子から推測するに、ダニエルは戦闘力があまり高くはなく、尋問が専門。
エリザベスが先制攻撃含む逮捕術等、戦闘担当だ。
マコトは苦手な白インゲン豆の煮込みを、嫌々ながらも口に運びながら、警戒する。
睦子の茶番、ダニエルの尋問、エリザベスの物理攻撃に対する警戒。
三方向、気が抜けない。
パンに添えられた茶色いペースト状の物──英国発祥の発酵食品であるマーマイトのように美味しくない展開だ。
塩味と苦味と風味が独特の三竦みで、どうにも苦手だった。
「朝寝坊とは随分といいご身分ですなあ」
ダニエルは榛色の目を眇め、皮肉げな視線を睦子に投げかける。
「私、生まれたときから『随分といいご身分』よ」
それを睦子は涼やかに一蹴する。
「そうだったな。だが、生殺与奪権は私たちが握ってるんだ。忘れられちゃあ、困る」
大袈裟に肩をすくめるダニエルに、睦子はとっておきの笑顔を向ける。
「断っておくけど、寝坊したのはこの人だから」
「……ハル、お前も一緒に寝坊してただろう」
睦子がさらっとマコトのせいにしようとしたので、この旅で使う偽名『ハル』と呼んで、訂正した。
確かにマコトにも寝坊した落ち度はあるが、全面的にこちらのせいにされるのは心外だ。
それに、マコトに化粧を念入りにするように指示したのは睦子だ。
そのせいで更に余計に遅刻した。
三人のうち、一番の敵は味方であるはずの睦子かもしれない、とマコトは内心思う。
「仲良しじゃん。本当の夫婦みたい」
それまで黙って殺気だけ放っていたエリザベスが、肩下で柔らかに波打つ亜麻色の髪を揺らし、鈴のような声を発した。
エリザベスの妖精のような儚くて少し幼い顔に微笑が浮かぶ。
関心とも皮肉とも、どちらにも取れる発言に、睦子は鷹揚に頷く。
「ええ、仲良しなのは本当よ」
「嘘じゃないんだ。じゃあ、キスして見せて?」
「キス?」
「そう、挨拶じゃなくて恋人同士のキス」
エリザベスの挑発に睦子は嫣然と微笑む。
「見世物じゃないのよ」
「昨日は、見たいの、って言ったじゃん?」
「そんな簡単に見せるわけないじゃないの」
「へえー。ほんとは恋人のキスなんて、したことないんじゃない?」
「あるわよ。見せないだけよ」
「ホントに? それとも、仲良しも嘘?」
「今日のあなたには見せたくないだけよ」
笑顔のまま、笑っていない黒曜石の瞳と青い瞳が、睨み合う。
睦子とエリザベス、一気に不穏な空気が漂う。
ラードの匂いがする油っぽい英国料理のせいか、この空気のせいか、マコトは鳩尾付近に違和感を覚える。
そして、違和感を吐き出すように小さくため息をついて、成り行きを見守ろうとした。
「後で二人っきりのときにキスして、『マシュー』」
だが、睦子が、マコトの英国籍の名前を呼んで、流し目を送る。
「へえ、ほんとにすんの? マシュー?」
エリザベスが、好奇の目をマコトへ向ける。
東洋生まれの黒い毛並みの女狐と西洋生まれの亜麻色の毛色の妖精。
只人ではない美しさを持つ二人の女の不毛な化かし合い。
命に関わらないくだらない舌戦なら、勝手にやってくれて構わない。
だが、巻き込むのはやめてほしい。
マコトのなけなしの食欲は完全に失われた。
鳩尾の違和感はおそらく胃痛だろう。
マコトはナイフとフォークを縦に揃えて皿に置く。
ダニエルも呆れた顔で睦子とエリザベスを交互に見て、大きくため息をつく。
「リズ、これ以上舞台を散らかさないでくれ。収拾がつかなくなる。ここまでで十分。オーケー」
エリザベスをリズと愛称で呼んで、テーブルを人差し指で叩く。
それから、ダニエルは睦子とマコトに向き直る。
「大体、あんたらについて、わかったよ」
「……わかったって、何がですか?」
マコトが聞くとダニエルは細長い足を組み直して、大袈裟にまた、ため息をつく。
「とりあえず、これは、諜報員目線じゃなくて演劇学校出の舞台演出家志望崩れの私個人の意見なんだがな。マシュー、あんたは演技が薄っぺらい」
