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40 帰る場所を選ぶ



差し出された手を取った瞬間、暗闇の中に広がっていた白と蒼の光が一気に強くなった。


眩しさに思わず目を閉じる。けれど、怖くはなかった。握った手の温もりが、そこにレオンハルトがいることを教えてくれている。


「ミキ」


今度は、はっきりと声が聞こえた。ゆっくり目を開けると、目の前にレオンハルトが立っていた。


「……いた」


自分でも変な言葉だと思った。でも、それしか出てこなかった。


「はい。います」

「よかった」


笑ったつもりなのに、涙が出た。レオンハルトは何も言わず、空いている方の手で私の頬に触れ、親指で涙を拭ってくれた。


「泣いていたのですか」

「ちょっとね」

「何を見たのです?」


答えるまでに少し時間がかかった。


「日本」


それだけで、レオンハルトには伝わったらしい。


「……ご家族を?」

「うん」

「ご主人も?」


胸が少しだけ痛んだ。でも、もうその痛みから目を逸らす必要はないと思った。


「会えたよ。元気だった頃のあの人に」


レオンハルトの手が一瞬止まる。私はその手に自分の手を重ねた。


「会いたかったんだって、改めて分かった。もう一回会いたいって、ずっと心のどこかで思ってたんだと思う」


レオンハルトは黙って聞いている。その顔には嫉妬も、不安もなかった。ただ、私の言葉を待ってくれていた。


「でもね、帰らなかった」

「……はい」

「帰れなかったんじゃないよ。帰らなかったの」


私はちゃんと伝えたかった。

黒い影に邪魔されたからでも、レオンハルトに引き止められたからでもない。私自身が選んだのだと…


「あの人と生きた人生は大切だし、今でも大好き。でも、それと同じくらい、今の人生も大切になった。だから私は、自分でこっちに帰るって決めたの」


レオンハルトの深い蒼の瞳が揺れた。


「……私がいるからですか」

「それ聞く?」

「聞きたいです」


少しだけ困った。こんなところで何を言わせるんだろう。でも、もう隠す理由もない。


「いるからだよ。あなたがいるから帰りたい。みんながいるから帰りたい。それに、まだやりたいこともあるし」

「編み物ですか?」

「それもある」


思わず笑った。


「あなたに編むもの、まだ決めてもないしね」

「では、帰らなければ困ります」

「でしょう?」

「非常に困ります」

「そこまで?」

「何でもいいと言ったでしょう。ずっと待っています」


胸の奥が、きゅっと温かくなる。こんな場所で、こんな状況なのに、それでもこの人と話していると、ちゃんと帰れるような気がした。


「じゃあ、帰ろう」

「はい」


レオンハルトが手を差し出した。今度は迷わず、その手を握る。すると私たちの足元から白と蒼の光が広がり、暗闇の中に一本の道が現れた。


私たちは並んで、その道を歩き始めた。


*


歩いているうちに、周囲の闇が少しずつ薄くなっていった。けれど、完全には消えない。むしろ光から逃げるように集まり、私たちの後ろで大きな塊になっていく。


『なぜだ。なぜ、その世界を選ばない』


黒い影の声が聞こえた。私は立ち止まらずに答えた。


「選ばなかったんじゃないよ。日本も私の世界だった。私が生きて、家族を持って、泣いて笑って、ちゃんと幸せだった場所。だから、あの世界を否定するつもりはない」

『ならば戻れ』

「それと、今どこで生きたいかは別でしょう?」


黒い影が黙った。


「過去を大切にすることと、過去に戻ることは同じじゃないよ」


自分で言いながら、不思議な気持ちになった。少し前の私なら、こんなふうには思えなかったかもしれない。夫を忘れてはいけない。幸せになってはいけない。誰かを好きになったら、あの人を裏切ることになるんじゃないか。心のどこかに、ずっとそんな思いがあった。でも、違った。大切だった人を忘れないまま、新しい幸せを選んでもいい。私は、そうしたい。


