43 ただいまを言える場所
王都が見えたのは、アステリアを出てから二日後の昼過ぎだった。船を降りて用意されていた馬車へ乗り換えてからも、私は何度も窓の外を眺めていた。見慣れた街並みが少しずつ近づいてくる。行き交う人々や店先に並ぶ色とりどりの商品、遠くから聞こえる呼び込みの声…アステリアへ向かう前にも見ていたはずの景色なのに、今はどれも懐かしく、少しだけ違って見えた。
「帰ってきたんだね」
思わず呟くと、隣に座っていたレオンハルトが窓の外から私へ視線を移した。
「はい」
短い返事とともに、膝の上に置いていた私の手へ彼の手が重なる。驚いて横を見ると、レオンハルトは何事もなかったような顔をして、そのまま私の指へ自分の指を絡めてきた。
「……何?」
「何も」
「じゃあ、この手は?」
「嫌ですか?」
またそれだ…
アステリアを出てからというもの、レオンハルトはずっとこんな調子だった。以前なら周囲に人がいれば少しくらい遠慮していたはずなのに、今は私が嫌だと言わない限り離れるつもりがないらしい。
「嫌じゃないよ」
そう答えると、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
「なら問題ありません」
向かいに座っていたレイブン様が、面白そうに私たちを眺めている。
「弟」
「何ですか」
「変わったな」
「そうですか」
「前なら、人前でそんな堂々と手を繋いでなかっただろ」
「繋いでいました」
「ああ、そういえば馬車でも繋いでたな」
「レイブン様!」
思わず声を上げると、レイブン様が楽しそうに笑った。その横ではローグ様が我関せずという顔で書類を読んでいるけれど、口元がほんの少し動いたような気がする。一方、グレンジャー様はそんなやり取りには加わらず、じっと私の顔を見ていた。
「ミキ様、疲れていませんか?」
「大丈夫」
答えた瞬間、二方向から同時に視線が飛んできた。
レオンハルトとグレンジャー様だ。しまった…
「……今のは普通の意味の大丈夫です」
「普通の意味とは?」
レオンハルトの声が少し低くなる。
「本当に大丈夫って意味」
「信用できません」
「即答しないでよ」
すると、グレンジャー様まで大きく頷いた。
「今回はレオンハルトに同意します」
「グレンジャー様まで!」
「実績がありますから」
「何の実績?」
「大丈夫と言いながら無茶をする実績です」
反論しようとして、やめた。思い当たることが多すぎる。向かいでレイブン様がまた笑っている。そんなやり取りをしているうちに馬車が大きく曲がり、窓の向こうに王城が見えてきた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
この城へ初めて来た時は、何も分からなかった。自分が誰なのかも、なぜこの世界にいるのかも分からないまま、豪華な部屋で目を覚まして、知らない人たちに囲まれて戸惑っていた。あの頃の私は、ここを自分の帰る場所だと思う日が来るなんて想像もしていなかった。
「ミキ?」
レオンハルトに呼ばれて我に返る。
「どうしました?」
「ううん」
私は王城を見つめたまま、繋いだ手を握り返した。
「帰ってきたなって思って」
レオンハルトは何も言わなかった。ただ、絡めた指にゆっくりと力を込めてくれた。
*
馬車が王城の門をくぐると、すでにアステリアからの帰還を知らせる報せが届いていたらしく、城内は慌ただしい空気に包まれていた。馬車が止まるやいなや、騎士や魔法師たちが次々と出迎えに現れる。レイブン様とローグ様は降りた途端に何人もの部下に囲まれ、グレンジャー様のところにも医務室から迎えが来ていた。私も馬車から降りようとしたところで、先に地面へ降りたレオンハルトが振り返った。
「待ってください」
「え?」
差し出された手を見る。
「一人で降りられるよ?」
「知っています」
「じゃあ――」
「手を」
言い切られてしまった。少し前なら、護衛だからだろうと思ったかもしれない。でも、今は違うと分かる。だから私も素直にその手へ自分の手を重ねた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
支えてもらって地面へ降りる。ところが、役目を終えたはずの手はそのままだった。
「……レオンハルト」
「はい」
「もう降りたよ?」
「そうですね」
「手は?」
「繋いでいます」
「それは分かってるんだけど」
レオンハルトは平然としている。
アステリアで「もう遠慮する気がなくなりました」と言ったのは、本気だったらしい。船の上でも馬車の中でも、隙があれば手を繋ぐか肩に触れるかして、常に私がそこにいることを確かめている。