唐突に指摘されて、マコトは固まる。
「諜報員の基礎は出来てるし、変装は得意だと聞いたが、演技はあまり得意じゃないんだな」
似たようなことを上官の藤木に繰り返し言われた記憶が、脳裏に過った。
「嫌いな食べ物は豆料理とマーマイト、か」
悟られない程度には口をつけていたはずだが、誤魔化せていなかった。
口の中にエグみが増した気がして、マコトは顔をしかめた。
「マーマイトは苦手な奴が多いからともかく、豆は特徴的だな。苦手だ、と顔にそのまま出るのは、あまり良くないな」
こういうとき、下手に何か言えば藪蛇になりかねないので、マコトは黙ってダニエルを睨む。
「別人になりきるときにも滲むぞ、そういう癖は。気をつけろ。あと子供っぽい反抗もよせ」
そう言ってから、ダニエルは睦子に向き直る。
「あと、女帝、じゃないな、ハル。あんたは演技は上手いし、役が何層にもなってるから、本音が掴めない。不味い物だろうが美味そうに食える」
ダニエルから睦子への指摘は、褒めているようにも聞こえた。
「あら、私は演技なんてしていないし、紅茶の国の食事は口に合っていてよ」
だが、艶っぽく笑う睦子に、ダニエルは目を細めた。
「しかしな、発言が行き当たりばったりで、嘘が雑だ。それから色目を使って押し通そうとするな。それは私には通じないぞ。まあ、通じないことも直感でわかっていそうだが」
睦子も息を呑んで黙り込む。
その場を切り取れば、睦子の演技は上手い。
だが、嘘が雑である感は否めない。
その上、雑な嘘を色目を使って押し通そうとする手口は、悪質で危うい。
マコトもその点に関してはダニエルの意見に完全に同意する。
「こちらに護衛させたいなら発言にもっと気をつけろ。これは諜報員目線だ。雑な嘘で危ない橋を渡るなら、命の保証は出来ない」
淡々としたダニエルの声音は、脅しではなく、事実を並べているだけに聞こえる。
「司令部から、夫婦を装う女帝と護衛らしき二人への同行許可が出た。監視ではなく『同行』。意味は、わかるかな? ハル?」
ダニエルの問いかけに睦子は頷く。
「私を亡命させたい帝国の陣営が英国の情報部側、いいえ、もっと上の連合国軍総司令部あたりと繋がっているのね」
睦子が答えるとダニエルは眉間に皺を刻んでため息をつく。
「だろうな」
「知らない間に、また大掛かりな話になってるわね」
睦子も眉根を寄せる。
「私とリズの任務は、女帝らしき人物を発見次第、真偽を確認して伝達する……マシューを警戒して、リズが少々手荒なことをしたのは悪かったが……私は司令部に『本物、証拠がない』と伝えた。なのに、監視の継続ではなく、同行の指示が出たってわけさ」
ダニエルは人差し指で机をコンコンと二回叩く。
「監視と同行、似ているが、指示としては意味がかなり違う」
睦子は顎に指を当てる。
「それは私が本物だと確信に足るだけの情報を持っているか、この際、私が偽物でも構わないのか……同行ということは身の安全もある程度は保証せよ、ということね? 私は守らせるつもりだったけど」
ダニエルは大袈裟に肩をすくめる。
「そういうこったろ。女帝亡命という事実を成立させて、それを政治的に利用するのが目的と見て間違いないな」
事態は知らないところで、より厄介なほうに転がっている、とマコトも顔を強張らせる。
当面の安全が保証されるのは助かるが、おそらく、いいことばかりではない。
「英国側の諜報員と言っても、私たちはただの一兵卒だ。駒に過ぎない」
ダニエルもこめかみを指で叩く。
「それは、私たちと同様に駒で、立場は変わらないと言いたいのかしら?」
睦子が問うと、ダニエルは腕を組み前傾姿勢で、口の端を歪めた。
「そう。出来ることは少ない。冒険小説のスパイと違って、実際の諜報員の私たちは制約だらけさ」
ダニエルは自嘲するような笑みを浮かべる。
「そこの、マシューもそうだろ? 万能じゃあない」