「私は今、生きたい場所へ帰る」


隣にいるレオンハルトが何も言わず私の手を強く握った瞬間、光の道が大きく広がった。


*


次に目を開けた時、最初に聞こえたのは怒鳴り声だった。


「ミキさん!」

「うわっ!」


目の前にグレンジャー様の顔があった。


「近い!」

「意識は!?」

「あります!」

「吐き気は!?」

「ないです!」

「目眩は?」

「今のところない!」

「魔力の感覚は?」

「それは分かんない!」

「なら後で診ます!」


すごい勢いだった。思わず身体を起こそうとすると、すぐ横から腕を回される。


「急に起きないでください」


レオンハルトだった。


「……あれ?」


周囲を見回す。


黒く染まった花畑、アリア、白い鳥、ローグ様、レイブン様、騎士たち…戻ってきた。


「私たち……」

「ほんの数秒だった」


ローグ様が答えた。


「黒い影がお前たちを呑み込んだ直後、二人の姿が消えた。だがすぐに光が溢れて、今戻ってきた」

「数秒……?」


私には、もっと長い時間だったように感じた。レオンハルトを見ると、彼も同じことを思っているらしい。


「ミキ」


アリアが近づいてきた。


「選んだのね」


私は頷いた。


「うん」

「何を?」

「今の私が帰りたい場所」


アリアの目が優しく細められた。


「そう」


それだけだった。でも、それで十分だった。

白い鳥が私たちの前へ降りる。


「ならば、道はできた」

「道?」

「奴を帰す道だ」


その言葉に全員の表情が変わった。ローグ様がすぐに白い鳥を見る。


「詳しく説明しろ」

「黒い影はこの世界の存在ではない。故に、自らこの世界を選ぶことができない。ミアの魂を器にしようとしたのは、そのためだ」

「それは聞いた。だが、帰すとはどういう意味だ?」

「同じことを逆にする」


白い鳥が私を見る。


「ミアが奴の世界へ道を繋ぐ」

「ちょっと待って」


嫌な予感がした。


「それって、私も向こうへ行くってことじゃないよね?」

「行かぬ」

「本当?」

「お前は先ほど、自分の帰る場所を選んだ。その選択はすでに魂に刻まれている。お前は奴の世界への道を開く。だが、そこへ帰るのは奴だけだ」


少しだけ安心した。でも、まだ問題がある。


「どうやって?」

「奴に触れる」

「……嫌なんだけど」


心から言った。レイブンが吹き出す。


「そりゃそうだ」

「笑い事じゃないよ!」

「いや、守り人様でもそこは普通なんだなと思ってな」

「普通です!」


レオンハルトだけは笑っていなかった。


「他の方法は?」

「ない」


白い鳥が即答する。レオンハルトの眉間に皺が寄った。


「なら私も行きます」

「境界を選べるのはミアだけだ。お前にはできぬ」

「なら、せめて――」

「一人では行かないよ」


私が言うと、レオンハルトがこちらを見る。


「触れるのは私がやる。それは多分、私にしかできない。でも、そこまで一緒に来て」


少しだけ笑って手を差し出す。


「手、離さないでね」


レオンハルトはしばらく私を見つめていた。納得していないことは、顔を見れば分かる。それでも以前のように、私の意思を無視して「駄目です」とは言わなかった。


「……分かりました。ただし、少しでも危険だと判断したら、私はあなたを連れて逃げます」

「うん」

「たとえ世界を救う途中でもです」

「それは困るかな」

「知りません」

「レオンハルト」

「譲りません」


真顔だった。仕方なく笑う。


「分かった。それでいいよ」


するとレオンハルトも、ほんの少しだけ笑った。


*


作戦は驚くほど単純だった。単純だからといって、簡単ではない。


ローグ様と魔法師たちが黒い影の動きを封じ、レイブンたち騎士が私たちのために道を作る。その間に私とレオンハルトが影へ近づき、私が直接触れて境界を開く。


ローグ様は全員を見回しながら、もう一度手順を確認した。


「目的は黒い影を倒すことじゃない。元いた世界へ押し戻すことだ。守り人が接触するまで絶対に無理をするな。特にレイブン、お前だ」


「なぜ俺だけ名指しなんだ」

「自覚がないなら余計に質が悪い」


「ミキさん」


グレンジャー様が私の腕を掴む。


「これを飲んでください」


差し出された小さな瓶を見て、嫌な記憶が蘇った。


「……苦いやつ?」

「ものすごく」

「嫌だ」

「飲んでください」

「今?」

「今です」


