第32話『CEO(皇帝)の甘すぎる個人面談』
休日の『お忍び市場調査(という名のデート)』から数日が経過した夜。
私は執務室のデスクで、一人静かに自分の手首に指を当て、脈拍を測っていた。
「……ドクン、ドクン、ドクン。……BPM(心拍数)百二十。安静時としては明らかに異常な数値です」
私は深くため息をつき、手元の医療用魔導具(血圧計のようなもの)の数値をノートに記録した。
あの日、市場でレオンハルト陛下とルカ殿下に抱き寄せられて以来、私の体調は明らかにおかしい。彼らの顔を見るたび、あるいは不意に距離を詰められるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられ、顔に熱が集まるのだ。
「自律神経の乱れでしょうか。あるいは、長期間の過酷な財務処理による過労が、ついに心臓に負荷を……」
「お嬢様。レオンハルト陛下より、お呼び出しでございます」
私の自己診断(自己監査)を遮るように、セバスが一通の封筒を持ってきた。
そこには、皇帝の印章と共に、流麗な筆跡でこう書かれていた。
『エルゼ。今夜、星空の温室にて君と一対一の個人面談を行いたい。書類は一切不要だ』
「……個人面談ですか」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
優秀な企業において、トップが直属の部下と定期的に一対一で対話の場を設けるのは、モチベーション管理や人事評価において非常に重要なプロセスである。
しかし、「書類は一切不要」という一文が、私の胸のざわつき(バグ)をさらに加速させた。
「……承知いたしました。CEOからの直接の呼び出しとあらば、断る理由はありません。行ってきます」
◇◇◇
帝城の最上階、『星空の温室』。
満天の星明かりと、夜にだけ青白く発光する『月光花』の幻想的な光に包まれたその空間は、いつ来ても息を呑むほど美しい。
温室の中央に置かれたアンティークのソファに、彼——レオンハルト陛下は座っていた。
漆黒の軍服の上着は脱ぎ捨てられ、少し胸元を開けた白いシャツ姿。手には琥珀色の酒が入ったグラス。その姿は、昼間の「絶対的支配者たる皇帝」の顔ではなく、ひどく無防備で、気怠げな大人の男の色気を放っていた。
「……来たな、エルゼ。さあ、こちらへ」
彼が隣の空いたスペースをポンポンと叩く。
「失礼いたします、陛下。本日の個人面談の議題は何でしょうか。来期の人事異動についてですか、それとも私の役員報酬の査定——」
「仕事の話はしないと言っただろう? 今日は、ただ君の顔が見たくて呼んだんだ」
私がソファに腰を下ろした瞬間、レオンハルト陛下はグラスをテーブルに置き、長い腕を私の腰に回して、グイッと自分の方へ引き寄せた。
二人の距離が、ゼロになる。
微かな酒の匂いと、彼特有のシトラスのような甘い香りが、私の思考回路をショートさせにかかる。
「へ、陛下……っ。面談における、過度なスキンシップは……っ」
「今は『陛下』ではない。ただのレオンハルトだ。……君に恋い焦がれる、一人の男だよ」
彼の手が私の顎をそっと持ち上げ、逃げ場のない黄金の瞳が私を射抜いた。
その瞳に映っているのは、帝国財務卿という肩書きではない。ただの『エルゼ』という一人の女としての私だった。
「エルゼ。君はこの数ヶ月で、私の国を信じられないほど豊かにしてくれた。君のその完璧な頭脳には、どれだけ感謝しても足りない。……だが、私が君に惹かれているのは、そんな『有能な経営者』としての部分だけではないんだ」
彼の親指が、私の唇の端を優しく、愛おしむように撫でる。
ドクンッ!! と、私の心臓が警報を鳴らした。
「君がたまに見せる、呆れたようなため息。数字が合った時にだけ見せる、子供のように誇らしげな横顔。そして……あの日、祭りの市場で見せてくれた、心からの無防備な笑顔」
