36 忘れていた名前
「ずっと、あなたを待っていたの」
アリアの腕の中でその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが切れた。
涙が止まらなかった。
どうしてこんなに悲しいのか、自分でもうまく説明できない。今の私――坂元水姫として生きてきた五十五年の記憶の中に、アリアという姉はいなかった。少なくとも、私が覚えている人生に、この人は存在していない。
それなのに、この腕の中を知っている。
背中に回された手の温もりも、髪を撫でる指の優しさも、抱きしめられた時に微かに香る白い花の匂いも、全部知っている。頭では知らないと言っているのに、身体のどこかが、この人は大切な人だと覚えていた。
「お姉ちゃん……」
もう一度そう呼ぶと、アリアの腕に力がこもった。
「ええ。やっと……もう一度、そう呼んでくれた」
震えた声が耳元で返ってきて、その言葉にまた涙が溢れた。
どれほど長い間、この人は待っていたのだろう。
私が彼女のことをすっかり忘れて別の世界で生まれ、誰かを愛し、子供を育て、夫を見送り、自分自身も人生を終えるまで。気の遠くなるほど長い時間を、アリアは私のことを覚えたまま過ごしてきた。
そう思うと、たまらなくなった。
「ごめんなさい。私……全部忘れてた。お姉ちゃんのことも、アステリアのことも、何も覚えてなかった」
けれど、アリアは私を責めるどころか、少し身体を離すと、涙で濡れた頬を昔そうしてくれたように優しく拭ってくれた。
「どうしてあなたが謝るの? あなたが望んで忘れたわけではないわ」
「でも……」
「忘れるしかなかったの。あなたが生きるためには、それしかなかった」
「私が……生きるため?」
その言葉の意味が分からず見つめ返すと、アリアは悲しそうに頷いた。
その時、それまで黙って私たちを見守っていたレオンハルトが、私の手を握ったまま静かに口を開いた。
「ミキは、この世界で一度死んだということですか?」
アリアの視線がレオンハルトへ向く。しばらく彼を見つめた後、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。死んだのではないわ。あの時、この子は――死ぬことさえできなかった。そう言った方が正しいかもしれない」
その言葉に、背筋を冷たいものが走った。
「どういうこと?」
アリアはすぐには答えず、白い花畑の向こうへ視線を向けた。
「言葉だけで説明するより、見た方が早いわ。ここは守り人の記憶が残る場所だから」
その声に応えるように、白い花が風に揺れた。
今度は突然別の場所へ飛ばされることはなかった。花畑の向こう側が水面のように揺らぎ、まるで幕がゆっくりと開いていくように、昔のアステリアの景色が現れた。
*
そこにいたのは、二人の少女だった。
一人はアリア。そしてもう一人は、先ほどの記憶でも見た小さな女の子。
「……私」
自然に言葉がこぼれた。
今度は分かる。
あれは私だ。
坂元水姫として生きるよりも、ずっとずっと昔。この世界で生きていた頃の私…
小さな私は、白い花で作った冠を頭に載せ、少し先を歩くアリアを追いかけていた。
「お姉ちゃん、待って!」
「走ったら、また転ぶわよ」
「今日は転ばないもん」
「昨日もそう言っていたでしょう?」
「昨日は昨日!」
その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。
「……同じこと言ってる」
隣を見ると、アリアも懐かしそうに笑っている。
「あなたは昔からそうだったわ。よく笑って、よく泣いて、それから本当によく転んでいた」
「転ぶの多くない?」
「多かったわ」
すると、すぐ隣から小さく息を漏らす音が聞こえた。
「今も時々危なっかしいですが」
「ちょっと、レオンハルト」
「事実です」
「今はそんなに転ばないよ」
「転びそうになる前に、私が支えていますから」
そう言われると反論できない。
