45 今度こそ、幸せに
翌朝、目を覚まして最初に思ったのは、今日も私はここにいる、ということだった。見慣れた天井を眺めながら、しばらく寝台の中でぼんやりする。窓の外から鳥の声が聞こえ、カーテンの隙間から差し込む朝の光が部屋を柔らかく照らしていた。何でもない朝だ。
世界の境界が壊れかけているわけでも、黒い影が私の魂を狙っているわけでもない。急いで起きて誰かを助けなければならない理由もなく、ただ今日を生きるために目を覚まし、今日という一日を始めればいい。
そんな当たり前のことが、こんなにも穏やかで幸せなのだと、今になって初めて知った気がした。身体を起こしたところで、ふいに昨夜のことを思い出す。
部屋の前で何度もキスをして、最後には私からレオンハルトの頬へキスをした。そして――『今、扉を開けると、たぶん帰れなくなります』と囁いた、あの低い声まで鮮明に蘇った瞬間、私は慌てて布団を頭までかぶった。
「……朝から何思い出してるの、私」
昨夜は勢いでできたけれど、冷静になった今考えると恥ずかしすぎる。しかもレオンハルトは、今日も迎えに来るとはっきり宣言していた。
会いたいから迎えに来る、と…
嬉しい、ものすごく嬉しい。でも、顔を見た瞬間に昨夜のことを思い出してしまう自信もある。そんなことを考えていると扉が軽く叩かれ、エミリアの「ミキ様、お目覚めですか?」という声が聞こえた。「起きてるよ」と返事をすると扉が開き、入ってきたのはエミリアだけではなかった。リゼットとニーナも一緒で、その少し後ろからマルガレーテさんまで入ってくる。
四人全員が揃っているのを見た瞬間、嫌な予感がした。そして、その予感はすぐに的中した。
「よくお休みになれましたか?」
とにっこり笑うエミリア…
「うん」
「昨夜は?」
「寝たよ」
「その前です」
「……何が聞きたいの?」
「副団長様とは、どちらまで?」
「エミリア!」
(朝から何を聞くの!)
ニーナが真っ赤になって俯き、リゼットが小さくため息をつく。
「エミリア、朝からその質問は品がありません」
と、窘めてくれたので助かったと思ったのも束の間
「気にはなりますが」と付け加えられた。
「リゼットまで!?」
味方がいない。最後の希望を託してマルガレーテさんを見ると、彼女はいつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
「詳しく伺う必要はございません。ミキ様のお顔を拝見すれば、楽しい夜であったことは十分分かりますので」
「マルガレーテさんまで!」
朝から散々だ。それでも、四人が楽しそうに笑っているのを見ていると、私まで可笑しくなってくる。
こんな朝も悪くない。
むしろ、ずっと続けばいいと思った。
*
朝食を終えると、ローグ様から呼び出しがあった。
守り人の力とアステリアについて、現時点で分かっていることを確認したいらしい。部屋へ入ると、すでにレイブン様とグレンジャー様、それからレオンハルトが揃っていた。
目が合った。それだけで昨夜の記憶が全部戻ってきて、頬が熱くなる。対するレオンハルトは、少し目を細めただけで平然としていた。
(ずるい。どうしてそんなに普通でいられるの。)
「ミキ、顔が赤いですが、大丈夫ですか?」
「……誰のせいだと思ってるの」
小声で返すと、レオンハルトの口元がほんの少し上がった。
「昨夜のことでしょうか」
「言わなくていい!」
思わず声が大きくなり、部屋にいた全員がこちらを見る。レイブン様はすでに笑っていた。
「朝から仲がいいな」
「違うから!」
「俺は何も言ってないぞ」
「顔が言ってる!」
「お前、弟の顔だけじゃなく俺の顔まで読めるようになったのか」
「レイブン様!」
笑い声が広がる中、ローグ様が額を押さえた。
「始めていいか?」
「……すみません」
「頼むから世界を救った翌日くらい静かにしてくれ」
「エドワード、それは無理だろ」
「お前が言うな、レイブン」
いつものやり取りに、また笑いそうになる。こういう時間が戻ってきた。そのことが、何度でも嬉しかった。
*
話し合いは、思っていたより穏やかに終わった。