有無を言わせない顔だった。仕方なく蓋を開け、一気に飲む。


「……まずっ!」

「効くでしょう?」

「味と効果は別問題!」

「文句を言えるなら大丈夫ですね」


グレンジャー様は満足そうだった。その横では、レイブンがレオンハルトの肩を叩いている。


「弟」

「何ですか」

「分かってるな」

「何をです?」

「絶対連れて帰れ」


レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから私を見た。


「言われなくても」


レイブンが笑った。


「ならいい」


その短いやり取りを見ていると、不思議と怖さが少し薄れた。私は一人じゃない。何度もそう思った。

でも今は、言い聞かせているのではなく、本当にそう感じていた。


*


黒い影は、私たちが何をしようとしているのか気づいていた。


『させぬ』


低い声が響くと同時に、黒く染まった地面から無数の腕が伸び上がった。


「来るぞ!」


レイブンの声に騎士たちが一斉に動く。

白い光を宿した剣が次々と黒い腕を斬り落とし、その後ろからローグ様たちの魔法が飛んだ。もう先ほどのようには再生しない。私が繋いだ力が、みんなの武器に宿っている。


「ミキ!」

「うん!」


レオンハルトと走る。彼がほんの少しだけ前、私はそのすぐ隣。完全に守られるのではなく、手を繋いで並ぶように進んでいく。横から伸びてきた黒い腕をレオンハルトが斬り、反対側から襲ってきたものをレイブンが叩き落とす。


「行け!」

「ありがとう!」


振り返らずに叫び、さらに前へ進む。黒い影が近づくにつれて、身体の芯まで凍りそうな冷気が強くなった。


怖い。


遠くから見ている時とはまるで違う。


赤い目


歪んだ身体


その中心にある、底の見えない闇


それでも足を止めなかった。


『ミア』


声が頭の中へ響く。


『まだ間に合う。お前が私を選べばよい』

「選ばない」


今度は迷わず即答できた。


『力をやろう』

「いらない」

『失った者を返してやる』


胸が痛んだ。ほんの少し前なら、その言葉に足を止めていたかもしれない。けれど今は違う。


「それもいらない」

『夫に会いたくないのか』

「会いたいよ」


正直に答えた。


「会いたい。でも、それとこれとは別」

『理解できぬ』

「でしょうね」


私は少しだけ笑った。


「あなたには、きっと分からない」


その瞬間、黒い腕が頭上から振り下ろされた。レオンハルトが私の手を離さないまま身体を捻り、片手の剣で受け止める。


「ミキ、行って!」

「一緒に!」

「もちろんです!」


もう少し…あと少しで届く。

手を伸ばそうとした瞬間、黒い影の胸元から細長い闇が飛び出した。槍のように鋭く尖ったそれが、真っ直ぐ私の胸を狙っている。レオンハルトが反射的に私の前へ出ようとした。


「駄目!」


今度は私が彼の腕を引いた。二人で身体を横へ投げ出す。黒い槍がすぐ横を通り過ぎ、地面へ深く突き刺さった。転がった勢いで肩を強く打ったけれど、痛みを確かめるより先にレオンハルトが私の顔を覗き込む。


「ミキ、怪我は?」

「大丈夫!」


その瞬間、彼の眉間に思いきり皺が寄った。


「あ、今は本当に大丈夫だから!」

「後でグレンジャーに診せます」

「はいはい」

「返事は一回で」

「はい」


こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。レオンハルトが先に立ち、私へ手を差し出す。その手を掴んで起き上がると、彼はそのまま指を絡めた。


「行けますか?」

「うん」

「では」


二人で再び黒い影へ向き直る。もう、あと数歩だった。


『来るな』


黒い影の声が聞こえた。今までとは違う。怒りの奥に、はっきりと恐怖が混じっている。


『来るな!』


黒い影が後退する。私はその姿を見て、ふと気づいた。


「……怖いんだ」

『黙れ!』

「帰りたくないんだね」


黒い影の動きが、一瞬止まった。その時、初めて考えた。この存在も、最初から誰かを苦しめるためだけに生まれたわけではなかったのかもしれない。滅びかけた世界から逃げてきた。


生きたかった


消えたくなかった


だから別の世界へ来た


そして、そのためにこの世界の魔力や命を奪い、人の弱さにつけ込み、いくつもの人生を壊した。始まりがどんな理由だったとしても、それでしてきたことが消えるわけではない。それでも…