レオンハルト様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
彼の熱い吐息が私の頬にかかり、睫毛の長さを数えられるほどの至近距離。
「君がいないと、私の世界はもう成り立たない。君が他の男……たといそれが血を分けたルカであっても、他の誰かに微笑みかけることを想像するだけで、狂ってしまいそうになる」
皇帝という絶対的な権力を持つ男が、まるで迷子になった子供のように、あるいは縋り付くような切実さで、自らの弱さ(本音)をさらけ出している。
甘く、重く、そしてどこまでも深い、逃げ場のない愛の告白。
「私の伴侶になってくれとは、以前にも言ったな。あれは皇帝としての命令ではない。一人の男としての、一生の願いだ。……私に、君のすべてをくれないか」
——ピィィィィィィッ!!(脳内アラートの鳴る音)
私の鉄壁のビジネス脳が、限界を迎えて悲鳴を上げた。
顔は沸騰したように熱く、心臓は先ほどの「BPM百二十」など可愛く思えるほどの速度で乱打している。息の仕方も忘れそうだった。
(な、ななな、なんなのですかこれは!? トップエグゼクティブが、私個人に対してこれほどまでに弱みを曝け出し、全幅の信頼と『重すぎる期待』を寄せてくるなんて!)
私は必死に、この状況をビジネス用語で解釈しようと脳をフル回転させた。
(そ、そうです! これは『過剰なプレッシャー』です! 社長からの「お前がいないと会社が倒産する」という重すぎる期待を背負わされたことによる、極度の緊張状態! この胸の激しい動悸も、顔の火照りも、すべてはその重圧に耐えようとする防衛本能(不整脈)に違いありません!)
私はギュッと目を閉じ、自分の震える手を握りしめて、震える声で叫んだ。
「へ、陛下……っ! いや、社長!!」
「……社長?」
「貴方のその……『私がいなければ世界(会社)が成り立たない』という重すぎるお言葉! 一役員として、これ以上のプレッシャーはありません! 私の心臓が、現在猛烈な不整脈を起こしております!」
私が顔を真っ赤にしながら早口でまくし立てると、甘いムードを作っていたレオンハルト様の目が、点になった。
「ふ、不整脈……? エルゼ、君、今の私の言葉をプレッシャーだと……?」
「はい! ですが、有能な経営者はプレッシャーから逃げません! 貴方のその脆弱なメンタルヘルスは、私が完璧な労務管理でサポートし、絶対に世界(会社)を崩壊させたりはしませんから! ご安心を!!」
私は彼の胸をドンッと軽く押し返し、ソファから弾かれたように立ち上がった。
「と、というわけで、本日の個人面談はこれで終了とさせていただきます! 心拍数が限界を突破しそうなので、私は自室で安静にいたします! 失礼します!!」
私は彼が何かを言いかける前に、ドレスの裾を翻し、猛烈なスピードで温室から逃げ出した。
背後からは追いかけてくる足音はなかったが、代わりに——。
「……くっ、ふはははははっ!」
たまらないといった様子の、レオンハルト様の大きな笑い声が聞こえてきた。
「不整脈、か。……ああ、あの真っ赤な顔。逃げ出す時の震える声。ようやく、あの完璧な氷の仮面が剥がれ落ちてきたな」
温室に残された皇帝は、私が飲みかけで置いていったグラスを手に取り、その縁にそっと唇を寄せて、獰猛で甘い笑みを浮かべた。
「逃がさないと言っただろう、私の可愛い財務卿。……その『バグ』の本当の名前を、君の口から言わせるまで、あと少しだ」
自室に逃げ帰った私が、ベッドに潜り込みながら「あんなの、ただのプレッシャーです! プレッシャーによる動悸に決まってます!」と朝まで布団の中で身悶えしていたことなど、言うまでもない。
氷の令嬢のビジネス脳は、いよいよ致命的なメルトダウンを起こし始めていた。




