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初恋論  作者: 昼八伊璃瑛
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第四話 火傷の夢

 直哉は校庭の真ん中を突っ切って登校してきます。詰襟の釦をしっかりと上まで止めているのは、入学式以来でしょうか。私はそれを信じられないほど遠くから見ていますが、どこから見ているんだか自分でもはっきりしません。直哉に多くの人が寄ってきます。直哉はニコニコと、いつも以上に隙なく笑ってみせます。ただ直哉は、どこかに急いでいるのか、例の友人すら表面上に扱い、できたばかりの恋人にも、優しくはしますが、その作り物めいた笑顔を崩しません。そして誰も、それを疑いもしないのです。


 恋人が彼から離れていくと、彼はいよいよその足を速めました。その表情が次第に苦しくなっていきます。すると、気が付くと、校庭にいたはずの彼が、目の前にまで来ていました。私は保健室にいたようです。


 直哉は私の手首を縋るように掴み、締め付けるような襟へと誘いました。苦しそうに息を乱しています。私の手を包む指が小刻みに震え、伏せられていた眼が、じっと、持ち上がると、とうとう涙が揺れ零れ、美しい顎をなぞるようにして私の、彼のそれと絡みに絡んだ指に落ちました。


「痛い」


 息も絶え絶えに直哉は言いました。「痛い―」繰り返される度、私の心臓が、また、ああ、熱い、熱い―。


 詰襟に指をかけてその釦をはじきます。手先は器用なつもりですがもつれました。勢いで振りほどいてしまった彼の指は、私の両手首に添えられています。中のシャツに手をかけると、不意に私の手が彼の素肌に当たり、彼は咄嗟に喉を反らせて短い絶叫を迸らせました。響きとして美しいものではありませんが、構いません。今の私にとって、直哉の美しさは、確かに尊くはあるけれども、けれどもはや、付加されるまでもないほど完全なものでした。今さら私の胸を焦がすこの炎はならば、一体。


 震える手で白いシャツをくつろげると、体全体に赤い火傷が広がっていました。それまで異変のなかった顔も、うなじから這い上がってくるその赤がどんどん広がって、彼はますます泣き腫らして痛みに震えます。


「痛い」


 先生を、友人を、恋人を、探しても誰もいません。どうして彼一人でここに、どうして他に誰もいないのか、問い詰めると、直哉は答えずに、憔悴しきった、痛みに疲れ果てた目で、何の余裕もなく言いました。


「助けて」


 痛みが、麻薬のように、再び血の中を巡りました。激しく打ち付ける心臓は、またひび割れて、新たな火を得て徐々に延焼していきます。ああ、どんなに痛いだろう、苦しいだろう、こんな風に、あんな風に、熱いのか。


 彼に与えられる彼の痛みが神経のすべてに行き渡って、酸素を根こそぎ奪っていきます。あ、ぁあ、あ、熱い―。


 彼の腕を強く引き、痛みに息を詰めるのを聞きながら、その真っ赤に焼け爛れた喉笛に舌を這わせました。


 直哉は声にならないほどの激痛に身を震わせ、それでも私の髪に指を通して自分の火傷に押し付けました。ふらつく直哉に食らいつくうちに落ちていた彼の詰襟を踏み躙ってしまったのをぼんやりと感じます。舐めた後の直哉の肌は白くなっていきましたが、今度は私にその熱が移って、胸元の肌が激しく痛み出しました。ただどんなに熱くても、ちっともやめる気にならないのです。


 熱に浮かされた勢いのまま、直哉を保健室のベッドに押し付けました。見上げる直哉の目からは夥しいほどの涙が零れ、疲れ切った頬に容赦なく痕をつけています。嗚咽は身も世もなく口から溢れ、ぜえぜえとした男性的な循環器の音に、内臓を締め上げられたような甲高さが頼りなくかすかに混じって、伝わる痛みはますます私を恍惚とさせました。