黒い影は完全にこの世界から切り離され、アステリアを覆っていた異常な魔力も徐々に落ち着いているらしい。私の中には今も守り人としての力が残っているけれど、その役目はこれまで伝えられてきたものとは大きく違うことも分かってきた。
「境界を監視し、異常があれば知らせる。必要があれば、本来あるべき場所へ導く。少なくとも現時点では、それが守り人本来の役目に最も近いと考えている」
ローグ様が資料を机へ置く。
「じゃあ、もう世界を救うために死んだりしなくていいんだよね?」
「最初からそんな役目じゃない」
即答されて、私は少し笑った。
「そうだったね」
誰か一人が犠牲になることを、いつの間にか当然だと思っていた。アリアも、エレノアも、そしてミアだった私も…でも、本来は違ったのだ。
誰かを守ることと、そのために自分を犠牲にすることは同じではない。
「それから、お前が守り人だからといって、今後の生活をこちらで決めるつもりはない。住む場所も、何をするかも自分で決めろ。必要な時には協力してもらうが、それ以外は好きに生きればいい」
ローグ様の言葉に、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう」
「礼を言われることじゃない。ただし、勝手に危険な場所へ行くな。一人で抱え込むな。それから『大丈夫』と言う前に、本当に大丈夫か一度考えろ」
「最後だけ難易度高くない?」
思わず聞くと、横からレイブンが笑った。
「俺もそう思った」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言った」
まったく…でも、否定できない。そんな私を見ながら、グレンジャー様まで大きく頷いていた。
*
部屋を出ると、レオンハルトが当然のように私の隣へ並んだ。
「仕事は?」
「今日は休みです」
「副団長なのに?」
「団長命令です」
振り返ると、少し離れたところにいたレイブン様がこちらへ手を振っている。
「働かせても使い物にならんからな! 今日は休め!」
「兄上」
「冗談だ。睨むな」
笑いながら去っていく兄を見送ってから、私はレオンハルトへ向き直った。
「じゃあ、今日は暇なの?」
「はい。あなたと過ごします」
即答だった。
「本当に迷わなくなったね」
「昨日言ったでしょう。迎えに来ると」
「言ってたけど」
そう答えたところで手を取られ、そのまま当然のように指を絡められる。
人の気配がなくなった廊下を歩き始めて少ししたところで、レオンハルトが私の手を握ったまま口を開いた。
「ミキは、どこか行きたいところある?」
私は思わず横を向いた。
「……今、言葉遣い変わった?」
レオンハルトも一瞬だけ黙った。
「変でしたか?」
「あ、戻った」
「……変?」
今度はまた戻った。私は思わず笑ってしまう。
「変じゃないよ。ただ、ちょっとびっくりしただけ」
レオンハルトは少し考えてから、繋いでいる手へ視線を落とした。
「二人だけだから、いいかと思って」
その言い方までいつもより柔らかい。
「いいけど。何か、距離が急に近くなった感じがするね」
「嫌?」
短い言葉に、胸が跳ねた。今まで何度も聞かれた「嫌ですか?」とは、全然違って聞こえる。
「……嫌じゃない」
「なら、このままでいい?」
「うん」
私が答えると、レオンハルトは少しだけ笑った。それだけなのに、繋いでいる手までさっきより近く感じる。
「それで、どこか行きたい?」
「庭を歩きたいな」
「庭?」
「うん。ゆっくり歩きたい」
世界を救った次の日にすることとしては、ずいぶん地味かもしれない。でも、今はそれがしたかった。何か特別なことではなく、好きな人と手を繋いで、ただ歩きたい。
「分かった。行こう」
その一言に、また少しだけ胸が鳴った。
*
庭には穏やかな風が吹いていた。
季節の花が咲き、噴水の水が陽の光を反射している。アステリアで見た白い花とは違う、どこにでもある王城の日常の景色だった。
私たちは手を繋いだまま、ゆっくり歩いた。
話すことも特別なことではない。昨日の料理が美味しかったとか、今度街へ出たら何を食べたいとか、猫を見に行く約束をいつ果たそうかとか。
そんな話ばかりなのに、それが嬉しかった。
「そうだ。毛糸」
思い出して言う。
「帰ったらちゃんとあったよ」
「置いていったもの?」
「うん。続きを編める」
