42 全然、足りない
光の向こうへ足を踏み出した瞬間、身体がふわりと浮いた。上下も前後も分からなくなるような感覚に、反射的に繋いでいた手へ力を込める。すぐに握り返された。
「大丈夫です。離しません」
レオンハルトの声がすぐそばで聞こえる。
「うん」
今度は、その言葉を信じられた。白い光が視界を覆い、次の瞬間、足の裏に固い感触が戻ってくる。
「……着いた?」
目を開けると、そこは最初に足を踏み入れた、現実のアステリアの遺跡だった。崩れた石壁、苔に覆われた道、遠くに見える黒い森…ついさっきまでいた白い花畑も、美しかった古い街並みもない。アリアも、もういない。胸の奥が少しだけ痛んだ。それでも今は、寂しさだけではなくちゃんと見送ることができた。
「戻ったぞ!」
レイブン様の声が響いた。先に抜けていた騎士たちが次々と人数を確認している。ローグ様は最後まで魔法陣を維持し、全員がこちら側へ戻ったことを確認してからようやく手を下ろした。
「全員いるな?」
「確認します!」
騎士の一人が人数を数え始める。その横では、グレンジャー様が早くも仕事を始めていた。
「怪我をした者はこちらへ! 軽傷だと思っても勝手に判断しないでください!」
「グレンジャー様」
「ミキさんはそこで待っていてください。あなたは後で念入りに診ます」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かります」
強いなぁ…戦いが終わって一番強いのは、もしかしたらグレンジャー様かもしれない。思わず笑った時、足元が揺れた。
「わっ」
すぐに腰を支えられる。
レオンハルトだった。
「大丈夫ですか?」
「うん。今のは私じゃなくて地面」
「分かっています」
そう言いながら、腰に回した腕は離れない。白い鳥が上空を旋回した。
「急げ。島そのものは消えぬが、封印の影響で歪んでいた場所が元へ戻ろうとしている。しばらくは何が起きるか分からぬ」
「それをもっと早く言え!」
ローグ様の怒鳴り声に、白い鳥は涼しい顔をしている。
「今言った」
「そういう意味じゃない!」
レイブン様が笑った。
「エドワード、鳥相手に本気になるな」
「誰のせいでこうなってると思ってる!」
「鳥のせいではないだろう」
「お前は黙ってろ!」
ああ、戻ってきたんだ。そんなやり取りを聞きながら、急に実感した。終わったんだ、本当に…私たちは生きて帰ってきた。
*
海岸へ戻る頃には、空が夕暮れの色に染まり始めていた。来た時には不気味にしか見えなかった島の景色も、今は少し違って見える。黒く沈んでいた森の奥には夕陽が差し込み、古い石壁にも柔らかな色が落ちている。
アステリアは滅びた国だ。
ここで生きていた人たちが戻ってくるわけではない。
それでも、長い間この島を覆っていた重い何かが消えたことだけは、魔法に詳しくない私にも分かった。浜辺に着くと、白い鳥が私の前へ降りてきた。
「ここまでだ」
その言葉に足を止める。
「……もう行くの?」
「ああ」
分かっていた。さっき聞いたばかりだ。それでも、やっぱり寂しい。私は白い鳥の前にしゃがんだ。
「長かったね」
「何がだ」
「私を待ってた時間」
白い鳥は何も答えなかった。
「千年以上でしょう?」
「数えていない」
「絶対嘘」
「鳥は暦など気にせぬ」
「年齢を気にしてたくせに」
白い鳥が私を睨む。少し離れたところで、レイブン様が吹き出した。このやり取りも、もう最後なんだ。
そう思ったら、笑っているのに涙が出そうになった。
「ありがとう」
白い鳥が私を見る。
「私を日本へ連れて行ってくれて。ずっと見つけようとしてくれて。それから……戻ってきてからも、いっぱい助けてくれて」
「私は役目を果たしただけだ」
「それでも、ありがとう」
しばらく沈黙があった。やがて白い鳥は小さく翼を広げた。
「ミキ」
「うん」
「今度こそ、幸せになれ」
胸の奥が熱くなった。いつか聞いた言葉…
――今度こそ、守り人を、幸せに
あれはきっと、ずっと、この鳥が願っていたことだった。
「うん」
私は笑った。
「なるよ」
今度は迷わず言えた。
「ちゃんと幸せになる」
白い鳥は満足したように目を細めた。そして羽ばたく。白い翼が夕陽を受けて光る。一度、私たちの頭上を大きく旋回したあと、鳥は空へ向かって高く昇っていった。
