第三話 接続
保健室には養護教諭の方がいませんでした。ちょうど職員室に書類か何か取りに行っていたようです。処置の仕方はわかっていましたが、勝手に物品を使うのは気が咎めます。職員室に呼びに行こうとする私の手首を直哉が掴みました。痛みのせいか力んだその手に、血管が少し苦しいくらい圧迫されます。
直哉に触ったのは、これが初めてでした。
振り返ると、直哉は気まずそうに手を放し、目をそらしましたが、愛想笑いは長く続かず、ぐしゃりと潰れて下唇を噛みしめました。痛くて仕方がないのでしょう。早く冷やしたい。あとで先生には謝るから、と言いながら、直哉は自分の持っていたタオルを水道で濡らしました。慣れた様子に尋ねると、やはり普段から日焼けに弱い体質のようでした。家に日焼け止めはあっても、学校に持ってきて神経質に使っているのを見られたくなかったと彼は話しました。概ね予想通りです。あんまり美しく人目を引くので、身だしなみや肌に気を遣っていると思われるのも嫌なのでしょう。
私は、冷やした後に肌の保湿をするためのものを探し始めました。流石保健室です。ワセリンの類ならいくらでもありました。そういえば、体内から抜けた水分の補給もしなければならないことに気が付いて、持参していた飲み物が今手元にあるか確認しようと直哉の方を見て、瞬間、凍り付きました。
直哉は濡らしたタオルを腕に乗せ、上からもう片方の手でそっと抑えていました。相当に痛いのか、普段穏やかに微笑んでいるだけの表情は、痛みの波に合わせてギリギリと緊張をしています。眉を寄せて目を細め、体全体を強張らせ、時折息を詰めるのです。そこには、分別や礼儀を弁えた常の精神はありません。ひたすら自分の物理的な痛みと格闘する、生き物としての感覚だけに支配された直哉がいました。
私はその有様に、身震いします。
私は直哉が好きです。その美の崇拝者としてだれにも勝る自負があります。人間として信頼してもいます。
しかし、その時の感動、いえ、情動は、それらのどういった言葉でも説明はできません。確かに美しい。どれだけ苦しんでいようと彼は美しいままです。不謹慎ですが、赤く焼けただれてしまった痛々しい肌も、それはそれで、彼の透き通るような肌を却って際立たせるようで、たまらなく、ほれぼれするほど美しくはあったのですが、そうではない別の何かが、私の心臓を不快なざわつきとともに真っ黒に焦がしていきました。ただわからないのです。その熱の源が、私にはわからないのです。
不意に、彼をただ待っているのが申し訳なく、押しつけがましく思えてきた私は、何かをやり過ごそうと、冷やした後の処置について一通り話し始めました。直哉が既にそれを知っていても、仕方がないつもりではありましたが、説明して正解でした。直哉は普段、日光で火傷した肌を冷やすまではやっていても、水を飲んだり、肌の保湿が必要であることは知らなかったのです。普段から肌が弱いのでワセリンなどと武骨なものでなくとも、こまめに保湿をしているらしく、そのため却って、日焼けの後に特に保湿をするという感覚がなかったようでした。
一瞬直哉は、日焼けの痛みを忘れたように話に聞き入っていました。そして、少しだけ油断して、水で冷やしなおしたタオルを首筋につけた時でした。
喉の奥から出てくるような苦悶の声が、一瞬迸って、直哉は歯を食いしばりました。押し付けすぎたのか、身構えが足りなかったのかはわかりませんが、とにかく鋭い痛みが走ったようで、彼はタオルすら取り落としました。
私が焦ってタオルを拾い上げると、湿ったそれに、生々しく直哉の体温が残っていて、ありがとう、と掠れる声でどうにか告げた声に、顔を上げると、普段は見えない、俯いた時の直哉の表情が、正面が、目に飛び込んできたのです。
激しい痛みをこらえて険しくこわばった眦一杯に、生理的な涙を溜め、噛みしめた下唇は赤々と燃えあがっていて、その苦しみのほどがこちらにまで焼き付いてきます。頬は痛々しく腫れていて、今にも零れる滴を受け止めでもしそうです。髪の毛から落ちる影の中に、白も赤もぼんやり浮かび上がって、それらすべてが、痛い、熱いと叫んでいました。
受け取ったタオルを、直哉は慎重に、恐れすら感じながらゆっくりとうなじに貼り付けました。まだ痛むのか、ぴくりと身を震わせますが、先程よりは多少穏やかに、その鈍痛を受け入れて、やっと落ち着いた息を吐きます。
そんな直哉を見つめる私の心に、ふと、ある事実がよぎりました。直哉のタオルを拾った時の、生ぬるく指にまとわりついた体温と、そしてそれを感じた私の指が確かに触れたその部分が、いつも白々しいほど透き通る彼のうなじに張り付いて、痛みを催させたという事実―。
慌てて手元に置いていたワセリンの説明文を無理やり眺めました。何でもよかったのです。直哉から視線を外すことができれば。
私の心臓はそれでも既に、真っ黒く焼け爛れていました。直哉の痛みを想像した瞬間、自分がそれにつながったような気がして、想像でしかない苦痛が甘ったるく血液の裏側を這いまわって、警告が耳の奥でガンガン鳴り響きます。
ほどなくして先生が現れた時は、心の底から安堵しました。もともと物の分かる方なので、説明すれば、処置を引き受けてくれました。二人とも特に咎められはしません。保険医の先生は、ワセリンを塗るたび痛そうに顔をしかめる直哉に苦笑しましたが、私はそれどころではなく、五時間目が終わった瞬間に、治療の残る直哉を置いて授業に戻りました。
その夜、はじめて直哉の夢を見ました。