私が黙り込むと、アリアが目を丸くした後、声を立てて笑った。それは、ここへ来て初めて聞く心からの笑い声だった。その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。昔も私は、アリアが笑うのを見るのが好きだった。
何か面白いことをして笑わせたくて、わざと変なことを言ったり、叱られると分かっているのにいたずらをしたりした。そんな小さな記憶まで、少しずつ輪郭を取り戻していく。
けれど、穏やかな光景は長くは続かなかった。
遠くから低く重い鐘の音が響き、記憶の中の人々が一斉に空を見上げる。
青かった空に、細い黒い線が走っていた。
今、アステリアの上空を覆っている亀裂とよく似ている。ただし、あの頃のものはずっと小さかった。
「これ……」
声が震えた。アリアの表情からも笑みが消える。
「あの日から、すべてが始まったの」
*
アリアの話によれば、昔のアステリアでは、ある時から不可解な出来事が起こり始めたのだという。
突然、魔力を失う人が現れた。理由もなく眠り続ける者が増え、それまで普通に通れていた道へ足を踏み入れた途端、二度と戻ってこなくなる人まで出た。
最初は誰も、それらが同じ原因によって引き起こされているとは思わなかった。
けれど、異変は少しずつ増えていき、やがて空に亀裂が現れた。
「境界……」
私が呟くと、アリアは頷いた。
「この世界と、別の世界を隔てている境界よ。亀裂の向こう側から、何かがこちらを見ていた。姿も身体もなく、ただ強い意思だけを持った何かが」
「それが、黒い影?」
「ええ。でも、あれは本当は影ではないの。私たちが理解できる姿を持っていなかっただけ。だからこの世界へ触れる時、影のような形になった」
「何のために、こっちの世界へ来たの?」
私の問いに、アリアは少し間を置いて答えた。
「生きるためよ」
思ってもみなかった答えに、私は目を瞬いた。
「生きる?」
「あれがいた世界は、すでに滅びかけていたの」
花畑の向こうに浮かんでいた記憶が変化し、空の亀裂の奥に一瞬だけ別の世界が映し出された。
暗い空、崩れた大地、枯れ果てた木々…
そこには、生命の気配がほとんど感じられなかった。
「自分の世界を捨てて、こっちへ逃げてこようとしたってこと?」
「最初は、そうだったのかもしれない」
「最初は?」
アリアの声が少し低くなった。
「あれはこの世界へ触れたことで、ここに満ちる魔力を知ってしまった。命を知り、魂を知った。そして、それらを自分のものにできると気づいてしまったの」
胸の奥がざわついた。
「……食べられるって?」
「ええ」
以前、黒い影が口にした言葉を思い出す。
――喰らう
あれは、ただの比喩ではなかったのだ。
「それを止めるために、守り人が生まれたの?」
「少し違うわ。守り人は、それ以前から存在していた」
「え?」
意外な答えに、私はアリアを見つめた。
「守り人は、この世界を守るために戦う者として生まれたわけではない。本来の役目は、世界と世界の境界を見守ることなの」
「見守る……?」
「境界は、完全に閉ざされているわけではないの。魂は時折、世界を越える。ある世界で命を終えた魂が別の世界へ渡り、そこで新しい生を得ることもある。それ自体は、本来なら不自然なことではないわ」
その言葉を聞いて、真っ先に浮かんだのは日本だった。
この世界と、日本
そして、私
「じゃあ……私が日本で生きたことも?」
「世界を越えたこと自体は、あり得ないことではないわ」
「でも、女神様は言ってた。私の魂は、本当ならこの世界へ戻るはずだったって」
「その通りよ」
アリアの顔が悲しげに曇る。
「あなたは本来、この世界で再び生まれるはずだった。でも、それができなかった。あなたの魂は一度、この世界から遠くへ逃がされたから」
「逃がされた……?」
「黒い影から守るために」
レオンハルトの手に力がこもった。私も無意識に、その手を握り返していた。
*
目の前の景色が再び変わった。
今度は大きな神殿のような建物の中だった。
高い天井から柔らかな光が差し込み、その中央に成長したアリアが立っている。白い衣装は今の彼女とよく似ていた。
「守り人になった頃?」