 直哉、名前を呼びかけます。ぐちゃぐちゃな視線が痛みも恐怖も隠すことなくこちらに向けられました。


 直哉、直哉、息の混じった私の声は大層聴きづらかったでしょうが、直哉は受け取って、それすら苦しいというように下唇を噛みしめます。血がにじんで新たな痛みを訴えるその唇に、ああいけないと、自分のを重ねて舌を這わせると、もどかしい微かな痛みに添えられたままの指が震え、私の唇を噛み返してきました。


 直哉はもっと、もっと、痛みによる治療を望んでいるようです。私も負けず劣らずそれを渇望していました。直哉をうつぶせにし、袖が通っただけの白いワイシャツの襟を後ろから掴んで引きずると、真っ赤なうなじが現れて、冷やされるのを待ち望むように放熱していました。


 指を添えると、青い血管が大きく、ゆっくりと脈打って、直哉の呼吸に合わせて、私の痛みを待っています。


 そっと舌を置いて、ゆっくりと冷やすように肩からうなじへ舐めあげました。這い上ってくる痛みに、あ、ぁ、とどっちつかずな声を低く漏らした直哉が、不意に、後ろ手に私に振り返ります。


 痛みに垂れた目はぐっしょりと濡れ、まだ血の伝う唇が小さく動きますが、ためらいがちで、空気に紛れて、聞こえません。


「なに」


 心が逸るのを抑えて、穏やかに聞きました。


 直哉の口から言って、欲しがって。あげるから、なんでもあげるから、見ているから、詰襟を着ていようと、どんな笑顔を浮かべようと、絶対に私だけは、直哉の痛みを見逃さないから、だから隠さないで、言って。


 懇願が彼に届いたのかはわかりません。直哉はそれでも、崩れ落ちるように、ゆっくりと言いました。


「助けて」


 私は、彼のうなじに噛みつきました。男子高校生として並の体力を持つ彼が反射的にジタバタと動くのを、体重をかけて必死に止めます。ぐっと力を籠めるたび、直哉が途切れ途切れに潰れた声で咽びました。早く楽にしてあげたくて、私はよりきつくその痛みに喰らいつきます。皮がちぎれて肉が見えたのにすかさず歯を立て直すと、彼は断末魔のような叫びをあげました。全身から絞り出されたようなそれが、底の見えないぞっとするほどの苦痛を私にまで響かせてくるのに怯まず、執拗に肉を抉ることに夢中になれば、血がちゃぷちゃぷと滲んで溢れて、直哉はもう力なく、がたがたと幸せそうに震えるばかりです。


 最後に思い切り噛みつくと、ぅ、と、小さいけれど、今までで一番危うい声が直哉から漏れました。ぷしゅりと大動脈が破裂して、直哉と私の顔を両方汚します。直哉が満足したように瞳を閉じるのと一緒に、開いた傷口が閉じて、真っ白い肌に戻っていくのを、陶酔して見つめて、体全体に残る直哉にもらった痛みの余韻にどっぷりと体を浸らせながら、視界がぐらついたところで漸く夢は弾けました。


 


 時計を見れば、眠ってからまだ一時間と経っていませんでした。下半身に這う違和感に愕然とします。息はひどく乱れ、嫌な汗のせいで額に髪の毛が張り付いていました。寝つきの良い家族は身じろぎ一つ聞こえません。自室の暗闇の中で起きた私は一人、震えながら体をかき抱きます。


「直哉」


 実際に口に出したのはそれが初めてで、その自分のものとも思えぬ掠れた声に内臓全部がざわめき、考える間もなく喉まで込みあがったものを、部屋の隅の屑入れに出しました。


 喉を過ぎるたび熱いそれは、体を締め付け涙とともに出てくるそれは、暗がりにも醜く著しい酸性の臭気を放っていました。


 落ち着けばただ冷えていく空気、まだしつこくへばりつく腰の違和感、電流のように痛みを伴う痺れ。どうにもならない事実が、だるさと虚しさを連れてゆっくりとのしかかり、私はようやっと腰を上げて灯をつけ、片付けを始めました。

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