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44 これからの約束



湯浴みをして着替えを済ませると、ようやく身体から力が抜けた。


久しぶりの自分の部屋には午後の柔らかな光が差し込み、整えられた寝台も、窓辺の花も、出発前とほとんど変わらない姿でそこにある。アステリアで過ごした時間があまりにも濃かったせいか、こうして何事もなかったように静かな部屋へ戻ってきたことが、まだ少し不思議だった。


エミリアたちからの質問攻めは、マルガレーテさんが「ミキ様には休息が必要です」と止めてくれたおかげで、ひとまず中断となった。


――ひとまず、だけど…


去り際のエミリアの顔を見る限り、絶対に諦めてはいない。むしろ休憩を挟んで、次の質問を考える時間を与えてしまっただけのような気もする。


「……怖いな」


一人で笑いながら寝台の端へ腰掛けると、机の上に置かれた毛糸と編み針が目に入った。


帰ってくるつもりで置いていったもの…


指先で毛糸に触れながら、今度は別のことを考える。


「何を編もうかな」


レオンハルトは、私が作ったものなら何でもいいと言っていた。何でもいいが一番困るのに…マフラーもいいし手袋も使ってくれそうだけれど、騎士の仕事をする時には邪魔になるかもしれない。それなら部屋で使えるものにしようか。それとも、また小さなお守りにするか…

そこまで考えて、私は手を止めた。さっきからずっと、レオンハルトのことしか考えていない。


「……私、結構重症かも」


思わず声に出して笑ってしまった。

五十五歳まで生きて、結婚もして、夫を愛して、子どもを育てた。恋を知らないわけではないし、誰かと人生を共にすることだって知っている。


それなのに、まさかもう一度こんなふうに、好きな人のことを考えながら毛糸を眺める日が来るとは思わなかった。以前なら、きっとどこかで戸惑っていたと思う。夫を愛していたのに、あんなに大切だったのに、また誰かを好きになってもいいのだろうか、と…

でも、もうそれを後ろめたいとは思わない。

夫との人生はなくならない。あの人と笑ったことも、子どもを育てたことも、最後まで一緒にいたことも、全部私の中に残っている。そのうえで、今ここにいる私がレオンハルトを好きだと思うことも、大切にしていい。


アリアにも言われた。


――幸せになりなさい


「うん」


毛糸を撫でながら、小さく答えた。今度は、ちゃんとそうする。


*


夕方になり、窓の外が淡い橙色に染まり始めた頃、扉を叩く音がした。返事をすると、少し間を置いてエミリアが入ってくる。なぜか、とても楽しそうな顔をしていた。


「……何?」

「お客様です」

「その顔で言われると嫌な予感しかしないんだけど」

「副団長様がお迎えにいらっしゃいました」


やっぱり…


「本当に来たんだ」


思わず呟くと、エミリアが目を丸くした。


「お約束だったのですか?」

「約束っていうか、来るって一方的に言われて……」


途中で口を閉じるが遅かった。エミリアの目が輝いている。


「一方的に?」

「何でもない」

「ミキ様」

「何でもありません」

「非常に気になります」

「気にしなくていいの!」


これ以上余計なことを口にする前に立ち上がり、逃げるように部屋を出た。廊下にはレオンハルトが立っていた。今日はもう任務ではないからか、いつもの騎士服ではない。白いシャツに濃紺の上着という姿を見た瞬間、以前一緒に王都へ出かけた日のことを思い出した。あの日も格好いいと思った。でも今は、あの時より困る。恋人になって、何度も抱きしめられてキスまでして、そのうえ本人は「もう遠慮しない」なんて宣言している。同じ姿なのに、こちらの受け取り方がまるで違う。