あれだけ怖い思いをさせてしまったのだから、しばらくは好きにさせてあげようかな。
そう思っていた時だった。
「ミキ様!」
聞き覚えのある声が廊下の向こうから響いた。振り向くと、こちらへ向かって走ってくる人影が見える。先頭はエミリア、そのすぐ後ろをニーナが必死についてきて、少し遅れてリゼットが続いていた。さらにその後ろから、走ってこそいないものの、普段より明らかに速い足取りでマルガレーテさんがこちらへ向かってくる。
「ミキ様ぁぁぁ!」
「エミリア!?」
勢いがすごい。このままではぶつかると思った瞬間、腰に腕が回り、私は半歩後ろへ引かれた。
「速度を落とせ」
レオンハルトの低い声に、エミリアが慌てて急停止する。
「ふ、副団長様!」
「ミキは疲れている」
「す、すみません!」
しゅんと肩を落としたエミリアを見て、私はレオンハルトの腕を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
「しかし」
「エミリア」
私が両腕を広げると、エミリアの表情が一瞬で崩れた。
「……ミキ様」
さっきとは違って、今度はゆっくり近づいてくる。そして私の前まで来ると、堪えきれなくなったようにぎゅっと抱きしめてきた。
「おかえりなさいませ……!」
声が震えている。
「うん。ただいま」
背中へ腕を回した途端、エミリアが泣き出した。
「ミキ様ぁ……!」
「ちょっと、そんなに泣かないで」
「だって……本当に、心配したんですから……!」
エミリアの後ろを見ると、ニーナもすでに涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
「ミキ様……本当に、本当にお帰りになったんですね」
「ニーナまで」
「だって……!」
次の瞬間にはニーナまで抱きついてきて、二人に挟まれる形になる。
「ちょ、ちょっと待って。二人は重い!」
「すみません!」
謝っているのに、二人とも離れない。困りながらも笑っていると、少し離れたところに立っていたリゼットが静かに近づいてきた。いつもの落ち着いた表情だった。でも、目が赤い。
「リゼット」
「……おかえりなさいませ、ミキ様」
「うん。ただいま」
リゼットが微笑んだ瞬間、その頬を一筋の涙が伝った。本人が一番驚いたように目を見開き、慌てて拭おうとする。その手を私はそっと掴んだ。
「いいよ」
「ですが……」
「心配してくれてたんでしょう?」
しばらく黙ったあと、リゼットは少しだけ唇を噛んで頷いた。
「……はい」
いつも静かな彼女だからこそ、その一言が胸に響いた。私はエミリアとニーナの腕から何とか抜け出し、今度はリゼットを抱きしめた。
「ありがとう」
「……はい」
そっと背中へ腕が回る。そして、その向こうにはマルガレーテさんが立っていた。いつものように背筋を伸ばし、穏やかな表情をしている。でも、その目にははっきりと涙が浮かんでいた。
「マルガレーテさん」
呼びかけると、彼女はゆっくりと私の前まで歩いてきて、深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ミキ様」
胸が詰まった。この人には、この世界へ来た最初の頃からずっとお世話になっている。何も分からなかった私に城での暮らしを教え、困った時にはさりげなく助けてくれて、私がこの世界で初めて安心できる場所を作ってくれた人の一人だ。
「ただいま、マルガレーテさん」
頭を上げた彼女が、いつもの優しい笑顔を見せる。
「ご無事で、本当にようございました」
たったそれだけの言葉なのに、今度は私の目からも涙が零れた。
「……うん」
慌てて拭いながら笑う。
「もう、みんなが泣くから私まで泣いちゃったじゃない」
すると、すぐにエミリアが反論した。
「ミキ様が泣かせたんです!」
「え、私?」
「そうです! 出発されてから、どれだけ心配したと思ってるんですか!」
ニーナも隣で何度も頷いている。
「毎日、いつお帰りになるのかって話していたんです」
「毎日?」
「毎日です!」
するとリゼットが、いつもの落ち着いた声で付け加えた。
「エミリアは三日に一度ほど、『今から迎えに行けませんか』と言っていました」
「リゼット!」
「事実です」
「ニーナだって毎晩窓から外を見てたじゃない!」
「それは言わないでください!」
今度は二人で言い合い始める。その様子を見ているうちに、胸の中に温かなものが広がっていった。この人たちは、ずっと待っていてくれたんだ。
私が帰ってくると信じて…
「ありがとう。待っててくれて」
自然に出た言葉に三人が黙り、マルガレーテさんが穏やかに微笑んだ。
「当然でございます。ミキ様のお部屋は、いつお帰りになってもよいよう、毎日整えておりました」