「何を作るか決めた?」
まただ。さっきより自然にタメ口になっている。
「まだ。でも、レオンハルトに作るのは決めてる」
レオンハルトの足が止まった。
「私に?」
そこだけ「私」なんだ。まだ完全には馴染んでいないらしい。それが少し可愛くて、私は笑った。
「そうだよ。前に聞いたでしょう? 何がいいって」
「何でもいいって答えた」
「それが一番困るの」
少し考えたあと、レオンハルトが言った。
「じゃあ、身につけられるものがいい。できれば仕事中も使えるもの」
「毎日?」
「できれば」
思わず笑う。
「欲張りだね」
「今さらでしょう」
そこだけ丁寧語に戻ったので、ますます笑ってしまった。
「何でそこだけ戻るの?」
「……まだ慣れない」
「レオンハルトでも?」
「私だって――」
言いかけて、止まる。
「私?」
わざと聞くと、少し困った顔をされた。
「……からかわないでください」
完全に戻ってしまった。
「ごめんごめん。でも、別に無理して変えなくていいんだよ?」
「無理はしていません。ただ……あなたとは、もう少し近くてもいいのかと思っただけです」
不意に真面目な声になった。
私は少し驚いてレオンハルトを見る。
「近く?」
「護衛として話していた頃の癖が残っているので…恋人になっても、私はずっと同じ話し方をしていたでしょう」
「そうだね」
「でも、今はもう護衛だから隣にいるわけではありません」
繋いでいた手を、少し強く握られる。
「私がいたいから、あなたの隣にいる」
胸の奥が温かくなった。
「じゃあ、ゆっくりでいいんじゃない?」
「ゆっくり?」
「うん。レオンハルトが話したいように話せばいいよ。敬語でも、そうじゃなくても、どっちもレオンハルトでしょう?」
私が笑うと、深い蒼の瞳が柔らかくなる。
「……ありがとう、ミキ」
その言葉は、タメ口だった。だから私も、握られた手を握り返した。
*
庭の奥にある小さな東屋へ入り、二人で並んで腰掛けた。しばらく何も言わず、風に揺れる花を眺める。
こんな静かな時間をレオンハルトと過ごせることが、ただ嬉しかった。やがて隣から名前を呼ばれる。
「ミキ」
「うん?」
声が少し違う。振り向くと、さっきまでの柔らかな表情が消えていた。緊張している…そんなふうに見えた。
「どうしたの?」
「話があります」
丁寧語に戻っている。それだけで、これから言われることが大切なことなのだと分かった。レオンハルトは私の方へ身体を向け、両手で私の手を包んだ。
「昨日から、ずっと考えていました。いえ、昨日からではありません。もっと前からです」
深い蒼の瞳が、真っ直ぐ私を見る。
「あなたがこの世界へ来て、私が護衛になった頃から、少しずつ変わっていったのだと思います。最初は、あなたは守るべき人でした。守り人だから、私の任務だから…それだけのはずでした」
私は黙って、その言葉を聞いた。
「でも、いつからか理由が変わった。あなたが笑っていると安心して、困っていると助けたいと思うようになった。誰かと楽しそうに話していると面白くないと思うことも増えました」
思わず笑う。
「そこも言うの?」
「事実ですので」
「レイブン様の時とか?」
「特に兄上です」
けれど、すぐにレオンハルトの表情が真剣なものへ戻った。
「そして、あなたがいなくなることが怖くなりました。アステリアでは、それを嫌というほど思い知らされた。私はあなたを守りたいだけではありません。あなたと生きたい」
胸の奥が熱くなる。包まれている手へ、力がこもった。
「ミキ、私はあなたの過去を消すことはできません。ですが、消したいとも思いません。あなたが日本で生きた時間も、愛した人も、家族も、そのすべてが今のあなたを作っているのなら、私はそれごと大切にしたい。あなたが誰かを愛して幸せだったことを、私と出会う前のことだからと否定したくありません」
涙が滲んだ。この人は、ずっとそうだった。夫の話をしても、過去を捨てろとは一度も言わなかった。私の人生を自分だけのものにしようともしなかった。レオンハルトの親指が、私の手の甲をゆっくり撫でる。
「あなたの過去を私がもらうことはできません。それは、あなたが大切な人たちと生きたものですから。だから――」