「……どうしました?」


見つめすぎたらしい。


「何でもない」

「そうですか」


そう言いながら、レオンハルトがこちらへ手を差し出した。私はその手と彼の顔を交互に見る。


「やっぱり繋ぐの?」

「はい」


即答だった。


「迷わなくなったね」

「迷う必要がありますか?」

「前はもうちょっと人目とか気にしてたでしょう?」

「気にする理由がなくなりました」

「……そうですか」

「嫌ですか?」


いつもの問い…でも、それを聞く時だけは、レオンハルトの表情が少し真剣になる。だから私も、きちんと答えた。


「嫌じゃないよ」


その瞬間、差し出されていた手が私の手を掴み、そのまま指までしっかり絡められた。


「では、行きましょう」

「返事を聞いた途端、早いね」

「嫌ではないと聞きましたので」


平然と言って歩き出す。その背中を見ながら、思わず笑ってしまった。本当に遠慮がなくなってきた。でも、嫌ではない。むしろ、繋がれた手が嬉しくて、私も指を絡め返した。


*


夕食は、アステリアへ向かった主要なメンバーが揃って取ることになっていた。

大きな食堂にはレイブン様やローグ様、グレンジャー様のほか、同行した騎士や魔法師たちも集まっている。正式な報告や今後のことについては明日以降に回し、今日は全員を休ませることが優先されたらしい。


その決定を誰より強く主張したのは、当然グレンジャー様だった。


「当たり前です。あれだけ無茶をした人間を、帰還当日に会議へ出す馬鹿がどこにいるんです」

「ローグ様ならやりそう」


私が小さく言うと、少し離れたところにいたローグ様が顔を上げた。


「聞こえてるぞ」

「すみません」

「否定はしないんだな」


レイブン様が吹き出し、周囲にも笑いが広がった。

食事が始まった頃は、さすがにみんな疲れていたのか静かだったけれど、温かい料理を食べ、少し酒が入る頃には徐々に声も大きくなっていった。


「しかし、まさかレオンハルトが最初にあれを斬るとはな」


レイブンが杯を置きながら言うと、隣のレオンハルトは淡々と答えた。


「斬れたのはミキの力があったからです」

「それでも真っ先に突っ込んだのはお前だろう」

「必要でした」

「弟よ。お前、ミキのことを言えないくらい無茶してるぞ」


私は思わず頷いた。


「そうなんだよね」


レオンハルトがすぐにこちらを見る。


「ミキ?」

「何?」

「なぜ兄上側につくのです」

「だって本当でしょう? あの時、普通に影へ突っ込んでいったじゃない」

「あなたを守るためです」

「そうやって言えば何でも許されると思ってない?」

「思っていません」

「本当に?」

「あなたにだけは無茶について注意されたくないと思っているだけです」


それを言われると弱い。私が黙ると、レイブン様が楽しそうに笑い、ローグ様まで小さく息を漏らした。


「どっちもどっちだ。今後は二人まとめて監視しろ」

「誰が?」


尋ねると、グレンジャー様が静かに手を上げた。


「私が」

「一番逃げられない人だ」

「逃がしません」


即答されて、また笑いが起こる。そんな時間を過ごしながら、私は何度も不思議な気持ちになった。温かい食事を食べて、くだらないことで笑って、隣にはレオンハルトがいる。戦っている時には、こんな当たり前の時間が戻ってくることを考える余裕すらなかった。


でも、きっと私は、こういうものを守りたかったのだ。誰か一人が犠牲になる世界ではなく、大切な人たちが笑いながら明日の話をできる時間を…


*


夕食が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。食堂を出ると、レオンハルトが当然のように私の隣へ並ぶ。


「送ります」

「部屋までそんなに遠くないよ?」

「知っています」

「一人で帰れるよ?」

「それも知っています」

「じゃあ、どうして送るの?」


以前なら「護衛ですから」と答えたかもしれない。

でも今のレオンハルトは、少しも迷わなかった。


「私が一緒にいたいからです」


心臓が跳ねる。


「……そういうこと、普通の顔で言うようになったね」

「何か問題が?」

「私の心臓に問題が出そう」

「グレンジャー殿を呼びますか?」

「そういう意味じゃない!」


笑う私を見て、レオンハルトの口元も僅かに緩んだ。


「では、行きましょう」

「……お願いします」


並んで歩き出す。夜の王城は静かで、昼間の慌ただしさが嘘のようだった。廊下に響くのは二人分の足音だけで、窓の外には月明かりに照らされた庭が見える。


少し歩いたところで、レオンハルトが自然に私の手を取った。もう驚かなかった。私も当たり前のように指を絡める。


「ねえ、レオンハルト」

「はい」

「これからどうなるのかな」

「守り人のことですか?」

「うん」


黒い影はいなくなったし、アリアの封印も解けた。それでも、私の中にある力までなくなったわけではない。守り人という存在そのものが、これからどうなるのかはまだ分からない。