「またね!」
思わず叫ぶ。返事はなかった。でも、白い翼が一度だけ大きく揺れたように見えた。
やがて、その姿は光の中へ溶けるように消えていった。
*
「さて」
ローグ様の声で、みんなが現実へ戻る。
「感傷に浸るのは船に乗ってからにしろ。島の魔力はまだ安定していない。急いで離れる」
「賛成だ」
レイブン様が頷く。騎士たちが船へ戻る準備を始め、グレンジャー様は負傷者を先に乗せるよう指示している。私も手伝おうと一歩踏み出したところで、後ろから襟首を掴まれた。
「え?」
振り返る。グレンジャー様だった。
「どこへ?」
「手伝おうかなって」
「却下です」
「でも私、歩けるし」
「あなたは今から診察です」
「船でじゃ駄目?」
「駄目です」
「元気だよ?」
「その台詞を言う患者ほど信用できません」
看護師としては耳が痛い。仕方なく簡単な診察を受けることになった。幸い、大きな怪我はなかった。魔力の消耗はかなりあるらしいけれど、休めば回復する範囲だと言われた。
「本当に?」
「本当です。ただし今日は絶対安静」
「絶対?」
「絶対です」
診察が終わる頃には、ほとんどの人が船へ戻っていた。
「先に乗っていてください。私は他の負傷者を見てきます」
「ありがとう、グレンジャー様」
「礼は無事に王都へ戻ってから聞きます」
そう言って走っていく背中を見送り、私は小さく息を吐いた。急に静かになった。波の音が聞こえる。夕陽が海へ沈みかけている。
「ミキ」
振り返る。
レオンハルトが立っていた。
「レオンハルト」
彼は何も言わなかった。ただ、こちらへ歩いてくる。
いつもなら何か言うのに、どうしたんだろうと思った次の瞬間、強く抱きしめられた。
「……え?」
腕が背中へ回る。思っていたより、ずっと強い。少し苦しいくらい…
「レオンハルト?」
返事がない。私の肩へ顔を埋めるようにして、ただ抱きしめている。
「どうしたの?」
それでも答えない。でも、背中に回された腕が僅かに震えていることに気づいた。その瞬間、胸が痛んだ。
そうだ。怖かったのは、私だけじゃない。この人もずっと私が消えた時、黒い影に呑み込まれた時、私がまた自分を犠牲にしようとしかけた時、どんな気持ちでいたんだろう。
「……怖かった?」
そっと聞く。しばらく返事はなかった。やがて肩口で、小さな声がした。
「はい」
驚いた。レオンハルトがこんなに素直に…
「怖かったです」
腕の力がさらに強くなる。
「何度も、あなたを失うと思った」
私は何も言えなかった。
「手を掴んでも消える。そばにいても守りきれない。目の前であなたが闇に呑まれた時は……」
言葉が途切れる。私はゆっくりと彼の背中へ腕を回した。
「ごめんね」
すると、すぐに身体が離れた。両肩を掴まれる。
「謝らないでください」
深い蒼の瞳が、真っ直ぐ私を見る。
「あなたが生きて帰ることを選んだのに、なぜ謝るのです」
「……うん」
「私はただ」
そこで言葉が止まる。何かを堪えるように、レオンハルトが目を閉じた。
「……足りない」
「え?」
「全然、足りない」
何が?そう聞こうとした。でも、その前にまた抱きしめられた。今度はさっきよりゆっくりと確かめるように…
「ここにいると分かっているのに」
低い声が耳元で聞こえる。
「抱きしめても、足りない」
胸が跳ねた。
「声を聞いても、顔を見ても……あなたが無事だと分かっても、全然足りない」
何も言えなくなった。ただ、心臓がうるさい。レオンハルトが少しだけ身体を離した。でも、腕は私の腰に回ったまま。近い…
「ミキ」
「……うん」
「触れても?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。でも、彼の視線が私の唇へ落ちたのを見て、すぐに分かった。
顔が熱くなる。今さら恋人なのに…もうキスだってしたことがあるのに…それでも、こんなふうに聞かれると緊張する。私は小さく頷いた。
「うん」
レオンハルトの手が頬に触れる。そのまま顔が近づいてきて、唇が重なった。優しいキスだった。触れるだけの確かめるようなキス。
すぐに離れる。深い蒼の瞳が、すぐ目の前にある。
「……レオンハルト?」
彼は私を見つめたまま、僅かに眉を寄せた。
「やはり足りません」
「え?」