そこで一度言葉を切り、レオンハルトは私を真っ直ぐ見つめた。
「これからを、私にください」
息が止まった。
「これからあなたが笑う時も、泣く時も、困った時も、幸せな時も、一番近くにいさせてください。守るだけでは足りない。あなたの隣で、同じ時間を生きたい」
何も言えない。胸がいっぱいで、涙だけが頬を伝った。レオンハルトが立ち上がる。そして、私の前に片膝をついた。
「……レオンハルト?」
頭が真っ白になる。
胸元から取り出された小さな箱を見た瞬間、何が起きようとしているのか分かってしまった。
「待って」
「はい」
「待って待って」
「待ちます」
「それ……何?」
「見れば分かるかと」
「分かるから待ってって言ってるの!」
レオンハルトの口元が僅かに緩む。
「落ち着くまで待ちます」
「無理だよ!」
「では、このまま続けます」
「強引!」
「嫌ですか?」
こんな時まで…泣きながら笑ってしまった。
「……嫌じゃない」
「では、続けます」
小さな箱が開く。
中には、細い銀色の指輪が収められていた。派手ではないけれど、中央には小さな深い蒼色の石が嵌め込まれている。
あの髪飾りと同じ…レオンハルトの瞳と同じ色。
「いつ用意したの?」
「今朝です」
「今朝!?」
「以前から考えていました。石は手配してありましたので」
「用意周到すぎない?」
レオンハルトは少し笑った。
「あなたを逃がすつもりはありませんので」
心臓が跳ねた。
「それ、プロポーズする人が言う?」
「嫌なら逃がします」
「……嫌じゃなかったら?」
深い蒼の瞳が、私だけを見つめる。
「逃がしません」
ずるい。本当にこんな時までキュンとさせないでほしい。
「ミキ」
呼ばれて、私は姿勢を正した。
「私と結婚してください」
涙が止まらなくなった。日本で私は一度結婚した。
夫と家族になり、子どもを育て、笑って、喧嘩をして、病気になった夫を看て、最後にはその手を握って見送った。
辛いこともあった。
苦しいこともあった。
それでも、あの人生は幸せだった。
だからこそ今、もう一度誰かから一緒に生きようと言われていることが、こんなにも胸に響く。
「……いいの?」
声が震えた。
「何がですか」
「私、一度結婚してるよ。子どももいるし、日本では五十五歳だったし、もっと昔にはミアだった。お姉ちゃんは最初の守り人で、私も守り人で……かなりややこしいよ?」
レオンハルトが少し笑った。
「今さらですね。その全部を知った上で、私はあなたと結婚したいと言っています」
包まれている手へ、また力がこもる。
「私が望んでいるのは、守り人でも、ミアでも、日本で生きた坂元水姫だけでもありません。そのすべてを抱えて、今ここにいるあなたです」
涙がまた零れた。
「ですから、ミキ。私を選んでください」
命令ではない。守るから従えという言葉でもない。
私の過去を捨てて、自分だけを見ろという言葉でもない。ただ、この人と一緒に生きる未来を差し出されている。
選ぶのは、私だ。
私は涙を拭って、笑った。
「はい。私もレオンハルトと一緒に生きたい。だから……私と結婚してください」
一瞬、彼が動きを止めた。
いつも私ばかり驚かされているのだから、少しくらい仕返しをしてもいい。そう思っていたのに、次の瞬間には立ち上がったレオンハルトに腕を引かれ、強く抱きしめられていた。
「ちょっと、指輪!」
「後でいい」
耳元で返ってきた言葉に、私は一瞬固まった。さっきまでの丁寧な口調が消えている。それどころか…
「今は……もう少し、このままでいたい」
抱きしめる腕に、さらに力がこもった。
「レオンハルト?」
「うん」
「……また言葉遣い変わってるよ?」
少しだけ身体を離して顔を見ると、レオンハルトは困ったような、それでいてどこか吹っ切れたような顔をしていた。
「もう、いいかなと思って」
「何が?」
「ずっと距離を取るみたいに話すのをやめても」
胸がきゅっとなる。
「でも、さっきもタメ口だったでしょう?」
「そうじゃなくて」
一度言葉を止めたレオンハルトが、私の頬に触れる。
「……俺は、もうミキの護衛としてだけ隣にいるわけじゃない」
息を呑んだ。今、確かに…
「……俺?」
