第27話『愚者の暴走』
アウグスト帝国の地下深くには、重罪人や反逆者を収容するための特別監房が存在する。
魔力を完全に遮断する漆黒の特殊鉱石で覆われたその空間は、どんな高位の魔術師であってもただの無力な人間へと変えてしまう、文字通りの「底なしの牢獄」だ。
「……セバス、移送馬車の手配は完了していますね?」
「はい、お嬢様。正午には北部の魔石鉱山行き、および南部の土木作業所行きの護送車が到着いたします。彼らの『再就職先』への手配は万全です」
私は分厚いバインダーを小脇に抱え、薄暗い地下牢の廊下をヒールを鳴らして歩いていた。
本来であれば、帝国財務卿である私がわざわざ罪人の牢屋まで足を運ぶ必要はない。しかし、有能な経営者としては、巨額の負債を抱えた「債務者」が、労働契約書(という名の生涯奴隷契約)に自筆のサインをする瞬間までは、この目でしっかりと見届け(監査し)なければならないのだ。
「開けなさい」
私が近衛騎士に命じると、重々しい金属音と共に、一番奥の特別監房の扉が開かれた。
そこには、昨夜の公開処刑で身ぐるみ剥がされ、粗末な囚人服を着せられたアルフォンス元殿下と、自称聖女ミリアの姿があった。
「ひぐっ……ううっ……。嫌ですぅ、こんな臭くて暗い場所……っ。アルフォンス殿下ぁ、なんとかしてくださいよぉ……っ」
ミリアは部屋の隅で膝を抱え、ボロボロと涙をこぼしている。もはや彼女に「聖女」の面影は微塵もなく、ただの哀れな村娘にしか見えなかった。
一方のアルフォンスは、鉄格子の前に座り込み、虚ろな目で宙を見つめていたが、私が入ってきたのを見ると、弾かれたように顔を上げた。
「エ、エルゼ……! 来てくれたのか!」
「ええ。貴方たちが帝国(弊社)に対して負っている金貨一億六千五百九十万枚の債務に関する『生涯労働同意書』にサインをいただくためです」
私はバインダーから二枚の羊皮紙を取り出し、鉄格子の隙間からスッと差し出した。
「お二人には、帝国のインフラを支える最下層の歯車として、その命が尽きるまで働いていただきます。逃亡、ストライキ、およびサボタージュは一切認められません。さあ、こちらに血判を」
「……っ! ふ、ふざけるな! 誰がこんなものにサインなどするものか!」
アルフォンスは差し出された羊皮紙をバシッと叩き落とした。
「私はグランゼール王国の王太子だぞ! こんな野蛮な国で、泥にまみれて働くなど絶対に認めない! お前もだ、エルゼ! いつの間にか帝国の連中に洗脳されおって、完全に頭がおかしくなっているではないか!」
「洗脳? 私は極めて正常なビジネス的判断を下しているだけですが」
「いいや、おかしい! お前は私を愛していたはずだ! 私に捨てられたショックで自暴自棄になり、この野蛮な帝国に利用されているだけなのだ! 哀れなエルゼよ、今からでも遅くない、私と共に国へ帰ろう!」
アルフォンスの血走った目が、異様な光を放っていた。
この男は、まだそんな妄想にすがりついているのか。国を追われ、全財産を没収され、牢屋に入れられてなお、自分の『価値』が私よりも上だと信じて疑わない。その絶望的なまでの自己評価の高さ(バグ)には、経営者としてある種の感嘆すら覚える。
「……セバス。同意を拒否した場合は、強制執行のプロセスに移行します。拘束具を」
「かしこまりました」
私が冷たく見切りをつけ、背後の近衛騎士たちに合図を送ろうとした、その瞬間だった。
「ふはっ……ははははっ! そうだ、お前は助けを求めているのだ! この私が、悪辣な皇帝たちからお前を救い出してやる!!」
アルフォンスが、狂ったように笑いながら立ち上がった。
そして、彼が着ている囚人服の襟元——その奥に縫い付けられていた「何か」を力任せに引き千切った。
「なっ……! 貴様、どこにそんなものを隠し持って……!」
セバスが鋭い声を上げる。
アルフォンスの手の中にあったのは、血のように赤い、禍々しい光を放つ小さな魔石だった。
王族だけが有事の際に使用することを許される、グランゼール王家秘伝の『緊急空間転移結晶』。服の裏地に縫い込み、監査の目を掻い潜って持ち込んでいたのだ。
「エルゼ、お前は私が連れて帰る!!」
パリンッ!! と、アルフォンスがその結晶を床に叩きつけて砕いた。
瞬間、地下牢の魔力遮断空間を強引に打ち破るほどの、強烈な閃光と白い煙が爆発的に広がり、私たちの視界を完全に奪った。
「お嬢様ッ!!」
セバスの叫び声が響く。
「きゃあっ!?」
煙の中で、私の腕が強い力で乱暴に引き寄せられた。
同時に、首筋にヒヤリと冷たい金属の感触が押し当てられる。アルフォンスが、転移結晶の鋭く尖った欠片を、即席のナイフ代わりにして私の首に突きつけていたのだ。
