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【第十二章】婚前契約書

 あくる日の午前、ノースウッド公爵家は正式な婚前契約書を携えて、ピーチャム伯爵家を訪れた。嫡男であり当事者のマクシミリアンを筆頭に、公爵家を取り仕切る家令、お抱えの公証人、更には宝石商。一個師団とも言える鉄壁の布陣で攻め込んできた。


 確認をと促された書類は一縷の隙もなく、国政の頂きを担う宰相補佐官の才能が発揮されているようだ。

「ではピーチャム伯、こちらに署名を」

 公証人から差し出された羊皮紙に、アラディアの父がペンを走らせる。両家の合意のもと、婚約の同意書が締結された。


 昨晩、突如として現れた公爵家の馬車から、マクシミリアンに恭しくエスコートされて姿を現したアラディアを見て、使用人たちは内心をざわつかせた。『先日はマスクレイヴ辺境伯』『今日はノースウッド卿』お嬢様に一体何が起きたのかと。


 だが、喧騒はすぐにかき消された。

 公爵家の馬車を出迎えたアラディアの父に、マクシミリアンが最大級の敬意を払い「ドナヒュー侯爵夫人立会いのもと、ご息女に結婚の申し込みをした」と伝えたからだ。

「明日正式な契約書を送る」

 そう簡潔に言い残したマクシミリアンが去ったあと、ピーチャム家は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。


 家族には媚薬の件を隠し、神霊の宿り手で『レディ・アイリーン失踪事件』の証言を取ろうとマクシミリアンに触れているところを、ドナヒュー夫人に見られたと、できるだけ取り繕って伝えた。

「あぁ、アラディア。なんてことを……」

「不注意でしたわ、お母様」

「異性と二人きりになるなんて。それはとても軽率なことだし、その上、貴女が傷つけられることだって起こるのよ」

 母を泣かせてしまった。

「ノースウッド卿が名誉を守る紳士であったことに、感謝をしなければいけませんよ」

 言い聞かせるように抱きしめられ、ジクジクと胸が痛む。


 その後、夜半まで父と話し合った。

 女性の名誉を守るという紳士協定上、婚約を女性の側から断れるものではないらしい。さらに今回は爵位の差もある。どうせ彼の『正す力』によって、最終的には無かったことになる婚約ならば、契約書を交わす前になんとかしたかったけれど――。どうにもままならないようだった。


 そうして眠れぬ夜を過ごしたあと、アラディアは婚約締結式の朝を迎えていた。応接室のソファは針のむしろのようで、身を固めて縮こまる。

「では指輪を、と言いたいところだが。あいにく好みがわからなくてね」

 控えていた宝石商の手により並べられた指輪の輝きを、アラディアはこの世の終わりの走馬灯のようだと思った。

 何も選べず躊躇していると、マクシミリアンは勝手に指輪を選び取り「これを彼女のサイズに」と注文する。


 こうしてすべての手続きがつつがなく完了した。


「さて。以後の段取りは家令にまかせて」

「ピーチャム伯。貴邸のバラ園は素晴らしいと聞いている。見せていただいても?」

 そう言うと、マクシミリアンがアラディアを一瞥して立ち上がる。

「アラディア、ノースウッド卿を案内なさい」と察した父に促され、二人で応接室をあとにした。


 中庭は色とりどりのバラが初夏の風に揺れて、甘やかな香りが漂っていた。人の気配が途切れると、アラディアがはぷはぁと息を吐いた。

「どうした。昨日のよく回る口は忘れてきたのか?」

 ようやく緊張を解いたアラディアを、マクシミリアンが茶化す。「何でそっちは平然としてるのよ」と悪態をつきそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。


「……こんな婚約、ご両親は反対しなかったのかしら?」

 素直な疑問をぶつける。声音はすっかりいつもの調子に戻っていた。

「いや。むしろ、喜んでいたよ」

 え? 名家の跡取り問題が絡むのに、それはずいぶん思慮不足じゃないかしらと、他家のことながらも心配になる。だが、マクシミリアンが本当のことを言っているとは限らない。アラディアには彼の現世記憶は読みこめず、言葉の真意を確かめるすべはなかった。


 ちらりと顔を見上げる。

 夜の湖を思わせる瞳を伏し目がちにし、眉根を寄せる男の顔は婚約の喜びなど微塵も感じられない。一文字に固く閉じられた唇が目に入り、アラディアは昨日の夜を思い出す。

 どうしても確かめたいことがあった。宿り手の力が使えないのなら、自分の言葉で聞くしかない。心を決めて頷くと、恐る恐る口を開く。


「あの、ノースウッド卿……」

「レディ・アイリーンにも……その……」

「公爵様のアレ、入れたんですの?」


 恥じらいながら問う声に、マクシミリアンは慌てて体ごと向き直す。するとアラディアはぺろりと出した舌を指差してみせた。

「推察のとおりだ、ピーチャム伯爵令嬢殿」

「だが良家の子女なら、入れるという言葉は慎め」

『アレ』の意味を『舌』と正しく汲み取り、マクシミリアンは安堵を覚えながら答えた。ただ不機嫌指数は著しく上がっているようだ。

「え、駄目なの?」

「じゃ、挿入」

「……なお慎め」

 あっけらかんと言葉を返され、マクシミリアンは右手で顔を覆い天を仰ぐ。

「お前、絶対わざとやってるだろ……」

 小さく漏れた声は薫風に遮られ、アラディアの耳に届くことはなかった。

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