「明日、ローグ殿たちと調べることになるでしょう」

「そっか」

「不安ですか?」


少し考えてから、首を横に振った。


「前ほどじゃないかな。何か役目が残っていたとしても、それだけが私じゃないって分かったから」


レオンハルトが静かに私を見る。


「守り人として何かしなくちゃって、そればっかり考えなくてもいいんだよね。私、編み物もしたいし、街にも行きたい。美味しいものも食べたいし、猫も見に行きたい」

「付き合います」

「全部?」

「全部です」

「即答だね」

「当然でしょう」


笑ってしまった。


「仕事もあるでしょう?」

「調整します」

「副団長がそんなことでいいの?」

「あなたとの約束は重要な予定です」


また、こういうことを普通に言う。本当に困る。でも、嬉しい。


「じゃあ、デートの続きもしないとね」


そう言った途端、繋いでいた手に少しだけ力がこもった。


「それは最優先でお願いします」

「世界を救った後の最優先がデート?」

「問題がありますか?」


真顔だった。


「……ありません」


私が笑うと、レオンハルトも少しだけ目を細めた。


*


部屋の前へ着き、私は名残惜しい気持ちを隠すように扉へ手を伸ばした。


「ありがとう。おやすみ――」


言い終わる前に、繋いでいた手を引かれた。


「え?」


身体がくるりとレオンハルトの方へ向く。思っていたより近いところに彼の顔があって、心臓が大きく跳ねた。


「レオンハルト?」

「まだ、おやすみなさいは言いたくありません」


低い声で言われる。


「……でも、もう部屋に着いたよ?」

「知っています」

「じゃあ――」

「もう少し」


繋いでいた手を離さないまま、レオンハルトが一歩近づいた。私も一歩下がる。背中が扉へ触れた。


あっ…と思った時には、彼の片手が私の顔の横にある扉へついていた。完全に囲われている。逃げ道を塞がれたような形なのに、不思議と怖くはなかった。ただ、深い蒼の瞳に真っ直ぐ見つめられていることの方が、よほど心臓に悪い。


