【第十章】独身の貴族
「ごきげんよう、ノースウッド卿」
音もなく近づいて、アラディアが声をかける。
「また貴女か」
「私に話すことなどないぞ」
呆れたような声色には、かすかに困惑も感じ取れた。
「ノースウッド卿にはなくても、わたくしにはございますのよ」
じっとりと熱がこもった視線を送ると、マクシミリアンは口の端を歪ませて笑みを浮かべる。
「これがもし、私の気を引く駆け引きだとするなら、ずいぶんと稚拙なものだな、桃色の脳細胞とは」
「それとも閨語りでは饒舌になるとでも?」
明らかな侮辱の言葉――。
もう、頭にきた! この挑発、受けて立ってやろうじゃない! 決意を胸に、アラディアは自分でもびっくりするくらいの猫なで声を上げていた。
「魔女を買いかぶり過ぎですわ、宰相補佐官様♡」
「本当にお上手なんだから」
刹那、アラディアの右手に隠されたガラスのアトマイザーから、マクシミリアンの眼前に薬が噴霧された。紺色の瞳孔が一気に開いて、目の前の男の身体がビクンと跳ねる。
「くっ……」
ふらつき始めたマクシミリアンの手からワイングラスを奪うと、零さぬようにテーブルに置く。念のため手首に触れてみたが、レコードは全く流れてこなかった。やはり『唇』しかないようだ。
「ノースウッド卿、ずいぶんとお疲れのようですわ」
「あちらで少しお休みになって」
介抱するふりをして、マクシミリアンをホールの外へ連れ出すアラディアは、自白剤を調合した魔法薬師の言葉を思い出していた。
――回想――
アラディアには幼い頃からの経験則がある。
肌の接触では、視えないことも起こる神霊の宿り手だが、頬やおでこにキスをされる時は必ず発動しているように感じていた。
それは令嬢になり、手の甲に口づけを受ける様になってから、核心めいたものへと変わっていく。
「肌より強い接触が唇で、ギフトを高確率で発動する条件になる」
そんな仮説を魔術店『鉄鍋に宵闇』の店長、ハイドに話したことがあった。ハイドは薬棚が揺れるほどの大笑いをしたのち、小瓶を1つ差し出して言う。
「お嬢、そんならこれがお役にたつかもしれませんぜ」
「それはなにかしら?」
垂れた目尻を更に下げ、無精髭の残る顎先を右手で撫で回しながら、ハイドは答える。
「最上級の媚薬ですよ」
「媚薬?!」
「しかも経口摂取の手間いらず」
「吹きかけるだけで即堕ちの特別仕様♡」
「どんなすました男も、お嬢にむしゃぶりついてきます」
びやく? むしゃぶりつく? 貴族生活ではとんと聞き慣れない言葉の連発に、アラディアは目を白黒させた。というかハイド! 私、顔から火が出るくらい恥ずかしいんだけど!
「お嬢のギフトとやらが唇で強まると言うなら」
「そうなっちまった男なんざ、あっけなくお嬢に記憶を晒しちまう」
「最上の媚薬は、最高の自白剤って寸法でさぁ!」
――――
小鼻を膨らませた魔法薬師の卑しい言葉を、あの時は漫然と聞いていたけれど。まさか本当に使う日がくるなんて――。発汗と荒い呼吸に喘ぐマクシミリアンを支えながら、屋敷の奥へと誘導する。
目的の部屋にたどり着くと、マクシミリアンは暗がりの中ワンショルダーの長椅子へと崩れ落ちた。
苦悶の表情を浮かべ自身の胸元を握りしめるその姿は、掻き立てられる欲望と戦っているかのようだ。
アラディアは部屋の扉を閉めると、喘ぐ男の傍らで様子をうかがった。仄暗い部屋で月明かりに照らされた双眼は熱く潤み、それでいて恨めしそうにアラディアを見つめていた。
……うん、おかしい。
むしゃぶりついてこないじゃない!
そう――。
この日のアラディアは『襲われる気満々』だったのだ。
【1】マクシミリアンに媚薬を使う。
【2】正気を失ってむしゃぶりついてくる。
【3】組み敷かれている間にアカシック・レコードを視る。
【4】ハイド謹製、逆さ記憶の丸薬でまるっと記憶を忘れていただく。
完璧な計画であった。
しかし目前の男は、自制心をフル動員して媚薬の効果を抑え込んでいるようだ。
(並外れた精神力……なのかしら)
(でも、どうしよう?!)
導き出す応えは単純で、唇を接触させれば良いのだ。そう頭では理解できる。
けれども『襲われる』覚悟はできていたが、あらがう異性に『自分から行う』ことは想定外だ。
しかもアラディアにキスの経験がない。ファーストキスともなれば、尚更自分から行くことにためらいがあった。
(ああでも、時間がない)
(ハイド、あとで覚えてなさい!)
覚悟を決めた。左手に逆さ記憶の丸薬を握りしめ、椅子の傍に膝をつく。
「お苦しそうですね、ノースウッド卿」
「今、クラヴァットをゆるめて差し上げますわ」
震える手でタイをほどいて、これから襲おうとしている男の貌を眺めた。
改めて思えば、キスの相手としては身分や容姿も申し分ないのだ。表情に張り付いている不機嫌さで損なわれてはいるが、流れるような鼻梁ときゅっと引かれた薄い唇は男らしく均整がとれている。
普通にしていればずいぶんと顔は良いのよね、と自分に言い聞かせてみたけれど。それでもなんだか残念な気持ちだけは打ち消せなかった。
(さようなら私のファースト・キス……)
汗に張り付くマクシミリアンの前髪を指で払い、上気した頬に手を添える。
そうして、おそるおそる唇を重ねた。
(さあ。今度こそ貴方の現世記憶を視せてちょうだい――)
祈るように意識を深くして、魔女はレコードの受け入れ体制を整える。しかし映像は現れない。インストールは行われず、目の奥はただの白紙のまま。
(なんで、なんで彼の記憶は視えないの――?!)