「ええ」
その少し後ろに、一人の少女が立っていた。
十代半ばくらいだろうか。その顔を見た瞬間、息を呑んだ。今の私に、よく似ている。
「……私?」
「あなたよ」
アリアにそう言われた瞬間、頭の奥で誰かが名前を呼んだ。
――ミア
胸が大きく脈打つ。
「……ミア」
口にした途端、理由も分からないのに涙が滲んだ。
アリアが驚いたように私を見る。
「思い出したの?」
「分からない。でも……これ、私の名前だ」
もう一度、その名前を口にする。
「ミア。私は……ミアだった」
「ええ」
アリアの瞳にも涙が浮かんだ。
「あなたはミア。私の妹、ミアよ」
遠い昔、この世界で最初に生きた時、私にはその名前があった。坂元水姫になるよりも、ずっと前…
私は、ミアだった。
*
けれど、記憶の中のミアは守り人ではなかった。
少なくとも、その時は…
「守り人に選ばれたのは私だった。あなたはただ、私の妹だったの」
アリアの言葉に、私は少し眉を寄せた。
「ただって」
「それが一番幸せだったのよ」
穏やかな声だった。だからこそ、何も言えなくなった。
「私は守り人になった。でも、あなたまで巻き込みたくなかったから、守り人のことも、境界に起きていることも、ほとんど話さなかった」
記憶の中で、アリアとミアが何かを言い争っている。
声までは聞こえない。それでも、なんとなく分かった。ミアは怒っている。姉が何も話してくれないことに…
「……昔から秘密主義だったんだ」
「あなたを守りたかったの」
「それ、レオンハルトもよく言う」
隣を見ると、レオンハルトが少しだけ困ったような顔をした。
「……否定はしません」
「でも、最近はちゃんと話してくれるようになったよ」
「努力しています」
「うん。知ってる」
そう言って笑うと、アリアは私たちをしばらく見つめていた。その顔が、ほんの少し嬉しそうに見えた。
「そう……。それなら、よかった」
その言葉には、何か別の意味が含まれている気がした。けれど、それを尋ねる前に、目の前の景色が変わった。
*
夜だった。
アステリアの街が燃えていた。
人々が悲鳴を上げながら逃げ惑い、白かった建物を赤い炎が包み込んでいる。空に走る亀裂は、最初に見たものとは比べものにならないほど大きくなっていた。
「これ……アステリアが滅びた日?」
「ええ。黒い影が初めて、この世界へ大きく入り込もうとした日よ」
守り人だったアリアは、境界を閉じようとした。
けれど、一人では足りなかった。
「どうして?」
尋ねると、アリアは苦しそうに目を伏せた。
「私が迷ったから」
「迷った?」
「守り人は、境界を閉じるために自分の魂を使うことができるの。完全に自分を差し出せば、あの時の亀裂を閉じることができた」
嫌な予感がした。
「自分の魂を使うって……それは……」
「死ぬということよ」
隣にいるレオンハルトの身体が強張った。
私も、しばらく何も言えなかった。
アリアは遠い昔の自分を見つめながら、苦しそうに笑った。
「でも私は、死にたくなかった。守り人なのにね」
「当たり前でしょう」
考えるより先に言葉が出ていた。
アリアが驚いたように私を見る。
「死にたくないって思って、何が悪いの? 守り人だからって、世界のために死んで当然なわけじゃない。お姉ちゃんだって生きたかったんでしょう?」
「……ええ」
「だったら、それでいいじゃない」
アリアの目から涙が落ちた。
少し前の私なら、同じことを言えただろうか。
誰かが助かるなら…
自分一人が犠牲になれば済むのなら…
そう考えてしまったかもしれない。だからこそ、今なら分かる。
死にたくない
生きたい
誰かと一緒に未来を見たい
それは決して、わがままではない。
「あなたは、本当に変わったわね」
アリアが涙を拭いながら笑った。
「またそれ?」
私も笑おうとした。けれど、できなかった。
燃える街の中を、一人の少女が走ってきたからだ。
昔の私、ミアだった。
*
「……何してるの?」
記憶の中の出来事だと分かっているのに、思わず声が出た。
ミアは泣いていた。それなのに、アリアの前まで来ると笑った。姉を安心させるように、泣きながら笑って、その手を握った。