「あなたも、生きたかったんだね」


黒い影が動きを止めた。答えはない。でも、赤い目が僅かに揺れたように見えた。私はレオンハルトの手を握ったまま、もう片方の手を伸ばす。


「でも、だからって誰かの世界を奪っていい理由にはならない」


指先が闇へ触れた。…冷たい。凍りつきそうなほど冷たい。それでも手を引かなかった。


「帰って」


白い光が指先から溢れ出す。黒い影が苦しそうに身体を揺らし、私の頭の中へ直接叫び声を叩きつけてきた。


『やめろ!』


その声を聞きながら目を閉じる。


境界


世界と世界の間


日本ではない


今、私が生きている世界でもない


もっと遠いところ


深い闇の向こうに、ほんの僅かに残る光を探す。

すると、不思議な感覚があった。見たこともないはずなのに、そこがどこなのか分かる。


「……見つけた」


黒い影が激しく暴れた。


『やめろ! そこは――』


目を開ける。


「あなたの世界でしょう?」


黒い影は、初めて何も答えなかった。私はその沈黙を答えとして受け取り、光の糸を遠い世界へ向かって伸ばした。


*


白い光が弾けるように広がり、黒い影の胸元に一本の亀裂が走った。それは今まで現れていた黒い穴とは違っていた。亀裂の向こうに、景色がある。


色を失った空


ひび割れた大地


形を留めることさえ難しいほど崩れた建物


生き物の気配はほとんどなく、わずかに残された光さえ消えかけている。滅びかけた世界だった。


「これが……」


思わず言葉を失う。こんな場所から逃げてきたのか。

胸が痛んだ。黒い影の身体が震えている。


『嫌だ』


初めて聞く、小さな声だった。


『戻りたくない』


その声を聞いた瞬間、伸ばしていた手から力が抜けそうになった。可哀想だと思ってしまった。もし私が同じ立場だったら…自分の世界が滅びようとしていて、大切なものを全部失って、それでも生きたいと思ったら…私だって、逃げたいと思うかもしれない。その迷いを感じ取ったように、黒い影の赤い目がこちらを向いた。


『ミア』


その声は、もう脅すようなものではなかった。


『私はただ、生きたかった』


胸が締めつけられる。けれどその時、握っていた手に力がこもった。


「ミキ」


レオンハルトが名前を呼ぶ。何かを命令するわけでも、決断を急かすわけでもない。ただ、ここにいると伝えるように…私はその手の温もりを感じながら、もう一度黒い影を見た。


「……うん。分かるよ」


嘘ではなかった。


「生きたいって思うことは、悪いことじゃない。私だって生きたい。お姉ちゃんだって生きたかった。エレノアだって、きっとそうだった」


アリアが静かに私を見る。


「でも、あなたはそのために、他の人の生きたいって気持ちを奪った」


黒い影は何も言わない。


「あなたを救う方法があるなら、本当は探してあげたい。でも、今の私には分からない。だからって、この世界をあなたに渡すこともできない」


『ならば私は滅びろというのか』


その問いに、すぐには答えられなかった。私には分からない。向こうの世界へ戻れば、この存在がどうなるのか。消えるのか、まだ生きられるのか、それを知る方法もない。だから、分からないことを分かったふりはしたくなかった。


「……分からない」


正直に答えた。


「でも、あなたの命を守るために、誰か別の人を犠牲にすることは選べない」


黒い影の身体が大きく揺れた。その瞬間、周囲から一斉に闇が噴き出す。


『嫌だ!』


巨大な腕が私へ伸びてきた。

けれど、今度は私とレオンハルトだけではなかった。

横からレイブンの剣が入り、黒い腕を弾き飛ばす。続いて騎士たちの白く輝く刃が闇を切り裂き、ローグ様の魔法が黒い影の足元を拘束した。


「ミキ!」


ローグ様の声が響く。


「迷うのは後だ! 今は道を維持しろ!」

「はい!」


私は境界へ意識を戻した。白い光が再び強くなる。


レオンハルト


レイブン様


ローグ様


グレンジャー様


騎士たち


魔法師たち


みんなの力が、私一人へ集まっているのではない。

隣の誰かへ繋がり、そのまた隣へ繋がり、まるで大きな一枚の編み地のように広がっている。一ヶ所だけに負担をかけない。一人がすべてを背負わない。それが、私たちの力だった。


