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氷の令嬢の転職計画〜私を追放した祖国が破産寸前ですが、今は皇帝兄弟からの過剰な愛情表現の処理で手一杯です〜  作者: ぱすた屋さん


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第34話『社内(宮廷)の噂と、有能な経営者の「迷い」』



 レオンハルト陛下とルカ殿下からの、立て続けの「規格外のプレゼンテーション(愛の告白)」を受けて以来、私の鉄壁だったビジネス脳はかつてないほどの処理遅延ラグを起こしていた。


「……計算が、合いません」


 執務室のデスクに座り、私は羽ペンを握ったまま深くため息をついた。

 目の前にあるのは、帝国の次期五カ年計画の予算案だ。本来であれば、数字を見た瞬間に脳内でグラフが組み上がり、最適解が弾き出されるはずだった。

 しかし今、私の頭の中を占めているのは、予算の数字ではない。


『私が君に惹かれているのは、有能な経営者としての部分だけではないんだ』

『お前が頑張ってる姿を見ると胸がギュッとなるし、他の男を見てると腹が立つ』


 書類の文字を追おうとするたびに、二人の熱を帯びた声が、すぐ耳元で囁かれたかのように蘇る。

 その度に心臓がドクリと跳ね、頬に熱が集まり、思考が完全に停止してしまうのだ。


「いけませんね……これは由々しき事態です。私個人の『自律神経のバグ』のせいで、業務効率が三割も低下しています。早くこのエラーの原因を特定し、パッチ(解決策)を当てなければ……」


 私が両手で熱い頬を挟み込み、必死に深呼吸を繰り返していると、執務室の扉が静かにノックされ、セバスが入ってきた。


「お嬢様。少し、よろしいでしょうか。お耳に入れておくべき『社内(宮廷)の噂』がございます」

「噂、ですか? 新興の商会に関する市場の動向でしょうか」


 セバスは首を横に振り、周囲を一度確認してから、声を潜めて言った。


「いえ……お嬢様ご自身と、二人の最高権力者に関する噂です。現在、宮廷の貴族たちの間では、もっぱら『財務卿閣下は、陛下と殿下、どちらの伴侶に選ばれるのか』という話題で持ちきりになっております」

「……またですか。暇な役員たちですね。私生活のゴシップなど、会社の利益には一シリングも直結しませんのに」


「問題は、その後です」

 セバスの表情が、かつてないほどに険しいものになった。


「貴族たちはこうも囁き合っています。『もし閣下が陛下をお選びになれば、ルカ殿下は失意のあまり帝国を去り、大陸を放浪するだろう』。逆に『閣下がルカ殿下をお選びになれば、レオンハルト陛下は生きる気力を失い、国政を放棄して玉座を降りるかもしれない』……と」


「なっ……!?」


 私は弾かれたように顔を上げた。


「ば、馬鹿な! トップエグゼクティブが、個人の感情(失恋)を理由に職務を放棄するなど、あってはならないコンプライアンス違反です! それは会社(帝国)に対する重大な背任行為ですよ!?」


「お嬢様。彼らは機械ではありません。血の通った人間です。……それも、お嬢様という唯一の『光』を見つけてしまった、不器用で情熱的な男たちなのです」


 セバスの静かな言葉が、私の胸に重くのしかかった。


「お二人の、お嬢様に対する執着は常軌を逸しています。それゆえに、もし『選ばれなかった』場合の絶望もまた、計り知れません。どちらか一方が欠ければ、このアウグスト帝国は内部から崩壊するでしょう。お嬢様は今、この国の未来そのものを両手に委ねられているのです」


 セバスが一礼して退室した後も、私は冷たいデスクに手を突いたまま、呆然と立ち尽くしていた。


(帝国が、崩壊する……?)


 私のビジネス脳が、最悪の『リスク・シミュレーション』を開始する。

 もし私がレオンハルト様を選べば、ルカ様が消える。

 ルカ様の圧倒的なインフラ整備能力と、魔導兵器の開発力が失われれば、帝国の技術力は数十年後退する。

 逆に私がルカ様を選べば、レオンハルト様が消える。

 レオンハルト様の絶対的なカリスマ性と、他国を圧倒する政治力が失われれば、帝国の経済圏はたちまち周辺国に切り崩されるだろう。


(どちらか一人が欠けるだけで、致命的なリソース不足(欠損)です。そんなこと、有能な経営者として絶対に許容できません。お二人は、アウグスト帝国という巨大企業にとって、必要不可欠な……)


 ——違う。


 不意に、脳内の計算式が、パツン、と音を立てて千切れた。


 会社の不利益? 経済の停滞?

 そんな『数字』の話はどうでもいい。

 私の心の中に浮かんだのは、ただ一つの、ひどく恐ろしい想像だった。


『ルカ様が、もう二度と「エルゼ!」と無邪気に名前を呼んでくれない世界』

『レオンハルト様が、もう二度と優しく私の髪を撫でてくれない世界』


 どちらか一人が、私の目の前から完全に消えてしまう。

 そう想像した瞬間。


「…………っ」


 ズキリ、と。

 心臓を鋭いナイフで抉られたような、強烈な痛みが走った。

 それは「不整脈」でも「動悸」でもない。明確な、息の詰まるような『喪失の恐怖』だった。


「だ、だめ……っ。そんなの、絶対にだめです……」


 私は震える両手で、自分の胸をギュッと強く掴んだ。

 息が上手く吸えない。視界が急にぼやけて、涙が滲んでくる。


「利益の問題じゃない……。私は、お二人がいないと……」


 いつの間にか、私は彼らのことを「ビジネスパートナー」という枠組みを遥かに超えた、かけがえのない存在として見ていたのだ。

 レオンハルト様の深い愛情に包まれると、氷のように冷え切っていた心が温かく溶けていくのを感じた。

 ルカ様の真っ直ぐな熱意に触れると、明日も頑張ろうと、自然と前を向くことができた。


 どちらか一人なんて、選べない。

 どちらか一人が傷ついて、いなくなってしまうくらいなら。


「……私のせい、ですね」


 ポツリと、誰もいない執務室に震える声が落ちた。

 私が中途半端に「有能な経営者」という仮面を被り、彼らの想いを「福利厚生」だの「プレッシャー」だのと誤魔化し続けてきたから、事態はここまで複雑化してしまったのだ。


「私が……きちんと、このエラー(感情)に向き合わなかったから……」


 胸の痛みが、やがて全身の熱へと変わっていく。

 顔だけでなく、手足までが熱い。頭の芯がガンガンと痛み始め、立っていることすら辛くなってきた。


(ああ……完全に、システム・ダウンですね……)


 私はよろめきながら、彼らが私のために用意してくれた『オープンイノベーション空間(天蓋付きベッド)』へと倒れ込んだ。

 フカフカのミンクの絨毯と、甘い香りのするシーツに包まれながら、私の意識は急激に暗闇へと沈んでいく。


 鉄壁を誇った氷の令嬢のビジネスファイアウォールは、許容量を超えた「恋」という名の未知のデータに耐えきれず、ついに限界を迎えたのである。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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