皮肉たっぷりの視線をマコトに向ける。
腹立たしいが、それが現実だ。
マコトは静かに目をそらす。
「だから無難に駒として、偽装夫婦役だけを演じてくれないか?」
「与えられた役だけ演じろと?」
ダニエルの提案に睦子は小さく首を傾げた。
「ああ。下手に主導権を取ろうと、反抗したり引っかき回そうとしないでくれ。そこのマシューともども」
大きな動作で頷くダニエルに、睦子は聞く。
「それは、あなたたちでは、力が及ばないから?」
すると、ダニエルは話が早くて助かると、また大きく頷く。
「そ。じゃないと私たちもあんたらも命がいくつあっても足りない」
「一人一個しかないから命は大事にしたいわねえ」
呑気な調子の睦子に、ダニエルは声を低くした。
「『上』の意向に背けば本当に始末される」
それまでの芝居がかった口調から一転して発せられた、重い忠告。
「裏にいる連中は英国と『帝国』の政府。それから米国にソ連も。思惑はバラバラで相当厄介だ。それを理解してくれ。こちらを信用して、私の演出計画に従ってくれ」
低い声が纏う空気が、先程までとは違う。
「私もリズも巻き添えを食うのは勘弁願いたい」
それは、忠告というより警告。
もしくは懇願。
睦子は長い睫毛を蝶のようにはためかせ、瞬きを一つしてから、神妙な顔をした。
「わかったわ」
そして、あっさりと頷いた。
*
「あいつらのことを信用するのか」
外の空気が吸いたいとプロムナードデッキに出た睦子に、マコトは周囲に人がいないことを確認してから不服そうに言った。
睦子は睫毛を伏せて小さくため息をつく。
「信用するしかないじゃない。他に選択肢がないわ」
「いいや、まだ藤木中佐の伝手のSOE、英国特殊作戦執行部の協力員の連絡待ちだ。あいつらに従う必要性はない」
マコトの意見に睦子は首を横に振る。
「たぶん、そこにも、もう手が回っているでしょう。裏に連合国軍がいるなら」
「……」
「あなたなら、真っ先に想定出来ているでしょう。らしくないわ」
「らしくないって何だよ?」
「そういう子供っぽい反抗心で、目を曇らせるのはあなたらしくないわよ」
「あいつら、昨日、襲撃してきたばかりだぞ。エリザベスなんか、お前にナイフを向けたんだぞ。急に信用できる方が、どうかしてる」
憤るマコトに、睦子は静かに言う。
「そうだけど、あなただって香港で一度、私を売ったじゃない」
黒曜石の瞳はマコトを射る。
「それまでの行動じゃない。今、利害が一致しているかどうかよ。信用に値するかは、私は状況で判断するわ」
それは、静かだけど、研ぎ澄まされた刃のような言葉だった。
「彼らは巻き添えになりたくない、と言ったわ。どこかの勢力に『誤って』船ごと沈められたら堪らないわ。状況、わかるかしら?」
冷たい政治の世界で生き延びるための女帝の論理だ。
「信用出来るとか出来ないとかじゃないの」
諜報員の論理だって似たようなものなのに。
その冷たさに酷く苛立つ。
「……つまり、俺も信用してないって言うのかよ?」
「心から、という意味ではね」
マコトの感情的な問いを、睦子は一刀両断にした。
マコトが睦子を睨む。
睦子も上目遣いでマコトを睨む。
二人は睨み合ったまま沈黙する。
強い潮風が、髪と服をなびかせる。
赤道直下の太陽光が海面をギラギラと照らす。
「……どうすれば、お前は俺を信用する?」
沈黙を破ったのはマコトだった。
マコトは一歩、睦子に歩み寄る。
風に遊ぶ睦子の髪を掌で押さえる。
顔をお互いの息遣いがわかる距離まで近づける。
灰青色の目で睦子の黒曜石の色の目を覗き込む。
まっすぐと見つめる。
「そうね、それが情緒的な問いならば」
睦子は小さく息を吐いて。
「偽りない心をくれたら、かしら……?」
少し震えた声で言って、目をそらす。
読めない嘘つきの目の色が、ほんの少しだけ揺らいでいる気がした。
次回23話は、2025年11月13日(木)更新予定です。




