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7 知らないはずの文字と、少し気になる人

「……天国」


思わずそう呟いてしまったくらい、王城の図書室は素晴らしかった。


見上げても一番上がよく見えないほど高い本棚には、色も大きさもさまざまな本がぎっしりと並んでいる。二階へ続く階段の先にも本棚が続いていて、奥がどこまであるのか分からない。


(すごい……ここなら一日中いられる)


さっきまで「暇だ」なんて言っていた自分が嘘みたいだ。


「どこから見ようかなぁ」


嬉しくなって本棚の間へ入っていくと、当然のようにレオンハルト様もついてくる。一つ隣の棚へ移動する…ついてくる。奥へ進む…やっぱりついてくる。


「……」


振り返ると、


「……?」


レオンハルト様が不思議そうに私を見る。


「ずっとついてくるんですか?」

「護衛ですので」

「図書室ですよ?」

「はい」

「本しかありませんよ?」

「そうですね」

「危険なんてないと思いますけど」

「それでもです」


きっぱり…


(真面目だなぁ……)


「じゃあ、私がここで二時間本を読んでたら?」

「ここにおります」

「三時間」

「おります」

「五時間」

「おります」

「……飽きません?」

「任務ですので」

「そういう問題じゃなくて」


思わず笑ってしまった。


「座っててもいいんですよ?」

「お気遣いなく」

「でも疲れるでしょう?」

「この程度で疲れるようでは、近衛騎士は務まりません」

「ああ、そうか」


確かに、魔物と戦う人に「本を読んでる間立ってるの大変じゃない?」なんて聞く方がおかしいのかもしれない。


「じゃあ、疲れたら言ってくださいね」

「……」


まただ、レオンハルト様が黙った。


「何ですか?」

「いえ」

「また『何でもありません』?」


そう言うと、レオンハルト様の口元がほんの少し緩んだ。


「……そういうことにしておいてください」

「何それ」


やっぱり変な人。でも、最初に会った時より、ずっと話しやすく感じる。


(見た目が怖そうなだけなのかな)


そう思いながら、私は再び本棚へ向き直った。


*


しばらく本を眺めていると、一冊の本が目に留まった。他の本とは少し違う。深い青色の表紙に、銀色の文字……けれど、その銀色はただ光を反射しているだけではなかった。


文字の一つひとつが、かすかな光を内側に宿しているように見える。角度を変えると、銀の線の奥に淡い白い輝きが浮かび、まるで夜空の中を一枚の羽が静かに舞っているようだった。


「これ、綺麗……」


思わず手を伸ばす。


……届かない


「うっ」


背伸びをする。もう少し……


「あとちょっと……」


指先が本の背表紙に触れそうになる。


「んんっ……」


その時、頭の上から腕が伸びてきた。


「こちらですか?」

「ひゃっ!」


びっくりして振り返る。


………近い

……ものすごく近い


すぐ後ろにレオンハルト様が立っていた。

私が必死に取ろうとしていた本を、何の苦労もなく棚から抜き取る。


その瞬間、表紙の銀文字がふっと明るくなった。

ほんの一瞬だったけれど、確かに白い光が文字の上を走ったように見えた。


「どうぞ」

「あ……ありがとうございます」


受け取ろうと顔を上げる。

そして………目が合った……


深い蒼色


(……綺麗)


思わず見入ってしまった。レオンハルト様の瞳は、遠くから見るよりずっと澄んだ色をしている。深い海みたい……その蒼色を見ていると、さっき本の表紙に浮かんだ白い光が、なぜか脳裏に重なった。


「ミキ様?」

「……あ!」


何やってるの私!慌てて本を受け取る。


「ありがとうございます!」


勢いよく一歩下がった。


(近い近い近い!)