その瞬間、胸の奥に閉じ込められていた記憶が一気に開いた。
「……やめて」
私は首を振った。この先を知っている。思い出してしまった。
「見たくない……」
けれど、記憶は止まらなかった。
あの日、私は知ってしまったのだ。
姉が境界を閉じるために、自分の魂を差し出そうとしていることを…
だから、私は――
「私が……代わりに行ったの?」
声が震えた。アリアは涙を流しながら頷いた。
「止めたわ。何度も止めた。でも、あなたは聞かなかった」
記憶の中で、ミアが笑う。その唇が動いた。
――お姉ちゃんは、生きて
胸が潰れそうになった。同じだ。坂元水姫として生きた私も、ずっとそうだった。誰かのためなら、自分が我慢すればいい。自分が傷つけばいい。
自分がいなくなれば済むのなら、それでいい。
夫が病気になった時も、家族のことを考えていた時も、私は何度も「大丈夫」と言った。
自分が本当はどうしたいのかを考えるより、誰かが困らないようにすることを優先してきた。
「だから……」
白い鳥が以前言った言葉が、今になってようやく本当の意味を持って胸へ落ちてきた。私は今回初めて、自分の命を自分のものとして選んだ。
守り人だからではない
誰かを守るためだけでもない
レオンハルトと生きたい
帰って、また王都を歩きたい
猫を見に行きたい
編み物をしたい
もっとたくさん笑いたい
自分のために、生きたいと思った。
「私、昔から……同じだったんだ」
「あなたは、いつも誰かを守ろうとした」
アリアはそう言ったけれど、そこに責める響きはなかった。
「優しい子だった。でも、その優しさの中に、自分だけを入れようとしなかった。私がどれだけ『あなたも大切なのよ』と言っても、あなたは最後には自分を差し出してしまった」
涙が頬を伝った。レオンハルトの手が、私の手を包む。何も言わない。ただ、そこにいてくれる。
それが今は嬉しかった。
「それで、私は死んだの?」
「いいえ」
アリアの声が低くなった。
「そこで、黒い影があなたを見つけたの」
背筋が凍る。記憶の中で、境界へ飛び込んだミアの身体を黒いものが包み込んでいく。
「守り人じゃなかった私を?」
「あなたにも、私と同じ力が眠っていた。守り人として選ばれるのは一人でも、境界に触れることのできる魂が一つしか存在しないわけではないの」
姉のアリアと、妹のミア。
二人とも、境界へ触れることのできる魂を持っていた。
「だから、黒い影はあなたを使おうとした。あなたの魂を器にして、この世界へ完全に入り込もうとしたの」
ぞっとした。
「でも……できなかったんでしょう?」
「ええ」
「どうして?」
アリアが答えようとした、その時だった。
「その時は、私が逃がした」
聞き覚えのある声が、頭上から降ってきた。
アリアでも、レオンハルトでもない。
そして今では、聞くだけで少し腹が立つほど馴染みのある声だった。
白い羽が一枚、ふわりと舞い落ちる。
私は思わず空を見上げた。
「……遅い!」
白い鳥が、何事もなかったような顔で私たちの前へ降り立った。
「今までどこにいたの!」
「見ていた」
「だったら、もっと早く出てきなさいよ!」
「邪魔をしてはいけないと思った」
「そこだけ空気読むの!?」
隣でレオンハルトが、ほんの少し笑った。
アリアまで涙を拭いながら笑っている。
「本当に……変わらないのね」
白い鳥がアリアを見る。
「久しいな」
「ええ。随分と長かったわね」
「千年以上か」
その言葉に、私はぴたりと動きを止めた。
「……ちょっと待って」
白い鳥を見る。白い鳥は私を見返す。
「あなた、七百歳どころじゃないじゃない」
返事がない。
「千歳超えてるの?」
「年齢に意味はない」
「あるでしょう!」
思わず声が大きくなった。こんな状況なのに、レオンハルトが今度ははっきりと笑っている。でも、そのおかげで張りつめていた胸が少しだけ楽になった。
やがて白い鳥は私をまっすぐ見つめた。
「ミア」
初めて、その鳥が私をそう呼んだ。
胸が震える。
