37 受け継がれた罪と願い
足元に広がっていた白い花が、一斉に黒く染まった。
ただ色が変わっただけではない。花びらはみるみるうちに萎れ、そこから滲み出した黒いものが、地面を這うように広がっていく。白い花畑を満たしていた懐かしい香りも消え、代わりに鼻をついたのは、雨の前のような湿った匂いと何かが焦げたような臭いだった。
「ミキ、下がって」
レオンハルトが剣を抜き、私を庇うように一歩前へ出た。反射的にその服を掴みそうになったけれど、途中で手を止める。
守ってもらう。
でも、彼の後ろに隠れているだけにはならない。
私はレオンハルトの隣へ一歩進んだ。
「後ろには行かないよ。でも、一人で前に出たりもしない。ここにいる」
「ミキ……」
レオンハルトは何か言いたそうに私を見たけれど、私が動くつもりがないと分かったのだろう。やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……分かりました。ただし、私から離れないでください」
「うん。それなら約束できる」
そんな私たちのやり取りを聞いていたアリアが、ほんの少し笑った。
「本当に変わったのね」
「だから、それ何回目?」
思わず返すと、アリアの表情が一瞬だけ柔らかくなる。けれど、その穏やかな時間は長く続かなかった。
空に走った黒い亀裂がさらに広がり、周囲の景色が大きく歪んだ。昔のアステリアを映していた白い建物が黒く滲み、青かった空まで少しずつ闇に呑まれていく。
『変わった、か』
低い声が響いた。耳から聞こえるというより、頭の中へ直接流れ込んでくるような声だった。
『何も変わってはいない。お前は同じだ、ミア』
「違う」
『姉を救うために魂を差し出し、別の世界では夫のため、子のために己を削った。今もまた、その男を守るためなら自らを差し出すだろう』
心臓を掴まれたような気がした。すぐに否定できなかった。黒い影の言葉が、まったくの嘘ではなかったからだ。もし今、レオンハルトの命と引き換えに自分の命を差し出せと言われたら…私はどうするだろう。
答えが出ない。
その一瞬の迷いを、黒い影は見逃さなかった。
『ほら。同じだ』
「黙れ」
隣から低い声が響いた。レオンハルトだった。
剣を構えたまま、亀裂の向こうを睨んでいる。
『人間。お前には関係のない話だ』
「あります。彼女が自分を犠牲にしようとするなら、私は止めます。そして、私が同じことをしようとすれば、彼女も止めるでしょう」
その言葉に、昨夜交わした約束を思い出した。
――二人で帰るの
そうだ。自分だけが相手を守ればいいんじゃない。
相手にも、自分を守らせてあげなければいけない。
一人で相手の人生まで背負おうとするのではなく、お互いに守り、守られることを受け入れる。それが、一緒に生きるということなのかもしれない。
私はレオンハルトの手に自分の手を重ねた。
「うん、止める。絶対に…だから、あなたも勝手に死なないでね」
「もちろんです」
「約束」
「約束します」
髪飾りが柔らかく光り、レオンハルトが持つお守りもそれに応えるように淡い光を放った。
『くだらぬ』
黒い影の声が低く響く。けれど、アリアは静かに首を横へ振った。
「いいえ。あなたには、最後まで理解できなかったものよ。だからあなたは、千年以上かけても守り人を手に入れられなかった」
黒い亀裂の動きが、一瞬止まった。
『アリア』
初めて黒い影が姉の名前を呼んだ。その声に含まれていたものは、はっきりとした怒りだった。
*
「お姉ちゃん……あれは、お姉ちゃんのことも知ってるの?」
「もちろんよ。私たちは、千年以上ここで向き合ってきたのだから」
驚いてアリアを見ると、彼女は亀裂を見つめたまま静かに続けた。
「私がここに残った理由を、まだ話していなかったわね。あなたが境界へ飛び込んだ後、私はどうしてもあなたを取り戻したかった。でも、あなたの魂はもうこの世界にはなかった。あの子が境界の外へ逃がしてくれていたから」
アリアが白い鳥へ目を向ける。白い鳥は何も言わなかった。
「私は最初、それを知らなかった。あなたが黒い影に喰われたと思っていたの。だから、あれを消そうとした。でも、できなかった」
「守り人でも?」
「ええ。あれはすでに、この世界の一部へ根を下ろしていた。無理に消せば、境界そのものが壊れるところまで来ていたの」