「……近いよ」

「はい」

「分かってるんだ」

「分かっています」

「少し離れる気は?」

「ありません」


即答だった。


「レオンハルト」

「嫌ですか?」


声が少し低くなる。その問いだけは、いつも真剣だった。私は首を横に振る。


「……嫌じゃない」


答えた途端、レオンハルトの腕が腰へ回った。ぐっと引き寄せられ、胸が触れそうなほど距離が縮まる。


「なら、離れません」


耳元で言われて、身体中が熱くなった。


「それ、ちょっと強引じゃない?」

「嫌なら離します」

「……嫌じゃないけど」

「では、このままで」


ずるい。絶対に分かってやっている。


「前はもっと遠慮してたよね?」

「後悔しましたから」

「何を?」


少しだけ表情が変わった。


「もっと早く、あなたに触れておけばよかったと」


胸が締めつけられた。


「もっと言葉にすればよかった。あなたが大切だと、離したくないと…何度もそう思っていたのに、あなたの負担になりたくなくて黙っていました」


腰に回された腕に力がこもる。


「その結果、あなたを失うかもしれないと思った時に、何も足りなかった」


――全然、足りない


アステリアで聞いた言葉を思い出す。


「だから、もう遠慮しないの?」

「はい」

「私が困っても?」

「困るだけなら」


思わず目を見開いた。


「そこは引かないんだ?」

「嫌なら引きます」


レオンハルトの指が私の頬に触れる。


「ですが、照れているだけなら引きません」


心臓が大きく鳴った。


「……見分けられるの?」

「これから覚えます」

「これから?」

「時間はあるのでしょう?」


その言葉に、胸の奥が温かくなる。そうだった。私たちには、これからがある。明日も、その次の日も…

焦らなくてもいいくらいの時間が…


「あるよ」


「なら、覚えます。あなたが本当に嫌な時と、ただ照れて逃げようとしている時の違いを」

「そんなの覚えなくていいよ」

「必要です」

「何のために?」

「逃がさないために」


息が止まりそうになった。レオンハルトは冗談を言っている顔ではなかった。


「……それ、反則」

「そうですか?」

「そうだよ」

「では、やめますか?」


問いかけながらも、頬に触れている手は離れない。私はしばらくその目を見つめてから、小さく首を横に振った。


「やめなくていい」


その瞬間、レオンハルトの瞳が柔らかく細められた。


「分かりました」


唇が重なる。最初は、そっと触れるだけだった。

でも、すぐには離れなかった。確かめるようにゆっくりと口づけられ、腰を抱く腕に少しずつ力がこもっていく。私も彼の上着を掴み、目を閉じた。


一度唇が離れた時、ほんの少し息をつく。

すぐ目の前にレオンハルトがいる。


「……これで足りた?」


聞いてみる。たぶん答えは分かっていた。案の定、レオンハルトは私を見つめたまま首を横に振った。


「全然」


その言い方があまりにも迷いなくて、胸が跳ねた。


「まだ?」

「まだです」

「昨日からずっと足りないって言ってない?」

「昨日より足りなくなりました」

「なんで増えてるの?」

「触れられると、もっと欲しくなるので」


顔が一気に熱くなった。


「レオンハルト!」

「はい」

「それ、普通に言う?」

「嘘をつく必要がありますか?」

「ないけど……!」


最後まで言えなかった。頬を包まれ、もう一度顔を上げさせられる。


「ミキ」

「……なに?」

「もう一度」


聞いているようで、ほとんどお願いではなかった。

でも、私が答えるまで待っている。私はそのことが嬉しくて、今度は自分から彼の胸元へ手を置いた。


「……うん」


二度目の口づけは、最初より少しだけ深かった。乱暴ではない。でも、遠慮もない。レオンハルトがどれほど私を失うことを怖がっていたのか、言葉よりもずっと伝わってくるようだった。私は彼の服を掴んでいた手を緩め、そのまま背中へ腕を回した。すると一瞬、レオンハルトの動きが止まった。唇が離れる。


「ミキ?」

「何?」

「今のは……」


珍しく、レオンハルトが言葉に詰まっている。

私は少しだけ笑った。


「レオンハルトばっかりじゃ不公平でしょう?」

「不公平?」

「私だって、会いたかったし、帰ってきて一緒にいられるの嬉しいよ」


言うのは恥ずかしい。でも、もう自分の気持ちを後回しにしないと決めた。


「私も触れたいって思ってる」


深い蒼の瞳が大きくなる。

あっ、これは…言いすぎたかもしれない。


「……ミキ」


声が低くなった。


「はい」

「それは、今言わない方がよかったかもしれません」

「え?」


次の瞬間、強く抱き寄せられた。


「ちょっと、レオンハルト」

「無理です」

「何が?」

「もう少し離れようと思っていました」

「思ってたの?」

「今、やめました」


思わず笑ってしまった。


「本当に強引になったね」

「嫌ですか?」


また聞く。私は彼の背中へ回した腕を、そのまま離さなかった。


「嫌じゃない」

「では、もう少し」

「それ、さっきも聞いた」

「はい」

「絶対もう少しじゃないでしょう?」


ようやくレオンハルトが笑った。


「努力します」

「信用できない」

「それでも?」


顔が近づく。私は笑いながら目を閉じた。


「……仕方ないなあ」


三度目は、どちらからともなく近づいた。

キスをしながら、ふと思う。私は今、幸せだ。それを認めることが、もう怖くない。誰かに申し訳ないと思う必要もない。ただ好きな人の腕の中にいて、その温もりが嬉しい。それだけでいい…