「お前が黒い影に取り込まれかけた時、私はお前の魂を境界の外へ逃がした。行き先まで選ぶ余裕はなかった。ただ、奴の手が届かないほど遠い世界へ送った」
「それが……日本だったの?」
「そうだ」
私はしばらく何も言えなかった。
日本で生まれ、家族を持ち、夫を愛し、子供を育てた。辛いこともあった。苦しいことも、後悔したこともある。それでも、あの人生は間違いなく私の人生だった。
「じゃあ……私が日本で生きたことは、本当は間違いだったの?」
その質問を口にした途端、胸が痛くなった。
もし、あの人生が本来あるはずではなかったものだと言われたら…夫と過ごした時間まで、間違いだったと言われるような気がした。
白い鳥はすぐには答えなかった。
代わりに、アリアが私の手を取った。
「いいえ」
「お姉ちゃん……」
「あなたがそこで生きた時間も、愛した人たちも、全部あなたのものよ。世界が違っても、名前が違っても、あなたが誰かを愛して、誰かに愛されたことは消えない。忘れなくていいし、捨てる必要もないの」
アリアの手が、私の頬に触れる。その優しさに、また涙が溢れた。
夫の顔が浮かんだ。
一緒に笑ったこと…
喧嘩したこと…
病気になってから過ごした日々…
最後までそばにいた時間…
そして、成長した子供の顔…
あの人生があったから、今の私がいる。
私は涙を拭い、隣にいるレオンハルトを見た。
彼は何も言わなかった。
過去を否定することも、忘れろと言うこともなく、ただ私の手を握ってくれている。その温もりに、私は小さく笑った。
「うん」
ミアだった私も
坂元水姫として日本で生きた私も
そして今、この世界でレオンハルトの隣にいる私も
どれか一つだけが本当なのではない。
全部、私だ。
そう思えた。
*
「……そろそろ、ローグ様たちのところへ戻らないと」
私がそう口にした時だった。
白い鳥が突然、空を見上げた。
その様子に気づいたアリアの表情も変わる。
先ほどまで穏やかだった風が止まり、花畑から音が消えた。
「……来る」
アリアの声に緊張が走る。
「何が?」
聞き返しながらも、本当は答えを分かっていた。
白い花畑の向こうに広がっていた昔のアステリアの景色が、端から少しずつ黒く染まり始めていたからだ。
白い鳥が翼を広げる。
「見つかった」
隣でレオンハルトがすぐに剣へ手をかけた。
「何に?」
その問いに、アリアは答えず、私の手を強く握った。
空に黒い亀裂が走った。
細かった亀裂がゆっくりと左右へ開いていく。
その奥に、闇が見えた。ただ暗いのではない。
こちらを見ている…そう感じる闇だった。
そして、そこから低い声が響いた。
『ようやく見つけた』
身体が凍りつく。聞き間違えるはずがない。
あの声だ。黒い影…
レオンハルトが一歩前へ出た。
アリアも私を庇うように立つ。
けれど、闇の向こうにいる何かは、二人など見えていないかのように私だけを見つめていた。
『ミア』
遠い昔の名前を呼ばれた瞬間、胸の奥の白い光が激しく揺れた。
怖い…それでも、逃げたくはなかった。
昔の私は、姉を守るために一人で境界へ飛び込んだ。
今度は違う…
私の右手にはレオンハルトの温もりがある。すぐそばにはアリアがいる。ここへ来るまでにも、ローグ様やグレンジャー様、レイブン様、それにたくさんの人たちが力を貸してくれた。
もう、一人で何とかしようとは思わない。
黒い影が、笑ったような気がした。
『今度こそ、その魂を返してもらおう』
「……返す?」
恐怖より先に、その言葉への違和感が湧いた。私はレオンハルトの手を握り返しながら、闇を睨んだ。
「私の魂は、あなたのものじゃない」
一瞬、沈黙が落ちた。
「昔も、今も、私の命は私のものよ。誰かを助けるために勝手に差し出したりもしないし、あなたにあげるつもりもない」
レオンハルトが隣で息を呑む気配がした。
でも、手は離れなかった。むしろ、もっと強く握り返してくれる。私はその温もりを感じながら、もう一度はっきりと言った。
「私は、生きて帰るの。大切な人たちと一緒に」
黒い亀裂の奥で、何かが蠢いた。
次の瞬間、足元に咲いていた白い花が、一斉に黒く染まった。