また泣きそうになる。今日はどうも涙腺が働きすぎている。
*
「ところで……」
エミリアの声色が突然変わった。さっきまで泣いていた人とは思えない。嫌な予感がして視線を追うと、彼女が見ていたのは私の右手だった。正確には、その手を握っているレオンハルトの手…
「……あ」
すっかり忘れていた。
侍女たちとの再会の間も、レオンハルトはずっと私のそばにいて、エミリアたちに抱きつかれている時だけ手を離したものの、いつの間にかまた繋いでいたらしい。エミリアの視線が、私たちの手からレオンハルトへ移り、また私へ戻ってくる。
「ミキ様」
「なに?」
「ずっと、そうされていたんですか?」
「そうって?」
「お手を」
「……まあ、だいたい」
ちらりとレオンハルトを見る。本人はまったく動じていない。
「副団長様」
今度はエミリアが彼に向き直った。
「何だ」
「お離しにならないのですか?」
「離す必要が?」
あまりにも当然のように返されて、エミリアの目が大きくなる。リゼットまで僅かに眉を上げ、ニーナは両手で口元を押さえた。
「え……」
エミリアが私を見る。
「え?」
「私に聞かないで」
「ですが!」
「私も昨日からこんな感じだから」
言ってから、しまったと思った。
「昨日から!?」
エミリアの顔が一気に輝く。完全に食いつかれた。
「何があったんですか!?」
「いろいろ!」
「いろいろとは!?」
「世界を救ってきたの!」
「そちらではありません!」
なぜ分かる。その時、後ろから楽しそうな笑い声が聞こえた。
「聞きたいか?」
振り向くと、いつの間にか部下から解放されたレイブン様が立っている。
「レイブン様!」
「俺はまだ何も言ってないぞ」
「今から言う顔してる!」
「兄上」
隣から響いた低い声に、レイブンがぴたりと口を閉じた。レオンハルトが無表情で兄を見る。
「余計なことを言えば、明日の訓練を増やします」
「俺、団長なんだが?」
「知っています」
「兄でもあるぞ」
「それも知っています」
「扱いが酷くないか?」
「自業自得です」
侍女たちが一斉に笑い、私もつられて笑った。その笑い声を聞きながら、ようやく実感する。王城へ帰ってきた…本当に、帰ってきたんだ。
*
ようやく自分の部屋へ向かえたのは、それから一時間ほど後だった。
途中で何人もの人に呼び止められて無事を喜ばれ、グレンジャー様には「今日は絶対に休むように」と何度も念を押された。そんな私の隣には、当然のようにレオンハルトがいる。
そして彼は、部屋の前までついてきた。
「ここまでで大丈夫だよ」
口にした直後、しまったと思った。
案の定、レオンハルトの眉が僅かに動く。
「……今のは、本当に大丈夫って意味だからね」
「分かっています」
「信用してない顔してる」
「信用していないわけではありません」
「じゃあ何?」
問い返すと、レオンハルトは少しだけ黙った。
そして、周りに侍女たちがいることなど気にする様子もなく、静かに答えた。
「離れたくないだけです」
言葉が出なかった。後ろの空気まで止まった気がする。見なくても分かる。
特にエミリアは、絶対にすごい顔をしている。
「レオンハルト」
「はい」
「ここ、みんないるよ」
「知っています」
「……そう」
もう駄目だ。この人、本当に遠慮する気がない。
顔が熱くなるのを感じながらも、私はどうにか言葉を続けた。
「でも、着替えたいし、少し休みたいから」
「はい」
「だから……また後でね」
ようやくレオンハルトが小さく息を吐いた。
「分かりました」
それで終わると思った。ところが、彼は繋いでいた私の手をゆっくり持ち上げると、指先へそっと唇を触れさせた。
「……っ!」
後ろから誰かが息を呑む音がした。たぶん、一人ではない。
「ゆっくり休んでください。夕食の前に来ます」
何事もなかったかのように言うレオンハルトを、私は呆然と見上げた。
「……来るの?」
「嫌ですか?」
またそれだ。でも、もう答えは決まっている。
「嫌じゃない」
そう言うと、レオンハルトの目元が柔らかくなった。
「では、後ほど」
ようやく手が離れる。レオンハルトが廊下を歩いていき、その背中が角を曲がって見えなくなるまで、なぜか誰も何も言わなかった。
静かすぎる…ものすごく嫌な予感がする。
恐る恐る振り返ると、四人全員が私を見ていた。
「……何?」
最初に口を開いたのは、やっぱりエミリアだった。
「ミキ様」
「はい」
「何があったんですか?」
「だから世界を救って――」
「そちらではありません!」
「やっぱり!?」
ニーナまで頬を赤くしながら口を開く。
「副団長様……以前と全然違います」
「私もそう思う」
「ミキ様!」
「何?」
「何をされたんですか!?」
「私がしたみたいに言わないで!」