もし私が同じ立場だったらどうしただろう。
レオンハルトが目の前で消え、死んだのか、生きているのかさえ分からないまま、その原因となった存在だけが残っている。
きっと、私も何としてでも消そうとした。
「だから私は選んだの。倒せないなら、ここに閉じ込めようと」
アリアは黒く染まった花へ視線を落とした。
「アステリアごと?」
「そう」
「じゃあ……アステリアが滅びたのは……」
「私がこの地を封じたからよ」
静かな声だった。
けれど、その奥には千年以上抱えてきた痛みが滲んでいた。
「国を守ることはできなかった。できる限り多くの人を逃がしたけれど、全員ではなかった。それでも、あれを外へ出すわけにはいかなかった。そして封印には、守り人の魂が必要だった」
そこでようやく、私は言葉の意味を理解した。
「じゃあ、お姉ちゃんは……」
今、目の前にいるアリアは、千年以上生き続けた人間ではない。あの日、守り人として命を終え、その魂だけでこの場所を守り続けている。
その事実を理解した途端、やっと会えた喜びとは正反対の感情が込み上げてきた。
「……嫌だ」
思わず手を伸ばすと、アリアはその手を取ってくれた。
温かい。
ちゃんと触れられる。
だからこそ、余計に受け入れられなかった。
「やっと会えたのに。千年以上待って、やっと会えたのに……またいなくなるの?」
アリアは答えなかった。その沈黙だけで十分だった。
涙が滲む。
「私、お姉ちゃんを助けたつもりだった。あの時、私が代わりに行けば、お姉ちゃんは生きられると思ったのに……全然、助けられてなかったんだね」
「違うわ」
アリアの手が頬へ触れた。
「それを言うなら、私も同じよ。あなたを守るつもりで何も話さなかった。そのせいで、あなたは一人で決めてしまった。私たちはきっと、昔から似た者姉妹だったのね」
涙の向こうで、アリアが笑った。私も少しだけ笑う。
「ほんとだね」
「だから、今度は同じ間違いをしないで。一人で決めないで。あなた一人で世界を救おうとしないで」
アリアの視線がレオンハルトへ向く。
「あなたには今、手を離さないと言ってくれる人がいるのでしょう?」
私も隣を見る。
レオンハルトは何も言わず、ただ私の手を握っている。
「うん。いるよ」
今度は迷わず答えられた。
*
『美しい話だ』
黒い影の声が、私たちの間へ割り込んだ。
『だが、忘れている。お前たち人間が、私をここから出したのだ』
地面を覆っていた黒いものがゆっくりと立ち上がり、煙のように揺らぎながら人の形を作っていく。顔はないはずなのに、なぜか目が合ったような感覚があった。
『私は千年、待った』
影の腕のようなものが伸び、その先に別の景色が浮かび上がった。
見知らぬ男が立っている。
古い時代の衣装をまとい、その手には一つの黒い石が握られていた。
それを見た瞬間、息を呑んだ。
「これ……セドリックが持っていたものと同じ……」
ローグ様たちが回収した、あの黒い石。
アリアの表情が険しくなった。
「ノクス……」
「え?」
もう一度、男の顔を見る。
どこかセドリックに似ていた。
「まさか……」
「ノクス家の始祖よ」
アリアの声には、苦いものが混じっていた。
「アステリアが封じられた後、外の世界では守り人についての記録がほとんど失われた。でも一部の人間は、ここに強大な力が眠っていることだけを知っていた。その男も、その一人だった」
「それで……その力を取りに来た?」
「ええ、最初は国を守るためだと言っていた。人々を救うために力が必要なのだと。でも、少しずつ考えが変わっていった」
『変えたのは私だ』
黒い影が楽しそうに言った。
ぞっとする。
「操ったの?」
『囁いただけだ。力を欲しいか、と』
記憶の中で、男が黒い石を握りしめた。
その瞬間、石の中へ細い影が滑り込んでいく。
「……ノクス家は、そこからずっと?」
アリアが頷いた。
「完全に支配されたわけではない。それが、かえって厄介だったの。彼らは自分たちの意思で選んでいると思っていた。守り人の力を管理することが世界のためだと、本気で信じるようになっていった」
セドリックの言葉が蘇る。
守り人の力は、一人の意思に任せるには大きすぎる。
だからノクス家が管理すべきだ。
あれは、彼一人が突然考えたことではなかった。
