第35話『ファイアウォール崩壊(初めての知恵熱)』
深い、熱い水底から浮かび上がるような感覚だった。
「……ん、ぅ……」
重い瞼をゆっくりと開けると、そこは私の執務室に設置された、あの『オープンイノベーション空間(特注ベッド)』の上だった。
視界がぐらぐらと揺れ、全身の関節が痛い。息を吐くたびに、自分でも驚くほど熱い空気が唇から漏れる。
「エルゼ! 気がついたか!?」
「エルゼ! 大丈夫!? どこか痛いところはない!?」
左右から、切羽詰まった声が降ってきた。
ぼやける視界の端に、顔面蒼白のレオンハルト様と、今にも泣き出しそうなルカ様の顔が見えた。二人はそれぞれ私の右手と左手を両手で包み込むように握りしめ、縋るような目で見下ろしている。
「……陛下……ルカ、殿下……?」
私は掠れた声で呟き、起き上がろうとしたが、体にまったく力が入らない。
「駄目だ、起きてはいけない! 君は高熱を出して倒れたんだぞ! 宮廷治癒士長の話では、過労と……極度の心労による『知恵熱』だそうだ」
レオンハルト様が私の肩を優しく押し留め、額に乗っていた冷たい魔導水嚢を取り替えながら、苦しげに顔を歪めた。
「ごめん、エルゼ。僕たちが、君を追い詰めすぎた。……無理に答えを急がせて、君の細い肩に抱えきれないほどの重圧をかけてしまったんだ」
ルカ様も、私の熱い手を自分の額に押し当てながら、悔やむように声を震わせた。
知恵熱。心労。
いつもなら、ここで私の鉄壁のビジネス脳が起動し、「ただの風邪です! 労災認定は不要です! ポーションを飲めば五分で復帰します!」と声高に宣言するところだろう。
しかし、今日の私は違った。
熱でドロドロに溶けた脳みそは、ビジネス用語という複雑な演算処理を完全に放棄していた。
代わりに浮上してきたのは、普段なら何重もの論理の鎧で封じ込めている、エルゼという一人の女性の、純度百パーセントの『本音』だけだった。
「……ちがう、の……」
私は、ふるふると弱々しく首を振った。
「ちがう……お二人の、せいじゃ、ない……。私が、意気地なしで……ばかだから……」
「エ、エルゼ……?」
舌足らずで、熱に浮かされたような甘い声。
自分でも信じられないような無防備なトーンで紡がれる言葉に、レオンハルト様とルカ様がハッとして息を呑む。
「私……ずっと、逃げてたの。お二人がくれる、甘い……福利厚生って言い訳してた、やさしさに……甘えるのが、こわくて……」
私は熱い息を吐きながら、涙で潤んだ目で、二人の顔を交互に見つめた。
視界がぼやけているせいか、彼らの驚いたような、それでいて愛おしげな表情が、胸の奥をギュッと締め付ける。
「でも、だめなの……。もう、ごまかせないくらい……胸が、苦しくて……」
私は、彼らに握られている両手に少しだけ力を込めた。
「レオン様の、大人で……ずるいところも……。ルカ様の、まっすぐで……あたたかいところも……」
ポタ、と。
私の瞳から、熱い涙の粒が零れ落ち、シーツに染みを作った。
「どっちも……大好きで、選べないの……っ。どっちか一人が、私を嫌いになって……遠くに行っちゃうなんて、絶対に……いや、だよぉ……」
しーーーーん。
執務室の中に、完璧な静寂が落ちた。
熱に浮かされているとはいえ、それは間違いなく、私が初めて言葉にした明確な「愛の自覚(エラーの承認)」だった。
しかも、「ビジネスパートナーとして」ではなく、「一人の女性として二人とも好きだ」という、究極の本音。
「だから……お願い、です……。どこにも、行かないで……私のそばに、いて……」
私は最後の力を振り絞り、二人の服の袖をキュッと小さな手で掴んだ。
そのまま安心したように目を閉じると、張り詰めていた糸が切れたように、再び深い眠りの底へと沈んでいった。
——残された、二人の最高権力者は。
「「…………」」
文字通り、石像のように完全に硬直していた。
時間にして数十秒。ただ、スヤスヤと寝息を立てる私の真っ赤な頬を、信じられないものを見るような目で見つめ続けていた。
やがて、ピキッ、と。
先に動いたのはルカ様だった。彼は両手で自分の顔を覆い、ガクガクと全身を震わせ始めた。
「……あ、兄上。僕、熱に当てられたのかな。今、エルゼが……僕たちのこと、『大好き』って……しかも、『どこにも行かないで』って……袖、掴んで……」
「……ああ。私の耳も同じ幻聴を聞いた。……いや、幻聴ではない。確かにこの袖を……彼女の小さな指が……っ」
レオンハルト様もまた、私が掴んでいた自分の袖の布地を、まるで神聖な聖遺物でも扱うかのようにそっと撫で、そして——天を仰いだ。
「駄目だ……っ! 破壊力が高すぎる……っ!! なんだあの無防備さは!? いつもの『コンプライアンス』や『福利厚生』という鎧を剥いだ彼女が、これほどまでに、これほどまでに可愛らしいとは……!!」
常に冷静沈着な皇帝が、頭を抱えて身悶えしている。
「ずるい! ずるいよエルゼ! あんな顔で、あんな甘い声で言われたら、僕の理性が全部吹き飛んじゃうじゃないか……っ! 心臓が爆発する! 本当に不整脈で死にそう!!」
ルカ様はベッドの端に突っ伏し、じたばたと足をバタつかせている。
「セバス! おい、セバスはいるか!! 今すぐ宮廷魔導士を呼べ! 先ほどの彼女の声を録音した魔導具を作らせろ! 国宝に指定する!!」
「兄上だけ抜け駆けは許さない! 僕もコピーをもらうからな! 朝昼晩と寝る前に聞くんだ!!」
私が高熱で意識を失っている間、私の執務室は、完全に理性のタガが外れた最高権力者兄弟による「大パニック(大歓喜)」の渦に包まれていた。
氷の令嬢のビジネス脳の崩壊。
それは、彼女を守っていた防壁が消え去ったと同時に、彼女を包囲していた二人の男たちに対して、致死量の『可愛さ(クリティカルヒット)』を叩き込む結果となったのである。
翌朝、熱が下がって正気を取り戻した私が、昨夜の自分の発言を思い出してベッドの上で悶絶死しそうになることなど、今はまだ知る由もなかった。
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次回お楽しみに。