「動くな! 動けばこの女の細首がどうなるか分からんぞ!」
アルフォンスが、背後から私を羽交い締めにしながら、煙が晴れつつある廊下に向かって狂ったように叫んだ。
近衛騎士たちが剣を抜き、セバスが殺気を放って身構えているが、私の首に刃物が突きつけられているため、うかつに手を出せない。
「アルフォンス殿下ぁっ! 私も! 私も連れて行ってくださいぃっ!」
鉄格子の中からミリアが泣き叫ぶが、アルフォンスは彼女を一瞥すらしなかった。
「黙れ無能女! 私はエルゼだけを連れて国に帰る! エルゼさえいれば、国は元通りになるのだ!」
(……なるほど。これが『愚者の暴走』ですか)
自分の首に刃物を突きつけられるという、令嬢であれば悲鳴を上げて失神してもおかしくない絶体絶命の状況。
しかし、私のビジネス脳は、この緊急事態においても恐ろしいほどの冷静さを保ち、凄まじい速度で『損害賠償額』の計算を始めていた。
「アルフォンス元殿下」
私は羽交い締めにされたまま、全く抑揚のない声で口を開いた。
「エ、エルゼ! 怖がることはない! 私のこの転移結晶が発動するまであと数十秒だ! これで帝都の外へ飛び、我が国へと一直線に……っ!」
「貴方、自分が今どれほどの『コンプライアンス違反』を犯しているか、理解していますか?」
「……は?」
私のあまりにも冷徹で、怯えの欠片もない声に、アルフォンスが戸惑う。
「第一に、帝国の施設(牢獄)内での危険物の無断使用。第二に、帝国財務卿というトップ役員に対する拉致・監禁未遂。第三に、凶器を用いた傷害未遂による『労働災害』の発生リスク。……これらはすべて、重大な企業犯罪(反逆罪)です」
「お、お前……何を言っているんだ? 私はお前を救出するために……」
「救出? 笑わせないでください。貴方のこの愚行により、貴方の負債額に『役員に対する慰謝料』および『業務妨害による逸失利益』として、金貨二千万枚が追加計上されました」
私は突きつけられた結晶の刃先を、指でツンと弾いた。
「死ぬまで働いても返しきれない借金を、さらに増やすとは。本当に、経営センスの欠片もない無能ですね。……それに、貴方は決定的な『計算ミス』を犯しています」
「け、計算ミスだと……!? 黙れ! 転移の魔法陣はすでに起動している! 私の勝ちなのだ!」
アルフォンスの足元で、赤い光を放つ魔法陣が展開し始めていた。
確かに、このままでは数秒後に、私ごと彼は帝都の外へ強制転移させられてしまうだろう。近衛騎士たちも、下手に動けば私が斬られるため、飛び込むことができない。
アルフォンスは勝利を確信し、醜く顔を歪めて笑った。
「はははっ! さらばだ、帝国の無能ども! お前たちの心臓は、私が頂いていくぞ!!」
——だが。
私は知っていた。アウグスト帝国という巨大企業において、私という『重要資産』が危機に晒された時、最高のセキュリティシステム(社長と現場トップ)が、どれほどの速度で起動するかを。
「……誰の心臓を、頂いていくと言った?」
ゴゥゥゥゥゥッ……!!
地下牢の重々しい空気が、一瞬にして爆発的に膨張した。
アルフォンスの足元で起動しかけていた赤い転移の魔法陣が、突如として『黄金の炎』に包み込まれ、ガラスが砕けるような音を立てて木っ端微塵に粉砕された。
「なっ!? ま、魔法陣が……っ!?」
アルフォンスが驚愕の声を上げる。
そして、地下牢の入り口から、地獄の底から這い上がってきた魔王のような、底知れぬ殺意と怒気を纏った二つの影が、ゆっくりと姿を現した。
「おい、ゴミ。僕の投資先の首に、何の真似だ?」
右手に圧縮された黄金の暴風を纏い、黄金の瞳を獲物を狩る獣のように細めた、第二皇子ルカ殿下。
「……五体満足で労働させるつもりだったが、予定を変更しよう。そいつの手足をもげ。エルゼに触れたその薄汚い両腕からだ」
漆黒の覇気を纏い、周囲の温度を絶対零度まで引き下げるほどの怒気を放つ、皇帝レオンハルト陛下。
帝国の最高権力者にして、最強の魔力を持つ最凶の兄弟。
彼らが、エルゼという『絶対不可侵の宝物』に傷をつけようとした愚者に対し、ついに完全な殺意(報復)の牙を剥いたのである。
「ひ、ひぃぃぃっ……!!」
アルフォンスの顔が、今度こそ完全に死人のように青ざめ、彼の手から結晶の欠片がカランと音を立てて床に落ちた。
愚者の暴走は、一分と持たずに強制終了させられた。
ここから始まるのは、有能な経営者(私)の論理すらも超越した、最高権力者たちによる「徹底的かつ物理的な蹂躙」である。
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次回お楽しみに。