五十五歳にもなって、何を動揺してるんだ。

いや、今の身体は二十歳くらいだけど、中身は五十五歳。


(イケメンが近かったくらいでドキドキしてどうするのよ)


でも、心臓は年齢なんて関係ないらしい。


ドキドキしてる。


ものすごく……


誤魔化すように、本へ視線を落とした。


「えっと……これは……」


読もうとして、手が止まった。


「……あれ?」


表紙に書かれている文字は、さっきリゼットさんに見せてもらった古代語と同じように見える。けれど、今度はそれだけではなかった。文字を見つめた瞬間、頭の奥で何かがほどけた。知らないはずの形が、意味を持った言葉へ変わっていく……


銀色の文字の一画一画が、まるで最初から読まれるのを待っていたかのように、自然に私の中へ入り込んできた。


『聖なる鳥と、古き盟約』


「……聖なる鳥?」


思わず声に出した。その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、かすかな鼓動が生まれた。


どくん


心臓が跳ねたというより、胸の内側に小さな光が灯ったような感覚だった。


「読めるのですか?」


レオンハルト様の声がした。


「はい。『聖なる鳥と、古き盟約』……ですよね?」


返事がない………

顔を上げると、レオンハルト様が驚いた顔をしていた。


「違いました?」

「いえ。合っています」

「良かった」


本を開くと最初のページから、見慣れない文字がびっしりと並んでいる。それなのにやっぱり意味が分かる。文字を追うたびに、頭の中へ文章が流れ込んでくる。読むというより、思い出しているような感覚だった。


『白き翼は災厄を払い、選ばれし者の傍らにて――』


そこまで読んだ時だった。胸の奥が、ふわっと温かくなった。さっきよりもはっきりとした熱だった。

胸の中心から、細い光の糸が全身へ広がっていくような痛くはない。むしろ、懐かしい。

初めて触れた言葉なのに、ずっと昔から知っていたような、不思議な温かさだった。


「……?」


思わず胸元に手を当てる。

指先の下で、心臓がいつもより強く脈打っている。


「どうしました?」


すぐにレオンハルト様の声が飛んでくる。


「いえ……なんだか今、胸の辺りが温かくなったような」


言い終わる前に、レオンハルト様の表情が変わった。


「座ってください」

「え?」

「すぐにベルン殿を呼びます」

「いやいやいや!」


大袈裟!


「痛くないですから!」

「ですが」

「本当に何ともありません。ちょっと温かくなっただけです」

「しかし――」

「レオンハルト様」

「はい」

「心配しすぎです」


そう言うと、彼は黙った。


「……」

「ほら、また黙る」

「申し訳ありません」

「謝らなくてもいいですけど」


私は笑いながら椅子へ座った。膝の上に本を置く。

すると、さっきまで淡く光っていた銀文字が、いつの間にか元の色へ戻っていた。


「でも、ありがとうございます」

「……何がです?」

「心配してくれて」


レオンハルト様が少しだけ目を見開く。


「知らないところに一人で来たばっかりだから、心配してくれる人がいるって……ありがたいです」


口にしてから、自分でも少し驚いた。

前の人生では、

「大丈夫」と言うのは、いつも私だった。


誰かの体調を心配して、誰かの予定を気にして、誰かが困らないように先回りして……


今は逆だ。

まだ出会ったばかりの人たちが、私に「大丈夫か」と聞いてくれる。


なんだかくすぐったい。


「……ミキ様」


レオンハルト様の声が少しだけ柔らかくなった。


「はい?」

「それが、私の役目です」

「分かってます」


護衛だから……そういう意味なのだろう。


「でも、ありがとうって言いたかっただけです」


笑ってそう言うと…また、レオンハルト様が口元に手を当てて横を向いた。


「……?」


まただよ…


「レオンハルト様?」

「……はい」

「やっぱり暑いんですか?」

「……は?」

「さっきから時々、耳が赤いですよ?」


その瞬間、少し離れたところにいたエミリアさんが、盛大に咳き込んだ。


「ゴホッ! ゴホッ!」

「エミリアさん!?」

「だ、大丈夫でございます!」

「本当に?」

「はい!」


エミリアさんは必死に頷いている。

レオンハルト様は、なぜか、さらに向こうを向いた。


(……なんなの?)