今度は答える間もなかった。もう一度、唇が重なる。さっきとは違う。それでも乱暴ではなくてただ、離したくないという気持ちが、そのまま伝わってくるようなキスだった。背中に回された腕が私を引き寄せる。私は驚きながらも、彼の服を掴んだ。長い…なんて考える余裕もなくなってようやく唇が離れた時には、息の仕方を少し忘れていた。
「……っ」
何か言おうとして言葉が出ない。レオンハルトも息を整えている。それなのに、私を離そうとはしなかった。額が触れる。
「……まだ足りない」
低い声で言われて、心臓がまた跳ねる。
「え」
「あなたがここにいると、もっと確かめたい」
頬に触れていた手が、髪へ移る。指先が、あの髪飾りに触れた。深い蒼の石…この人がくれたもの。
私たちを何度も繋いでくれたもの。
「これが光っても、あなたの魔力を感じても、安心できなかった」
レオンハルトの声が少し掠れている。
「あなた自身に触れたかった」
胸がいっぱいになる。私は彼の胸元へ手を置いた。そこには、私が編んだお守りがある。
「これもあったでしょう?」
「ありました」
「役に立ったよね?」
「命を救われました」
「じゃあ――」
「それでも足りません」
即答だった。思わず目を見開く。レオンハルトは真剣だった。
「お守りではなく、あなたが必要です」
駄目だ。これは…ずるい。
「……そんなこと言う人だった?」
やっとそれだけ言うと、レオンハルトの口元が僅かに緩んだ。
「あなたのせいです」
「私?」
「はい」
「何で?」
「失いかけたので」
その言葉に、笑えなくなった。レオンハルトの指が私の頬をなぞる。
「もう、遠慮する気がなくなりました」
心臓が大きく鳴った。
「それ……結構怖いこと言ってない?」
「そうですか?」
「そうだよ」
「なら、慣れてください」
「慣れるの?」
「これから時間はあります」
あぁそうだ…時間がある。明日も、その次の日も、これから先も、私は生きて帰る。この人と一緒にそのことが急に現実味を持って胸へ落ちてきた。
涙が出そうになった。
「……ただいま」
私が言うと、レオンハルトの表情が止まった。少しの沈黙のあと、深い蒼の瞳が柔らかく細められる。
「おかえりなさい、ミキ」
今度は私から腕を伸ばした。レオンハルトの首に回す。
「もう一回」
言った瞬間、自分でも驚いた。でも、もういい。幸せを遠慮しないって、お姉ちゃんと約束したんだから…
レオンハルトも少し驚いたようだった。でも、すぐに笑った。
「喜んで」
三度目のキスは、どちらからともなく近づいた。
もう、無事を確かめるためだけじゃない。生きて帰ってきた。これからも一緒にいられる。そのことを喜ぶためのキスだった。
唇が離れても、私たちはしばらくそのまま額を寄せていた。
「……今度は?」
まだ少し息が整わないまま小さく聞くと、レオンハルトは私を見つめたまま、ほんの少し考えるような顔をした。もしかしたら、さすがに今度は満足したと言うのかもしれない。そんなことを思ったのに、返ってきたのは予想とは正反対の言葉だった。
「まだ足りません」
あまりにも真顔で言うものだから、思わず笑ってしまった。
「欲張りになったね」
「はい」
(そこは否定しないんだ)
レオンハルトの腕はまだ私の腰に回ったままだった。以前の彼なら、ここまでしただけで我に返ったように距離を取っていた気がする。それなのに今は、私が離れようとしない限り、自分から離すつもりはないらしい。
「あなたに関しては、もう遠慮しません」
さらりと言われて、また胸が跳ねた。
「それ、さっきも聞いたけど……結構すごいこと言ってるよ?」
「自覚はあります」
「あるんだ」
「はい。ですから、慣れてください」
真面目な顔でそんなことを言われても、慣れられる気がしない。今までだって、レオンハルトに見つめられるだけで落ち着かなくなることがあったのに。これからこの人が本当に遠慮しなくなったら、私の心臓は大丈夫なんだろうか。
でも――嫌じゃないしむしろ、嬉しい。ずっと私を守ろうとしてくれていた人が、今は自分の気持ちまで隠さずに見せてくれている。それが、たまらなく嬉しかった。
「じゃあ……続きは帰ってからね」
口にしてから、自分で固まった。
(あれ?今の言い方?ちょっと待って…ものすごく変な意味に聞こえなかった?)