「今だ!」


ローグ様が叫ぶ。


私は黒い影へ向けて両手を伸ばした。


「帰って!」


境界が大きく開く。向こう側から強い力が生まれ、黒い影の身体を引き始めた。


『嫌だ!』


黒い指が地面へ食い込み、必死にこちらの世界へ留まろうとする。黒く染まった花畑に深い爪痕が残った。


『私は戻らぬ! あの世界には何もない!』


その叫びに胸が痛む。でも、手は下ろさなかった。


「ここも、あなたの世界じゃない」

『ミアァァァ!』


黒い影が私の名を叫ぶ。その時、柔らかな手が私の手に重なった。アリアだった。


「お姉ちゃん」


彼女は黒い影を見つめていた。その表情には怒りも憎しみもなかった。ただ、長い時間を生きた人のような深い悲しみがあった。


「もう、終わりにしましょう」

『アリア……』

「あなたも、私も、長くここに留まりすぎたわ」


アリアの白い光が私たちの光へ重なった。


「千年以上よ。もう十分でしょう?」


黒い影の赤い目が揺れる。一瞬だけ、そこに人のような感情が見えた気がした。


怒りでも憎しみでもなくただ、どうしようもないほどの孤独。


でも次の瞬間、境界から伸びた光が黒い影を包み込んだ。


『アリア――!』


最後に影が呼んだのは、私ではなかった。


アリアだった。彼女は目を閉じる。


「さようなら」


黒い身体が光の向こうへ引き込まれていく。


長い腕も赤い目も最後までこちらへ伸ばされていた指も少しずつ境界の向こうへ消えていった。やがて最後の闇が消えた瞬間、白い光が静かに閉じる。轟音もなかった。爆発もなかった。ただ、長い長い時間をかけて閉じられなかった扉が、ようやく元の場所へ戻ったように…


境界は静かに消えた。


*


しばらく、誰も声を出さなかった。


風が吹いた…黒く染まっていた花びらが揺れる。

すると、その一枚から黒い色が抜け落ちた。白い花びら、次の花もその隣も…少しずつ、白さを取り戻していく。


「……終わった?」


自分の声が思ったより小さかった。白い鳥がゆっくりと空から降りてきた。花の上へ立ち、しばらく境界があった場所を見つめてから、静かに頷く。


「ああ。奴の気配は、この世界から消えた」


その言葉を聞いた途端、身体から一気に力が抜けた。

膝が崩れそうになる。


「ミキ!」


倒れる前にレオンハルトの腕が腰を支えた。


「大丈夫」


反射的にそう言ってから、しまったと思った。

案の定、ものすごい顔で見られる。


「あ」

「その言葉は信用しないと言ったでしょう」

「でも今回は本当に――」

「ベルン殿!」

「はいはい、今行きます!」

「ちょっと待って、呼ぶの早くない?」


グレンジャー様がすぐに駆け寄ってきて、私の返事も待たず手首を取った。


「脈は……少し速いですね。目眩は?」

「ちょっとだけ」

「ほら」


レオンハルトが低い声で言う。


「でも倒れるほどじゃないよ」

「それを判断するのは私です」


今度はグレンジャー様に怒られた。


「……はい」


素直に返事をすると、近くにいたレイブンが吹き出した。


「守り人様も医者には勝てないか」

「レイブン様、笑ってるけど、さっき吹っ飛ばされてたでしょう? あなたも診てもらった方がいいんじゃない?」


笑っていたレイブンの顔が固まった。


「俺は平気だ」

「グレンジャー様」

「後で診ます」

「おい!」


今度は私が笑った。ローグ様まで呆れたように息を吐いている。ついさっきまで世界がどうなるかという戦いをしていたのに、もういつものみんなに戻っている。それが、どうしようもなく嬉しかった。


終わった。本当に終わったんだ。

そう思った時だった。


「ミア」


アリアの声がした。振り返る。少し離れた場所に、アリアが立っていた。穏やかに笑っている。


「お姉ちゃん……?」


何かがおかしい。最初は分からなかった。

でも、白い花びらが風に舞い、その一枚がアリアの身体を通り抜けた瞬間、気づいた。彼女の向こう側が見えている。


「……え?」


胸の奥が冷たくなった。


「お姉ちゃん?」


もう一度呼ぶ。アリアは何も答えず、ただ優しく笑っている。その足元から、小さな光が零れていた。


白い光…


それは花びらのようにふわりと舞い上がり、空へ消えていく。


「待って」


嫌な予感がした。さっきまで動かなかったはずの足が、勝手に前へ出る。


「待って、お姉ちゃん」


アリアの身体が、少しずつ透けていく。


「なんで……?」


分かっている。本当は、もう分かっている。

黒い影が消えた。アステリアを縛っていたものがなくなった。なら、千年以上、その封印を維持するためにここへ残っていたアリアは…?