すると、リゼットが落ち着いた声で言った。
「むしろ、副団長様の方が何かなさったように見えましたが」
「リゼット!」
「間違っていますか?」
間違っていない。間違っていないから困る。
助けを求めてマルガレーテさんを見ると、彼女だけはいつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
「皆さん」
その一言で三人がぴたりと止まる。さすが侍女頭、助かった。そう思ったのに…
「ミキ様はお疲れです。質問は、お着替えが済んでからにいたしましょう」
「マルガレーテさん!?」
助かっていなかった。三人が一斉に頷く。
「はい!」
「承知しました」
「では、まずお着替えを!」
「待って。質問する前提なの?」
誰も答えてくれなかった。どうやら、黒い影との戦いを終えて王城まで無事に帰ってきた私は、今度は侍女四人から逃げられないらしい。
*
久しぶりに入った自分の部屋は、出発した日のままのように見えた。もちろん、本当に何も変わっていないわけではない。ベッドは綺麗に整えられ、机にも埃一つなく、窓辺にも手入れされた花が飾られている。
――いつお帰りになってもよいように
マルガレーテさんの言葉を思い出す。私がいない間も、ここはずっと私の帰りを待つ部屋として整えられていたのだ。胸の奥が温かくなりながら部屋を見回していると、机の上に置かれた籠が目に入った。
そこには、毛糸と編み針があった。出発する日に、わざと置いていったものだ。私はゆっくりと机へ近づき、籠の中の毛糸へ指を触れた。柔らかな感触は、あの日と何も変わらない。
「……あった」
当たり前のことなのに、声が震えた。
「ミキ様?」
後ろからエミリアの声がする。私は毛糸をそっと持ち上げた。
「これね、置いていったの。帰ってくるつもりで」
あの日、全部を持っていくのはやめた。帰る場所に、続きを残しておきたかった。もし戻ってこられなかったら、という不安がなかったわけではない。それでも私は、この毛糸の続きを編む自分を思い浮かべて出発した。そして今、本当にここに立っている。
「続き、編めるね」
そう呟くと、マルガレーテさんが静かに頷いた。
「はい。いくらでも」
その言葉に、胸の奥がいっぱいになった。
急がなくていい。これから何を編むのか、ゆっくり考えればいい。レオンハルトは何でもいいと言っていた。だったら彼が使ってくれるものを考えて、色を選んで、一目ずつ編んでいこう。
これから重ねていく時間と同じように…
「何を編まれるんですか?」
ニーナが興味津々で覗き込む。
「まだ決めてないの」
「副団長様へのものですよね?」
すかさずエミリアが聞いてくる。
「……なんで分かるの?」
「分かります!」
「何で!?」
リゼットが小さく笑った。
「今の副団長様をご覧になって、分からない者はいないかと」
「そんなに?」
三人が揃って頷いた。私は思わず額を押さえた。
「もう……」
恥ずかしい。でも、不思議と嫌ではなかった。
毛糸をそっと籠へ戻して、改めて部屋を見回す。この世界で目を覚ましたばかりの頃、私はここを借り物の部屋だと思っていた。自分の居場所ではなく、いつか出ていく場所なのだと、心のどこかで線を引いていた。でも今は違う。ここには私が選んだ毛糸があり、読みかけの本があり、いつの間にか増えていった私物がある。大切な人からもらったものも、これから作ろうとしているものもある。そして何より、私が帰ってくることを信じて待っていてくれた人たちがいる。
「ただいま」
もう一度、今度は部屋そのものへ向けるように言った。エミリアとニーナが笑い、リゼットの表情も柔らかくなる。マルガレーテさんはいつもの穏やかな笑顔で私を見つめていた。
「おかえりなさいませ、ミキ様」
四人の声が重なる。
私は毛糸の入った籠へもう一度触れてから、みんなを見て笑った。ここも、私の帰る場所だった。そして今度は、この場所で待っているだけではなく、ここから始まる毎日をちゃんと楽しんでいきたい。編みかけの続きを編んで、みんなと笑って、街へ出かけて…
それから――夕食前には、きっとまたレオンハルトが来る。
そう思っただけで、指先へ残っている気がする唇の感触を思い出してしまい、頬が熱くなった。
「……ミキ様?」
すかさずエミリアが反応する。
「何でもない!」
「今、副団長様のことを考えておられました?」
「考えてない!」
「まだ何も申し上げていないのですが」
「エミリア!」
部屋の中に笑い声が広がる。私は真っ赤になりながらも、結局一緒になって笑った。
帰ってきた。
私がこれから生きていく場所へ
大切な人たちが待っていてくれる、この場所へ
今度こそ私は、ここで自分の幸せも大切にしながら、生きていくのだ。