「ずっと……受け継がれてたんだ」
「ええ。黒い石と一緒に、考え方までね」
そしてノクス家は、七百年前にも守り人へ近づいた。
*
景色が変わった。
そこに現れた女性を見て、すぐに分かった。
「エレノア……」
七百年前の守り人。彼女のそばには、一人の男が立っていた。一瞬セドリックかと思ったけれど、違う。顔立ちはよく似ているものの、衣装も年齢も異なっている。
「当時のノクス家当主よ。彼もまた、自分は守り人を守るのだと信じていた」
記憶の中で、男がエレノアへ何かを話している。
エレノアは迷っていた。
「何を言ってるの?」
「守り人の力を自分たちに預けろ、と。一人で背負わなくていい。自分たちが管理する。あなたを守るためなのだと」
「……優しい言葉だね」
「ええ。だからこそ、彼女は迷った」
明らかな悪意なら拒める。
でも、「あなたのため」「守るため」と言われたら…
孤独な時ほど、その言葉に縋りたくなるかもしれない。
「エレノアは?」
「最初は断った。でも、彼女はずっと一人だったの」
記憶の中でエレノアが泣いている。
「守り人であることを本当に理解してくれる人がいなかった。怖いと言えなかった。逃げたいとも、生きたいとも言えなかった。だから、とうとう誰かに頼りたくなってしまった」
胸が痛んだ。私は無意識にレオンハルトの手を握った。もし私にも、
この手がなかったら…
ローグ様も、グレンジャー様も、レイブン様も、侍女のみんなもいなかったら…
一人で守り人としての責任だけを背負わされていたら…
私だって、どうなっていたか分からない。
「エレノアは悪くないよ」
自然に言葉が出た。
「一人で全部背負わされたら、誰だって誰かに頼りたくなる。頼ったことが間違いだったんじゃない。利用した方が悪い」
アリアは少し驚いたように私を見た後、静かに頷いた。
「……そうね」
その結果、ノクス家は守り人の力へ触れた。
そして、それを通して黒い影もエレノアへ届いた。
「七百年前に封印が弱くなったのは、それが原因?」
「ええ。そしてエレノアは最後に気づいた。自分が利用されていたことに」
「それで……死んだの?」
「彼女は最後の力を使って、封印を閉じ直したわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から強い反発が込み上げてきた。まただ…また守り人が一人で背負って、最後には自分を差し出した。
「……嫌だ」
「ミア?」
「こんなの、ずっと同じじゃない」
守り人が選ばれる。一人で背負う…苦しむ…
そして最後には、自分の命を差し出す。
そんなことを何度も繰り返して、それを世界を守るための尊い犠牲だなんて呼ぶのなら、私はそんな仕組みを受け入れたくない。
「世界を守るために、一人の人間が毎回死ななきゃいけないなんて、おかしいよ。私はそんな終わり方したくない」
「させません」
レオンハルトが即答した。思わず彼を見る。あまりにも迷いがないものだから、こんな状況なのに少し笑ってしまった。
「うん。私もそのつもり」
そして、アリアを見る。
「お姉ちゃんもだよ」
「え?」
「千年以上ここにいるから仕方ない、なんて言わないで。まだ何か方法があるかもしれないでしょう?」
「ミア、それは……」
「一人で決めないで」
さっきアリアが私に言った言葉を、そのまま返した。
「今度は、お姉ちゃんも一緒に考えよう。できるかどうかは、その後で決めればいい」
アリアはしばらく何も言えずに私を見つめていた。
やがて、泣きながら笑った。
「……本当に変わったわね」
「またそれ?」
「だって、本当なんだもの」
「もう聞き飽きたよ」
今度は、二人で笑った。
*
その時、レオンハルトが突然顔を上げた。
「……誰か来ます」
「え?」
私には何も聞こえない。
けれど、しばらく耳を澄ませていると、遠くから微かに声が聞こえてきた。
「――キさん!」
途切れている。それでも聞き覚えのある声だった。
「グレンジャー様?」
「ミキさん!」
今度は、はっきり聞こえた。
嬉しさが一気に込み上げる。
「こっち! ここです!」
すぐに別の声が重なった。
「返事を続けろ!」
「ローグ様! ここ! ここにいます!」
さらに遠くから、レイブン様の声まで聞こえてくる。
「ミキ! 無事か!」