本当に……

この世界に来てから、分からないことばかりだ。


*


結局、レオンハルト様に「今日はこれ以上は駄目です」と言われ、図書室にいたのは一時間ほどだった。


「まだ読めるのに……」

「また来ればいいでしょう」

「明日も?」

「体調に問題がなければ」

「じゃあ明日も来ます」


即答すると、レオンハルト様が少し笑った。


「本当に本がお好きなのですね」

「好きですよ。知らないことを知るのって楽しいじゃないですか」

「そういうものですか」

「レオンハルト様は本を読まないんですか?」

「必要なものは読みます」

「必要なもの?」

「兵法、魔物、剣術、各国の情勢など」

「……真面目」

「そうでしょうか」

「恋愛小説とかは?」

「読みません」


即答。


「面白いのに」

「そうなのですか?」

「そうですよ。ドキドキしたり、キュンキュンしたり」

「……キュンキュン?」


しまった。通じなかった。


「えっと……胸がこう、きゅっとなるというか」


胸元で手を握って説明してみる。

レオンハルト様がものすごく真剣な顔で聞いている。


「苦しいのですか?」

「違います!」


思わず笑った。


「病気じゃないですから!」

「では、なぜ胸が?」

「好きな人に優しくされたり、格好いいこと言われたりすると、ドキドキするでしょう?」

「……」

「レオンハルト様?」

「いえ」

「もしかして、分からない?」

「……そういった経験は、あまり」

「えっ」


意外……


こんなに格好いいのに?


「恋人とか……」


そこまで言って…


(待って)


私、何聞いてるの?出会ったばかりの男性に恋人いますかって、完全に探り入れてるみたいじゃない!


