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35 離れていても



「やっと、帰ってきたのね」


白い花が風に揺れる中、その女性は涙を流しながら私を見つめていた。


私はすぐには動けなかった。陽の光を受けて淡く輝く長い髪に、白を基調とした見慣れない衣装、年齢は今の私とそれほど変わらないように見える。


綺麗な人……


けれど、私が息を呑んだのは、そのせいではない。


――知っている


この人を、私は知っている…そう思った瞬間、胸の奥が大きく揺れた。頭では知らない人だと分かっているのに、心だけが彼女の存在を知っている。初めて見る顔のはずなのに、長い間探し続けていた人をようやく見つけたような、奇妙な懐かしさが込み上げてきた。


それは、レオンハルトと初めて出会った時に感じたものとは違っていた。もっと古く、もっと深い。記憶の底に沈んでしまった何かが、彼女の姿を見たことで静かに目を覚まそうとしているようだった。


「……あなたは、誰?」


ようやく尋ねると、女性の瞳が悲しげに揺れた。


「分からない?」


その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

声を聞いたことがあると、そう思った。


けれど、どこで聞いたのかは思い出せない。優しくて、少し寂しくて、それでも私を安心させる響き…

その声に名前を呼ばれたことがあるような気がする。幼い頃、泣いていた私をあやしてくれたような気もする。そんな記憶が、手を伸ばせば届きそうなところまで浮かんでは、霧の向こうへ消えていく。


「ごめんなさい。あなたに会ったことがあるような気はするの。でも、思い出せない」


自分で口にした言葉が、ひどく悲しく聞こえた。


女性はしばらく何も言わなかった。責めることも、驚くこともなく、ただ私を見つめている。その眼差しには、私が忘れてしまったものを彼女だけが覚えているような、深い寂しさが滲んでいた。


やがて、何かを諦めるように小さく微笑む。


「そうね。あなたは、もう覚えていないものね」


「……もう?」


その一言が、胸の奥に引っかかった。


もう、ということは、以前は知っていたということだろうか。私は本当に、この人と会ったことがあるのだろうか。もしそうなら、なぜ私は何も覚えていないのだろう。


尋ねようとした時、強い風が吹いた。


足元に咲いていた白い花が一斉に揺れ、無数の花びらが空へ舞い上がる。視界が白く染まり、思わず目を閉じた。


花の香りがした。

甘く、柔らかく、どこか懐かしい香りだった。


その香りを吸い込んだ瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。知っている。私はこの香りを知っている。けれど、どこで嗅いだのか思い出せない。


そして次に目を開いた時、景色はまったく違うものへ変わっていた。


*


「……え?」


そこには、たくさんの人がいた。


石畳を行き交う人々、店先で楽しそうに話す女性たち、笑いながら走り回る子供たち。遠くでは鐘の音が響き、白い建物の窓辺には色とりどりの花が飾られている。広場の噴水からは水が溢れ、青い空には何羽もの白い鳥が舞っていた。


さっきまで見ていた崩れ果てた街ではない。


人々の声が聞こえる。焼きたてのパンの香りがする。風に乗って花の匂いが漂い、遠くから誰かが歌っている。


あまりにも鮮やかで、あまりにも温かい。


私は思わず息を呑んだ。


「アステリア……?」


まだ、この国が滅びる前


人々がここで普通に暮らしていた頃のアステリアなのだと、なぜか分かった。


知識として知っているわけではない。誰かに教えられたわけでもない。ただ、この景色を見た瞬間、胸の奥に「帰ってきた」という感覚が広がった。


帰ってきた…その言葉が浮かんだことに、私は戸惑った。ここへ来るのは初めてのはずなのに…


けれど、誰も私を見ていない。


目の前を通り過ぎる人へ手を伸ばしてみても、指先はその身体をすり抜けてしまった。触れられない。声も届かない。


「記憶……なの?」


自分の声さえ、この世界には届いていないような気がする。その時、近くから楽しそうな笑い声が聞こえた。振り返ると、小さな女の子が白い花を両腕いっぱいに抱えて走ってくる。