思わず聞き返すと、レオンハルトが少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「やっぱり変?」
「変じゃないけど……びっくりした」
「嫌?」
その言い方まで、さっきより近い。私は首を横に振った。
「嫌じゃない。全然」
すると、レオンハルトの目がゆっくりと私へ戻ってきた。
「なら、もう戻さない」
「え?」
「二人の時は、これで話す」
決定事項らしい。
「私の意見は?」
「嫌じゃないって聞いた」
「聞いたけど」
「ならいい」
「……やっぱり強引!」
「今さらだろう?」
しかも馴染むのが早い。思わず笑ってしまった。
でも、その笑いはすぐに止まった。
レオンハルトが、さっきよりもずっと近い距離から私を見つめていたからだ。
「ミキ」
「……何?」
「もう離さない」
胸が大きく鳴った。敬語でもない。「私」でもない。
ただ一人の男として言われたその言葉が、今までで一番近く感じた。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「急に俺って言って、急にそんなこと言うの」
「本当のことだから」
腰へ回った腕が私を引き寄せる。
「これからは、俺がミキの隣にいたい。護衛だからでも、守り人だからでもない。俺がそうしたいから」
もう駄目だ。涙が出ているのに、今度は笑ってしまう。
「さっきプロポーズされた時よりドキドキしてるかも」
「それは少し複雑だな」
「だって、レオンハルトが俺って……」
「慣れて」
「簡単に言うね」
「これからずっと聞くんだから、嫌でも慣れるよ」
「嫌じゃないってば」
「知ってる」
少し笑ったレオンハルトの顔が近づく。
「ミキ。キスしていい?」
「そこは聞くんだね」
「そこは聞く」
「どうして?」
「大事だから」
その答えに、胸の奥が温かくなる。
強引になっても
距離が近くなっても
この人の大切なところは変わらない。
私はレオンハルトの首へ腕を回した。
「……してほしい」
深い蒼の瞳が僅かに細くなる。
「もう一回言って」
「え?」
「聞きたい」
「レオンハルト!」
「今は俺」
「そこ!?」
笑ってしまった。
でも、腰に回された腕は緩まない。
「ミキ」
「……何?」
「言って」
低い声に胸が跳ねる。ちょっと強引でも嫌じゃない。
むしろ――
私は真っ赤になりながら、それでもレオンハルトを見つめた。
「……キスしてほしい」
「うん」
今度は待たなかった。唇が重なる。これまでのどのキスより、近く感じた。プロポーズされたからだけではない。私が自分で選んだからだ。
この人と生きたい。これからも隣にいたい。
そしてレオンハルトも、もう「護衛」という立場の後ろへ気持ちを隠さない。腰を抱く腕が私をしっかりと引き寄せ、私も彼の背中へ回した腕に力を込めた。
一度唇が離れても、額を寄せたまま距離は開かない。
「……足りた?」
小さく聞いてみると、レオンハルトが少し笑った。
「全然」
「まだ!?」
「たぶん、一生足りない」
「それ困るよ」
「俺は困らない」
また
「……俺って言うたびにドキッとするんだけど」
「じゃあ、たくさん言う」
「わざとでしょう!」
「うん」
とうとう認めた。
「性格変わってない?」
「ミキの前だけ」
そんなことを言いながら、頬へ唇が触れる。
「ちょっと。今の聞いてない」
「頬だから」
「そんな決まりないよ!」
「じゃあ、次から聞く」
「次がある前提なんだ」
「当然」
笑ってしまう。本当に、この人は変わった。
でも、たぶん変わったのではない。
今までずっと隠していたものを、私に見せてくれるようになっただけなのだ。
*
しばらくして、ようやくレオンハルトが指輪の存在を思い出した。
「……そういえば、指輪」
「やっぱり忘れてたでしょう?」
「少し」
「少しじゃないよ」
二人で笑いながら東屋の椅子へ座り直す。
レオンハルトが私の左手を取り、銀色の指輪をゆっくり薬指へ通した。驚くほどぴったりだった。
「何でサイズ知ってるの?」
「エミリア殿に協力してもらいました」
そこだけ急に丁寧語だ。
「エミリア!」
朝のあの顔…絶対知ってたんだ。
「帰ったら問い詰める」
「ほどほどにしてください。彼女には随分協力してもらいましたので」
「今また戻ったね」