「嫌だ」


口から、子どものような声が出た。アリアの顔が少しだけ歪む。


「ミア」

「嫌だよ」


やっと会えたのに


思い出したばかりなのに


お姉ちゃんだって分かったばかりなのに


千年以上も待っていてくれた人と、まだ何も話せていない。


「一緒に帰るって言ったじゃん」


声が震えた。


「私、言ったよね? お姉ちゃんも一緒に帰ろうって。お姉ちゃんも、うんって言ったじゃん」

「ええ」

「だったら……」


アリアは泣きそうな顔で、それでも笑った。


「帰るのよ」

「え?」

「私も、やっと帰れるの」


その言葉の意味が、すぐには分からなかった。私の後ろで、白い鳥が静かに翼を閉じる。アリアは自分の身体から零れていく光を見つめ、それからもう一度私を見た。


「ミア。私は千年以上、ここに残っていた。あなたを待つために。そして、あれをこの世界へ出さないために」

「でも……」

「もう、その役目は終わったの」


胸が苦しい。


「じゃあ、どこに帰るの?」


尋ねると、アリアは少しだけ考えるように空を見上げた。


「分からないわ」

「分からないの?」

「だって、死んだ後のことなんて、守り人にも分からないもの」


困ったように笑う。そんな笑い方まで記憶の中のお姉ちゃんと同じだった。


「もしかしたら、どこか別の世界に生まれるかもしれない。もしかしたら、ずっと先にまたこの世界へ戻ってくるかもしれない。それとも、本当に何もなくなるのかもしれない」

「そんな……」

「でもね」


アリアが手を伸ばす。透け始めた手が、私の頬へ触れた。ちゃんと温かかった。


「今度は、誰かのために残るんじゃない」


私は息を呑んだ。


「誰かを守るためでもない。罪を償うためでもない。世界を支えるためでもない」


アリアの目から、涙が零れた。


「私は私のために、ここを離れるの」


その言葉を聞いた瞬間、何も言えなくなった。

止めたい。行かないでほしい。せっかく会えたのだから、一緒に帰りたい。王都へ連れて帰って美味しいものを食べていっぱい話をして私が日本でどんなふうに生きたのかも聞いてほしい。レオンハルトのことだって、編み物のことだって、話したいことは、いくらでもある。でも、それを理由にアリアをここへ引き留めたら私はまた、大切な人に自分のために残ってほしいと願うことになる。


千年以上、誰かのために残り続けた姉にもう一度…


「……ずるい」


涙が止まらなかった。


「お姉ちゃんだけ、先に帰るなんて」

「ごめんなさい」

「謝らないでよ。余計泣くから」

「そうね」


アリアも泣きながら笑った。私は一歩近づいた。


「抱きしめてもいい?」

「もちろん」


腕を伸ばす。今度は、ちゃんと触れた。アリアの身体を抱きしめる。懐かしい白い花の香りがした。記憶の中と同じ…幼いミアだった私が、何度もこうして抱きついた人…


「お姉ちゃん」

「なあに?」

「会えてよかった」


腕の中の身体が震えた。


「……私もよ」

「思い出せてよかった」

「ええ」

「待っててくれて、ありがとう」


アリアの腕が私の背中へ回る。


「おかえり、ミア」


その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。でも今度は泣きながら笑えた。


「ただいま、お姉ちゃん」


千年以上、言えなかった言葉だった。

私たちは、白い花の中でしばらく抱き合っていた。

やがてアリアの身体から、また一つ、白い光が空へ舞い上がった。別れの時間が近づいている。それでも今度は、目を逸らさなかった。だってこれは、誰かを失うための別れじゃない。


千年以上どこにも行けなかった姉が、ようやく自分のために帰るための別れなのだから。






あと6話で完結予定です

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