唇が離れたあとも、レオンハルトは私を抱きしめたままだった。私も彼の胸へ頬を寄せると、耳のすぐ近くで少し速い心臓の音が聞こえた。


「レオンハルトも緊張するんだね」

「します」

「もっと余裕あるのかと思ってた」

「あるように見せています」


思わず顔を上げる。


「そうなの?」

「当然でしょう。好きな女性に触れて、何も感じないわけがない」


また顔が熱くなった。この人は、本当にもう隠す気がないらしい。


「慣れる気がしない」

「慣れなくても構いません」

「なんで?」

「毎回その顔が見られるので」

「……もう!」


胸を軽く叩くと、その手を捕まえられた。そのまま指先へ唇が触れる。昼間と同じなのに、二人きりだと意味が違って感じてしまう。


「明日も会えますか」

「会えるよ」

「明後日も?」

「会える」

「その次も?」

「会えるってば」


笑いながら答えると、レオンハルトの表情がゆっくりと柔らかくなった。


「だって私、ここにいるもん。もう勝手にいなくならないよ」

「約束してください」

「約束する。でも、レオンハルトもね」

「私も?」

「私ばっかり心配されるのは不公平でしょう? あなたも結構無茶するんだから。私が止めても突っ込んでいきそうだし」


レオンハルトが僅かに視線を逸らした。


「善処します」

「駄目。約束」

「ミキ」

「約束」


しばらく見つめ合った末、レオンハルトが諦めたように息を吐いた。


「分かりました。約束します」

「よし」


満足して頷くと、レオンハルトが私の手を握り直した。


「では、私からも一つ」

「何?」

「明日、迎えに来ます」

「どこに行くの?」

「まだ決めていません」

「じゃあ、何で迎えに来るの?」


レオンハルトは、そんなことを聞く方が不思議だという顔をした。


「会いたいからです」


また胸が跳ねる。でも今度は、ただ赤くなるだけでは終わりたくなかった。


「……私も会いたい」


そう答えると、レオンハルトが一瞬黙った。それから、今まで見た中でもかなり嬉しそうな顔をした。

ほんの少しだけなのに、私には分かる。


「では、明日」

「うん。待ってる」

「おやすみなさい、ミキ」

「おやすみ、レオンハルト」


ようやく身体が離れる。扉を開けて部屋へ入ろうとして、私はふと思い立って振り返った。


レオンハルトはまだそこにいた。


「レオンハルト」

「はい?」


少しだけ迷ってから、彼の上着を掴んで引き寄せる。驚いた顔が近づいたところで、私はその頬へ軽く口づけた。


「……おやすみ」


今度こそ逃げるように部屋へ入る。扉を閉めて、背中を預けた瞬間、心臓がものすごい勢いで鳴り始めた。


やった…自分からやった。

今さら恥ずかしくなって、両手で顔を覆う。

でも、すぐ外から低い声が聞こえた。


「ミキ」

「……何?」


扉越しに答える。少し間があった。


「今、扉を開けると、たぶん帰れなくなります」


思わず吹き出した。


「帰って!」

「……はい」


珍しく素直だ。でも、足音がなかなか聞こえない。


「レオンハルト?」

「帰ります」

「まだいるでしょう?」

「今、努力しています」


笑いが止まらなくなった。


「おやすみ!」

「……おやすみなさい」


ようやく足音が遠ざかっていく。


私は扉に背中を預けたまま、しばらく笑っていた。


五十五歳まで生きて、結婚もして、夫を愛し、子どもも育てた。恋も人生も、それなりに知っているつもりだった。でも、知らないことはまだたくさんある。

こんなふうに誰かに会う明日を楽しみにすることも、自分から触れたいと思うことも、好きだという気持ちを隠さず受け取ることも…

そして何より、自分が幸せになることを遠慮しなくていいということも…


机の上には、編みかけの毛糸がある。明日になれば、またレオンハルトが来る。その次の日も、きっと会える。一目ずつ編んでいくように、私たちにもこれから重ねていける時間があるのだ。


(アリア…私、ちゃんと幸せになってるよ)

(誰かのためだけじゃなく、私自身が幸せになりたいと思えるようになったよ)


そう心の中で伝えると、胸の奥が温かくなった。

明日が楽しみだと思いながら眠れる。


それはきっと、私がずっと欲しかった幸せの一つだった。






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