慌てて顔を上げると、レオンハルトの深い蒼の瞳が僅かに見開かれていた。
「いや、今のは――」
「約束ですね」
「待って」
「聞きました」
「そういう意味じゃなくて!」
「では、どういう意味です?」
「それを私に説明させるの!?」
さっきまであんなに余裕がなさそうだった人が、いつの間にかいつもの落ち着いた顔に戻っている。いや、違う。よく見ると、口元がほんの少し笑っている。
「レオンハルト、もしかして楽しんでない?」
「何のことでしょう」
「絶対楽しんでるでしょう!」
「ミキが何を想像したのか、私には分かりませんので」
「もう!」
完全に遊ばれている。でも、こんなふうに私をからかうレオンハルトは珍しくて、怒るより先に笑ってしまった。
「とにかく! 私が言ったのは、帰ってからまたゆっくり一緒にいようって意味だからね」
「ええ。分かっています」
「……本当に?」
「もちろんです」
絶対分かっていてからかった。そう思ったけれど、もう追及するのはやめた。レオンハルトの胸元へ額を預けると、すぐに腕が背中へ回る。さっきまでの、失うことを恐れるような抱きしめ方とは少し違った。今度はもっと穏やかで、これからもこうして抱きしめられる時間があることを確かめるような抱擁だった。
「レオンハルト」
「はい」
「本当に帰ってきたんだね」
「はい」
「私たち、生きてるね」
「ええ」
その返事を聞きながら目を閉じる。
波の音が聞こえる。
潮の匂いがする。
彼の胸に耳を寄せれば、規則正しい心臓の音も聞こえた。全部、本物だし私も生きている。レオンハルトも生きている。そして、明日がある。その当たり前のことが、今は信じられないくらい幸せだった。
「これから時間はいっぱいあるんだよね」
私が言うと、頭の上から少し低い声が返ってきた。
「あります」
「編み物もできるし」
「はい」
「また街にも行ける」
「行きましょう」
「猫も見に行くって言ってたよね」
「覚えています」
「デートの続きも」
そこで、レオンハルトの腕に少しだけ力がこもった。
「それは最優先でお願いします」
思わず顔を上げる。
「世界を救った後の最優先がデート?」
「何か問題がありますか?」
真顔だった。
「……ないです」
笑いながら答えると、レオンハルトも僅かに目を細めた。戦うことだけが私の人生ではないと、前にこの人は言ってくれた。守り人である前に、ミキでしょう、と…あの時は嬉しかったけれど、どこかまだ実感がなかった。でも今なら分かる。世界を救った後にも人生は続く。大きな使命を終えたら何もなくなるのではなく、むしろそこから、私自身のために生きる時間が始まるのだ。
「楽しみだね」
「ええ」
「いっぱいあるよ、やりたいこと」
「全部付き合います」
「全部?」
「あなたが望むなら」
その言葉に、あの馬車の中で交わした会話を思い出した。
――いる?
――ずっと?