その時。動揺するアラディアの虚を突いて、ぬめりとした弾力のある肉塊が唇を割り差し込まれた。
(――!!)
慌てて身を離そうと試みるも、マクシミリアンの両腕に後頭部と腰を巻きしめられて身動きがとれない。ならばと首をすぼめると、追うようにして求められ、歯列をざらりとなぞられた。
背筋がぞわりと粟立つ。
(こ、これがむしゃぶりつかれるってやつ?!)
(――って、だめ。早く丸薬を使って逃げないと!)
その瞬間。部屋の扉が跳ねるように開かれた。
「あなたたち、なにをしてらっしゃるの!」
「未婚の男女が供を連れずに同席するなど、恥ずべき行いです!」
アラディアは慌ててマクシミリアンの身体から飛びのいて、声の主を確認する。そこには見覚えのない痩せぎすの貴婦人が立っていた。身なりからしてかなり高位の貴族と見て間違いない。
正直詰んだ! と絶望する。
長椅子には媚薬で欲情し、あられも無い姿の宰相補佐官。違法薬物である媚薬の使用を疑われれば、丸薬で記憶の消去もできていない状況では言い逃れも叶わない。
蒼白となり、立ち尽くすアラディアの後ろで、マクシミリアンがゆらりと立ち上がった。スマートな手つきでクラヴァットを結び直しながら、ドアの近くに歩み出る。
「これはドナヒュー侯爵夫人。ご機嫌麗しく」
低くて通りの良い声は、落ち着き払っていた。
「これがご機嫌に見えますか!」
プリプリ憤るこの女性、ドナヒュー夫人の名前にはアラディアも聞き覚えがあった。
ドナヒュー侯爵夫人。熱心な聖母の信望者で、善き妻・善き母・善き家庭のスローガンを掲げる、教会婦人部の中心人物だ。すなわち、魔女と偽称する『桃色の』アラディアとは、すこぶる相性が悪い。内心「うげっ」と思いつつ、気配を消しながら成り行きを見守る。
「侯爵夫人の神への崇敬心、貞淑な女性の模範となる立ちふるまい。ご功名は私の元にも届いております」
胸に手を当て、すこし大仰な礼をするマクシミリアンの姿に、媚薬の影響は見て取れない。
「世辞を言っても無駄です」
開いた扇子がピシャリと閉じられる。夫人の怒りはまだ収まらないようだ。
「貴公の女性への紳士らしからぬふるまいの数々、わたくしが知らないとでも?」
侯爵夫人は閉じた扇子で、マクシミリアンの胸を数回叩いた。
「真の紳士ならば、女性の名誉を守りなさい」
「今、そこの彼女に取るべき行為を選択しないなら、わたくしは貴公の父君に進言しなければならないでしょう」
――しばしの静寂。
「紳士たる者の責務は、公爵家も標榜するもの」
「守るべき名誉は重々存じております」
月明かりを灯したマクシミリアンの瞳が自分を捉えている。これは媚薬を使用した断罪と異端審問コースだわと、アラディアは諦観した。自分で招いたこととはいえ、なんて結末なのかしら。せめて現世記憶を読み込んで、レディ・アイリーンの手がかりを掴みたかったけれど――。もはやそれは叶わぬ望みだ。今はただ、自分の罪を暴く男が近づいてくるさまを、じっと見つめることしかできない。
すると突然。
マクシミリアンは目前で、片膝をついて跪き右手を差し出す。
「アラディア・ピーチャム嬢。私の妻になってほしい」
――は、はい?????
理解が全く追いつかなかった。天地鳴動するかの如く跳ね上がる鼓動に翻弄されながら、アラディアはドナヒュー夫人の様子が気になり、視線を送る。
夫人はこの上なくご満悦の表情で、何度も嬉しそうに頷いていた。
(あっ)
(えっと……あの……)
(守る名誉って、あたしの?)
二人きりで逢瀬した女性の『評判』を落とさぬため、時に高位の男性は責任を取り同席した女性を妻に娶る。貴族社会で幾度も語られる道徳話ではあったが、まさかこの身に降ってかかるとは。
アラディアは錯乱してフリーズした。とてもではないが差し出されたマクシミリアンの右手を取ることなんてできそうにない。
「か、考えさせてください……」
そう、か細い声を絞り出すのが精一杯だ。
「どうした? 驚いて声も出ないのか?」
「私の妻となる人は、ずいぶんと奥ゆかしいようだ」
「色よい返事をもらうため、これからゆっくり口説くとしよう」
マクシミリアンは立ち上がり、怨念を宿したような笑顔を見せる。この不機嫌公爵の本性は悪魔なんじゃないかとアラディアは思った。
「さて、性急な求婚に戸惑う愛しき婚約者候補殿を、ピーチャム伯爵邸に送らねばな」
「いこうか、レディ・アラディア」
目こそは微塵も笑っていないが、どこまでも自然な紳士の姿勢で促され、アラディアはマクシミリアンの肘に手を添えた。二人で寄り添い部屋の出口へと向かう。
「という次第だ、ミセス・ドナヒュー」
「正式な婚約が発表されるまで、この件は他言無用に頼む」
侯爵夫人とすれ違いざま、マクシミリアンが釘を刺す。その声はあまりにも低く、鋭くて。権力の威圧感を漂わせていた。