「すみません! 今のなし!」

「え?」

「忘れてください!」

「しかし――」

「忘れて!」


顔が熱い。

私は早足で歩き出した。

後ろからレオンハルト様がついてくる。


「ミキ様」

「はい!」

「走らないでください」

「走ってません!」

「かなり速いですが」

「気のせいです!」


その後ろで、エミリアさんが、また口元を押さえていた。


*


部屋へ戻ると、ちょうどローグ様が来ていた。


「おかえり、ミキ」

「ただいま戻りました」

「図書室はどうだった?」

「最高でした!」


思わず笑顔になる。


「明日も行きたいです」

「そうか」


ローグ様が小さく笑う。


「ただ、一つ報告がございます」


エミリアさんが口を開いた。


「何だ?」

「ミキ様が、古代語で書かれた書物をお読みになりました」


ローグ様の表情が止まった。


「……古代語?」

「はい」

「ミキ」

「はい?」

「本当に読めたのか?」

「読めましたよ」

「習ったことは?」

「ないです」

「日本で?」

「もちろん。そもそもあんな文字ありませんでした」


ローグ様の表情が真剣になる。


「何を読んだ?」

「最初は精霊についての本で……図書室では『聖なる鳥と、古き盟約』っていう本を」

「……何?」


声が変わった。


「その本はどこにあった?」

「普通に本棚にありましたけど」


ローグ様がレオンハルト様を見る。


「間違いないのか?」

「はい。私も確認しました」

「……そうか」


何かがおかしい。


「ローグ様?」

「ミキ、その本は今どこにある?」

「図書室です。持ち出していいか分からなかったので戻しました」

「分かった」

「確認してくる」

「今から?」

「ああ」

「そんなに珍しい本なんですか?」


ローグ様は一瞬、答えるのを迷ったようだった。


「古代語の書物そのものが珍しい。まして、その題名は……私も記憶にない」

「でも普通に置いてありましたよ?」

「だから気になる」

「はぁ……」


よく分からない。


「ミキ」


ローグ様が扉へ向かいながら振り返った。


「今日はもう休め」

「まだ夕方ですよ?」

「休め」

「元気ですって」

「ベルンを呼ぶぞ」

「それはずるい!」


絶対二人がかりで寝かされる。


「分かりましたよぉ」


渋々答えると、ローグ様は満足そうに出ていった。


*


「確かにここにあったんだな?」


しばらくして、エドワードはレオンハルトと共に図書室へ戻っていた。


「はい」


レオンハルトが、ミキが本を取った棚を示す。


「この辺りです」


エドワードは一冊ずつ背表紙を確認する。しかし…


「……ない」

「そんなはずは」


レオンハルトも探す。だが、あの深い青色の本は、どこにもなかった。


「ミキ様が戻したのは確認しています」

「題名は?」

「『聖なる鳥と、古き盟約』」


エドワードの表情が険しくなる。


「聞いたことがない」

「古代語の書物なら、目録にあるのでは?」

「ああ」


二人は図書室の管理記録を確認したが、その題名は、どこにもなかった。


「……どういうことだ」


エドワードが低く呟く。レオンハルトは、ミキが本を読んでいた場所を見る。棚の前には、細かな白い粉のようなものが落ちていた。


「これは……」


レオンハルトが屈み、指先で触れる。


粉ではない。………羽毛だった。

あまりにも細く、柔らかく、光を含んでいる。

普通の鳥の羽なら、光を受けて白く見えるだけだろう。


けれど、その羽は違った。


羽軸の中心から淡い光が滲み、触れた指先に一瞬だけ温かな感触を残している。


「白い羽……」


エドワードが呟く。レオンハルトは、ミキが本を読んでいた時のことを思い出した。


『白き翼は災厄を払い、選ばれし者の傍らにて――』


そして、胸元を押さえたミキ。


「もう一つ、気になることがあります」

「何だ?」

「ミキ様がその本を読んでいる途中、胸元が温かいと仰いました」

「何?」

「すぐに体調を確認しましたが、本人は何ともないと」

「ベルンには?」

「まだです」

「念のため伝えておけ」

「承知しました」


エドワードは再び空いた本棚を見つめた。


聖なる鳥


古き盟約


白い羽


そして……異界から現れた、古代語を読む女性


「……偶然か?」


誰に聞くでもなく呟く。

その時だった。

開いていた窓の向こうを白い何かが横切った。


「……?」


エドワードが振り向く。

しかし、そこにはもう何もいない。

ただ、白い羽が一枚、風に乗って図書室の床へ舞い落ちた。


先ほどの羽よりも大きく、長く、まるで翼の一部を切り取ったような羽だった。


羽先が床に触れた瞬間!


図書室の奥で、誰も触れていない本が一冊だけ、ぱらりと開いた。古びたページに、淡い光が浮かび上がる。そこには、今では失われたはずの文字で、短い一文が記されていた。


『白き翼は、帰還を知る』


エドワードもレオンハルトも、その文字を読むことはできなかった。


けれど……

その一文の下に描かれた白い鳥の紋章だけは、はっきりと見えた。


翼を大きく広げた鳥


その胸元には、小さな光が描かれている。

まるでミキの胸に灯った温もりを、そのまま写し取ったように。


*


その頃、


そんなことになっているとは知らない私は、お風呂に入っていた。


「はぁぁぁ……幸せぇ……」


広い浴槽に肩まで浸かる。やっぱりお風呂は最高。

異世界でもお風呂があって、本当に良かった。

今日はいろんなことがあった。


図書室


古代語


変な本


胸の奥に灯った、あの温かさ


そして……


レオンハルト様


「……」


なぜか、深い蒼色の瞳を思い出した。

本を取ってくれた時、すごく近かった。

その時、彼の瞳の奥に見えた色が、あの本の表紙に浮かんだ白い光と重なっている気がした。


「……いやいやいや」


私はお湯を両手ですくい、顔にかけた。


「何考えてるのよ」


ただの護衛……


それに相手はどう見ても二十代後半くらい。

私は中身五十五歳


(いや、ないない)


どう考えたってない。


「イケメンだからドキドキしただけよ」


そう、それだけ…


異世界に来て、イケメン耐性がないから変な感じになっているだけ。


「うん。そういうこと」


一人で納得して、湯船の縁にもたれる。


でも……少しすると、また思い出してしまった。


――それが、私の役目です。


「……護衛だからね」


そう呟いた。


なのに…

なぜか胸の奥が、ほんの少しだけ寂しく感じた。

その寂しさに重なるように胸の奥で、また小さな温もりが灯った。


今度は、本を読んでいないのに?


「……?」


私は胸元へ手を当てる。温かさはすぐに消えた。


けれど、消える直前、どこからともなく、羽ばたきの音が聞こえた気がした。


ばさり


静かな浴室の中で


確かに一度だけ


「……何なのよ、もう」


自分でも分からない気持ちを誤魔化すように、私はぶくぶくと口元までお湯に沈んだ。


その夜、ミキはまだ知らなかった。


自分が何気なく手に取った一冊の本が、王城のどの記録にも存在していないことを…


そして


その本に記されていた「聖なる鳥」という言葉が、長い年月の中で消されてしまった、ある存在へと繋がっていることを…


白い羽が、ただの鳥の羽ではないことを…


そして


自分が古代語を読めたのは、女神様から与えられた単なる知識ではなく胸の奥に眠る何かが、その言葉に応えたからなのだということを……





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