――あなたが望む限り
あの時の答えと同じだ。でも今は、その言葉が前よりずっと近く感じる。私は彼の胸元をそっと掴んだ。
「じゃあ、ずっと忙しいよ?」
「望むところです」
その返事が嬉しくて、また笑った。
*
「おーい!」
突然、遠くから聞き慣れた声が飛んできた。
「そろそろいいかー!」
身体が固まった。嫌な予感しかしない。
恐る恐る声の方を見ると、少し離れた場所にレイブンが立っていた。その後ろにはローグ様とグレンジャー様までいる。全員、こっちを見ている。
「……いつから?」
思わず聞くと、レイブン様がにやっと笑った。
「さてな」
「その顔、絶対かなり前からいたでしょう!」
「俺たちも好きで待ってたわけじゃないぞ。船を出したいんだ」
「だったら普通に呼んでよ!」
「呼びにくかったんだよ。なあ?」
同意を求められたローグ様が露骨に顔を逸らし、グレンジャー様はため息をついた。
「私は何度か声をかけようとしました」
「じゃあ、かけてよ!」
「レイブンが『今行ったら弟に斬られる』と」
「兄上」
それまで黙っていたレオンハルトの声が低くなる。
「お、やっと俺を見たな」
「後で話があります」
「怖い怖い」
まったく怖がっていない顔で、レイブンが笑う。恥ずかしさに耐えられなくなって、私はレオンハルトの腕から抜けようとした。ところが離れない。
「ちょっと、レオンハルト」
「はい」
「みんな見てるから」
「そうですね」
「そうですね、じゃなくて。離して」
「嫌です」
あまりにも普通に断られて、言葉を失った。
「……え?」
聞き間違いかと思って顔を上げると、レオンハルトはいたって真面目な顔をしている。
「まだ足りませんので」
耳元で低く囁かれ、せっかく少し落ち着いていた顔が一気に熱くなった。
「それ、今ここで言う!?」
「事実です」
「事実でも言わなくていいの!」
レイブン様の笑い声が遠くから聞こえる。
もう恥ずかしくて仕方がないのに、腰に回った腕を本気で振りほどこうとは思わなかった。たぶんレオンハルトも、それが分かっている。
「本当に変わったね」
小さく呟くと、彼が私を見る。
「嫌ですか?」
その聞き方だけは少し不安そうで、胸がきゅっとした。私は首を横に振る。
「ううん。嫌じゃない」
それどころか、こんなレオンハルトを知ることができたのが、嬉しい。真面目で、無口で、いつも私を守ることばかり考えていた人。自分の気持ちは後回しにして、私が無事ならそれでいいという顔をしていた人。
そんな彼が今、足りないと言う。もっとそばにいたいと、触れていたいと、遠慮しないと、ちゃんと自分の望みを口にしてくれる。もしかしたら変わったのは、私だけではないのかもしれない。
「でも、とりあえず船には乗ろう?」
「それはもちろん」
「じゃあ離して」
「それとこれとは別です」
「どうやって歩くのよ」
ようやくレオンハルトが笑った。腕は離れたけれど、代わりに私の手を取る。指が自然に絡んだ。もう人に見られていることを気にする様子もない。
「行きましょう」
「……うん」
私も、今度は手を離さなかった。レイブン様たちのところへ向かって並んで歩き始めると、沈みかけた夕陽が海を金色に染めていた。これから王都へ帰る。
待ってくれている人たちのところへ…
置いてきた編みかけの糸もある。
約束したデートの続きもある。
猫を見に行く約束だって忘れていない。
そして、その先にはまだ知らない明日がたくさんある。以前の私は、誰かのために生きることばかり考えていた。幸せは、自分以外の人が無事ならそれでいいと思っていた。でも今は違う。私も、その「幸せになる人」の中に入っていい。
隣を見る。レオンハルトと目が合った。
「何ですか?」
「なんでもない」
「そうですか」
そう言いながら、繋いだ手を少し強く握ってくる。
私も同じように握り返した。その温もりを感じながら歩いていると、さっき言われた言葉を思い出す。
――全然、足りない
思い出しただけで、また頬が熱くなった。でも、たぶんそれでいい。これから先は長いのだから…足りないなら、少しずつ満たしていけばいい。今日だけで全部を確かめなくても、明日も、その次の日も、一緒にいられる。私はもう一度、繋いだ手へ力を込めた。
今度の人生は、誰かを守るためだけのものじゃない。
好きな人と笑って、好きなことをして、時には甘えて、守ったり守られたりしながら生きていく。
そんな人生を、私は自分で選んだ。そしてその最初の一歩を、私はレオンハルトと手を繋いで歩いていた。