指摘すると、レオンハルトが一瞬黙った。
「……人の話になると、癖で」
「いいんじゃない? 無理に全部変えなくても」
「そう?」
「うん。レオンハルトらしいし」
「じゃあ、ミキと二人の時だけでいい」
「何が?」
私の左手を握ったまま、レオンハルトが少し笑う。
「俺になるのは」
また胸が跳ねた。
「……それ、反則」
「どうして?」
「私だけって言われると嬉しいから」
「ならよかった」
「絶対分かって言ってるでしょう」
「少しは」
「もう」
笑いながら指輪を見る。
銀色の輪に、小さな深い蒼が輝いている。
髪には同じ色の髪飾り
あの髪飾りは、何度も私たちを繋いでくれた。そして今度は、指輪だ。
「綺麗」
「似合ってる」
「ありがとう」
指輪に触れていると、その手ごとレオンハルトの手に包まれた。
「ミキ」
「うん?」
「幸せにします」
そこだけ丁寧な言葉だった。
私は顔を上げる。レオンハルトも、真っ直ぐ私を見ている。きっとこれは、わざとだ。冗談でも甘い囁きでもなく、一生をかけた約束だから。
だから私も、きちんと答えたい。
「一緒に幸せになろう」
レオンハルトが僅かに目を見開いた。
私は彼の手を握り返す。
「レオンハルトだけが私を幸せにするんじゃなくて、私もレオンハルトを幸せにしたい。守ってもらうだけじゃなくて、私もあなたを大事にしたい。だから二人で幸せになろうよ」
深い蒼の瞳が、ゆっくりと柔らかくなった。
「……うん」
今度は、私だけに向ける声だった。
「一緒に幸せになろう、ミキ」
それが、私には一番嬉しい答えだった。
*
東屋を出て王城へ戻る道でも、私たちは手を繋いでいた。左手の薬指には指輪がある。何度見ても夢みたいで、歩きながらつい視線を落としてしまう。
「ねえ、これ、みんなに言うの?」
「もちろん」
「今日?」
「今すぐでもいい」
思わず足を止めた。
「待って! 心の準備がいるから! エミリアなんて絶対大騒ぎするし、レイブン様も絶対からかうし!」
「別にいいだろう?」
「私はよくないの!」
レオンハルトが少し考える。
「じゃあ、夕食まで待つ」
「今日なのは決定なんだ」
「うん」
「明日じゃ駄目?」
「駄目」
「何で?」
尋ねた瞬間、繋いでいた手を引かれ、身体が近づいた。
「早く、ミキが俺と結婚するって皆に言いたいから」
また心臓が跳ねる。
「……堂々としすぎ」
「今さらだろう?」
「本当に変わったね」
「ミキのせい」
「何でも私のせいにしてない?」
「そうかも」
楽しそうに笑っている。以前なら、ほとんど見せなかった顔だ。変わったのは私だけではない。
レオンハルトも、自分の気持ちを隠さなくなった。
守るだけではなく、一緒にいたいと言ってくれるようになった。誰かを大切にすることは、自分の気持ちを押し殺すことではない。
守りたいなら、一緒に生きればいい。
大切なら、大切だと言えばいい。
好きなら、好きだと言っていい。
そんな簡単なことを、私たちは随分遠回りして覚えたのかもしれない。
「ミキ」
呼ばれて顔を上げる。いつの間にか、また距離が近い。
「……何?」
「キスしたい」
「ここ、廊下だよ?」
「誰もいない」
「さっき庭でも同じこと言ってたよね?」
「嫌?」
私は笑った。
「嫌じゃない」
すぐに腰を引き寄せられる。
「本当に遠慮なくなったね」
「言っただろう? もう戻さないって」
唇が触れる直前、私は小さく言った。
「大好き」
レオンハルトの動きが止まった。
「……ミキ」
「何?」
「もう一回」
珍しく、余裕がなくなっている。
それが嬉しくて、今度はちゃんと目を見て言った。
「大好きだよ、レオンハルト」
強く抱きしめられた。
「ちょっと、苦しい」
「今だけ我慢して」
「強引」
「嫌?」
笑ってしまう。
「嫌じゃないよ」
耳元で、低い声がした。
「俺も愛してる」
胸がいっぱいになった。
少し前の私なら、こんなに真っ直ぐな言葉を受け取るだけで戸惑っていたかもしれない。
でも今は、嬉しいと言える。
「ずっと?」
少しだけ意地悪して聞いてみる。
レオンハルトは迷わなかった。
「ミキが望む限り」
聞いたことのある言葉だった。
まだ未来がどうなるのか分からなかった頃、馬車の中で交わした言葉…
――いる?
――ずっと?