「無事!」
「レオンハルトは!」
「いる!」
「ならいい!」
思わず目を瞬いた。
「……それでいいの?」
レオンハルトが微妙な顔をする。
私は堪えきれず笑った。
「雑!」
すると、遠くからすぐに「聞こえてるぞ!」と返ってきた。こんな場所なのに、そのやり取りだけで張りつめていた空気が少し緩む。
みんながいる。
ちゃんと、私たちを探してくれている。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「繋がり始めている」
白い鳥が言った。
「何が?」
「外の空間と、ここが」
アリアが驚いたように周囲を見る。
「そんな……今まで一度も、この場所へ外から声が届いたことなんて……」
白い鳥はアリアではなく、私を見た。
「一人ではないからだ」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
一人ではない
私とレオンハルトを繋いだ髪飾りとお守り
私たちを探してくれている声
帰りを待ってくれている人たち
たくさんの想いが、閉ざされていたはずの場所へ少しずつ道を作っている。昔の私は、一人で境界へ飛び込んだ。アリアも一人でアステリアを封じた。
エレノアもまた、一人で最後の力を使った。
でも、今は違う。私はレオンハルトの手を握り返した。
「だったら、みんなで帰れるね」
「はい」
レオンハルトの答えに頷いた、その瞬間だった。
空気が大きく震えた。
『許さぬ』
黒い影の声と同時に、頭上の空が裂けた。
これまでの亀裂とは比べものにならないほど巨大な裂け目が現れ、その向こうから大量の闇が濁流のように流れ込んでくる。
「ミア!」
アリアが叫び、レオンハルトが私を抱き寄せた。白い鳥も大きく翼を広げ、押し寄せる闇を遮るように私たちの前へ出る。その時、黒く歪んだ空間の向こう側に、人影が見えた。
ローグ様
グレンジャー様
レイブン様
他の騎士たちもいる。
「ミキ!」
「ローグ様!」
思わず手を伸ばした。
向こうからもローグ様が手を伸ばしている。
もう少し…あと少しで、空間が完全に繋がる。そう思った瞬間、黒い影が私たちの間へ叩きつけられた。
激しい衝撃に身体が吹き飛ばされそうになったけれど、レオンハルトの腕が強く私を抱きしめる。
今度は離れない。私も彼の服を掴み、必死に踏みとどまった。
「ミキ、大丈夫ですか!」
「大丈夫!」
「その言葉は信用しません!」
「今は本当に大丈夫だから!」
こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。
でも、その笑いはすぐに消えた。レオンハルトの肩越しに見えた闇の中で、何かが動いていたからだ。
これまで見てきた黒い影とは違う。
煙のように形を変えるだけのものではない。
闇が集まり、少しずつ輪郭を作っていく。
腕のようなものが生まれ、脚が地面へ触れ、頭らしき形が現れる。人に似ている。けれど、決して人ではない。黒い影が、初めてこの世界で自分の身体を作ろうとしている。
白い鳥が低い声で告げた。
「気をつけろ。奴は完全にこちらへ渡ろうとしている」
アリアが私の隣へ立ち、レオンハルトも私を庇うだけではなく、すぐに動けるよう剣を構え直した。
裂けた空間の向こうでは、ローグ様たちも必死にこちらへ来ようとしている。私は胸元へ手を当てた。
そこには、確かに白い光がある。怖くないわけじゃない。手だって震えている。今すぐ逃げられるのなら、逃げたい。でも、それでもいいのだと思った。怖いままでいい。怖くても、私はここに立っていられる。
昔のように、一人で全部を背負う必要はない。
私は隣にいるレオンハルトの手を取った。
「今度は、一人じゃないね」
彼は私の手を強く握り返した。
「はい。何があっても、一緒です」
その言葉を聞きながら、私はもう一度前を向いた。
アリアがいる
白い鳥がいる
向こうには、ここまで私を追いかけてきてくれた仲間たちがいる
そして、私の手を握るレオンハルトがいる
千年以上、守り人たちは一人で戦い、一人で選び、一人で犠牲になってきた。
でも、私は、同じ終わり方を選ばない。闇の中で、二つの目のような赤い光がゆっくりと開いた。
黒い影が初めて、こちらの世界にその姿を現した。