――あなたが望む限り
あの時は、未来への願いだった。
でも今は、二人で選んだ約束だ。私は繋いでいる手を少し強く握った。
「じゃあ、ずっとだね」
「うん。ずっと」
その言葉が嬉しくて、今度は私から少し背伸びをした。レオンハルトの目が驚いたように僅かに開く。
「ミキ?」
「たまには私からでもいいでしょう?」
「もちろん」
「じゃあ、目閉じて」
素直に目を閉じたレオンハルトの頬へ手を添え、唇を重ねる。ほんの少しだけそのつもりだった。
けれど離れようとした瞬間、腰へ腕が回った。
「え?」
「捕まえた」
「ちょっと、私からするって言ったでしょう?」
「してもらった。だから今度は俺から」
「そういう交代制なの?」
「今決めた」
「勝手に決めないで!」
笑った私の声ごと、今度はレオンハルトの口づけに包まれた。
*
この世界へ来る前、私は坂元水姫として日本で生きた。
夫を愛し、子どもを育て、たくさん笑って、たくさん泣いた。夫を失った悲しみも、その後に一人で頑張ろうとした時間も、決してなかったことにはならない。
そして、この世界へ来てから知った。
もっと昔には、ミアという名前で生きていたこと
大好きな姉がいたこと
その姉が千年以上もの間、私を忘れずにいてくれたこと
いくつもの人生があるけれど、どれか一つだけが本当なのではない。ミアだった私も、日本で夫と家族を愛した私も、守り人としてこの世界へ戻ってきた私も、全部が私だ。誰かのために頑張ってきたことも間違いではなかった。誰かを守りたいと思ったことも、愛する人のために自分にできることをしたことも、全部大切な私の人生だ。
ただ、これからは、そこに私自身も入れたい。
大切にする人の中に
守りたい人の中に
幸せになってほしいと願う人の中に
私自身も入れていい。隣を見る。レオンハルトがいる。左手には、深い蒼の石が輝いている。
「帰ろう、ミキ」
レオンハルトが言った。
「うん」
私は差し出された手を取った。帰る場所がある。
待ってくれている人たちがいる。
部屋には編みかけの毛糸があるし、街へ行けば美味しいものもたくさんある。猫を見に行く約束だって、まだ果たしていない。
レオンハルトとは、これからもっとたくさんデートをしたい。
きっと喧嘩もする。
困らせることも、困らされることもある。
レオンハルトが心配しすぎて私が怒ることもあるだろうし、私がまた無茶をしてグレンジャー様に叱られることもあるかもしれない。
それでもいい。そんな毎日を、この人と重ねていきたい。前の人生は幸せだった。だから否定しない。
忘れない。大切に抱えて生きていく。
そして今度の人生も、幸せになりたい。
誰かのためだけではなく、私自身も大切な人たちと一緒に…
繋いだ手を、私は少し強く握った。
「レオンハルト」
「ん?」
その返事にも、まだ少しドキドキする。
「幸せになろうね」
レオンハルトが足を止め、私を見た。
そして繋いだ手を持ち上げると、薬指の指輪へそっと唇を触れさせた。
「うん。一緒に幸せになろう」
胸が温かくなる。私は笑って、もう一度その手を握り返した。
今度の人生は――誰かを守るだけじゃなく、私も幸せになっていい。
いいえ、もう、誰かに許してもらわなくてもいいのだ。私は私の人生を、自分で選んだ。愛する人と笑って、好きなことをして、誰かに頼って、時には守られながら、私自身の幸せも大切にして生きていく。
その未来へ続く道を、私はレオンハルトと手を繋いで歩いていく。
「ミキ」
「何?」
「さっきの、もう一回言って」
「何を?」
「大好きって」
思わず笑った。
「もう言ったでしょう?」
「もう一回聞きたい」
「欲張り」
「知ってる」
私は少しだけ繋いだ手を引き、レオンハルトをこちらへ向かせた。
「大好きだよ」
深い蒼の瞳が柔らかくなる。
「俺も」
「それだけ?」
わざと聞いてみると、今度はレオンハルトが笑った。
「愛してる、ミキ。これから先も、ずっと」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私はその言葉を受け取って、笑った。
「うん。私も」
今度の人生は、もう一人ではない。
守るだけでも、守られるだけでもない。
手を繋いで、一緒に生きていく人がいる。
だから私は、隣にいる人の手をしっかり握ったまま、私たちの帰る場所へ歩いていった。