あの子だ。

島へ上陸した時、一瞬だけ見えた女の子。


その姿を見た瞬間、胸の奥がまた強く痛んだ。


知っている。この子も、私は知っている。


けれど、やはり名前が出てこない。どこで会ったのかも、なぜ懐かしいのかも分からない。ただ、あの子が転んだら嫌だと思った。走る姿を見ているだけで、胸の奥が不安になった。


「お姉ちゃん!」


女の子は私の横を勢いよく駆け抜け、その先にいた少女へ飛びついた。


そこにいたのは、先ほど白い花畑で会った女性だった。ただし、今よりもずっと若い。まだ少女と呼んでもいいくらいだった。


その姿を見た瞬間、私は立ち尽くした。


同じ人だ。


間違いない。


けれど、目の前の少女は、先ほどの女性よりもずっと生き生きとしていた。頬には柔らかな赤みがあり、瞳には明るい光が宿っている。その笑顔を見ていると、胸の奥に閉じ込められていた何かが、さらに強く揺さぶられた。


「そんなに走ったら転ぶわよ」

「大丈夫!」

「昨日も転んだでしょう?」

「昨日は昨日!」


少女が困ったように笑う。

その笑顔を見た瞬間、胸がきゅっと痛くなった。


知っている…私は、この笑い方を知っている。


ただ顔を知っているだけではない。この人が笑う時、少しだけ目尻が下がることも、困ったように首を傾けることも、全部知っている気がする。


その笑顔を、私は何度も見てきた。


朝、目を覚ました時に

泣いている時に

何かを失った時に


そんな断片的な感覚が一気に押し寄せ、頭の奥が熱くなる。でも、どこで見たのかは思い出せない。


「……誰?」


思わず呟いた。


もちろん、少女には届かない。


小さな女の子は少女の手を握り、さっきまでの笑顔を少しだけ曇らせた。


「ねえ、お姉ちゃん。守り人になったら、遠くに行っちゃうの?」


その言葉に、私は息を止めた。


少女の表情からも笑みが消える。


「……誰に聞いたの?」

「みんな言ってるよ。お姉ちゃんが次の守り人になるって」


守り人…


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


白い衣装


花畑


涙を流す女性


そして、目の前の少女


「――エレノア?」


真っ先に浮かんだのは、その名前だった。


けれど、すぐに違和感を覚える。


エレノアは七百年前の守り人だ。でも、目の前に広がるアステリアは、もっと古い時代のものだと感じる。


なぜそう思うのか、自分でも分からない。


ただ、エレノアという名前を思い浮かべた時、胸の奥に違う名前が重なった。


もっと古い名前


もっと近い名前


けれど、それは霧の中に隠れていて、どうしても掴めなかった。


少女は小さな女の子の前へしゃがむと、安心させるように両手を握った。


「大丈夫よ。私はどこにも行かない」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が大きく震えた。


その言葉を、私は知っている。


昔、同じ声で、同じように安心させてもらった。


誰に?


いつ?


思い出せない。


「ほんと?」

「本当」

「ずっと一緒?」

「ずっと一緒よ」


小さな指と指が絡む。


その瞬間、視界の端に別の光景が重なった。


誰かの手を握っている


小さな手


温かな手


私の指を包み込む、大きな手


――大丈夫


――ずっと一緒よ


聞こえた気がした。


けれど、声の主の顔は見えない。


私は必死に思い出そうとした。目の前の少女を見つめ、彼女の声を聞き、手の動きを追う。


この人だ。

この人が、私の手を握っていた。

この人が、私に約束した。


そう思った瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。


「……っ」


何かが出てきそうになる。

ずっと深いところに閉じ込められていた記憶…

懐かしい声、温かな手、白い花の香り

それだけではない。

泣きながらこの人を呼んだ記憶…

離れたくないと縋った記憶…

この人がいなくなることを恐れて、必死に手を伸ばした記憶…


どれも私のもののようで、私のものではない。

頭の中に浮かぶのに、触れようとすると崩れてしまう。もう少し、あと少しで届きそうなのに…


「待って……」


私は少女へ手を伸ばした。

指先が、あと少しで届く。その瞬間、目の前の景色がガラスのように砕け散った。


*


気づけば、私は再び白い花畑に立っていた。

目の前には、あの女性がいる。けれど、先ほど見た少女の姿が重なって見えた。


同じ瞳


同じ笑い方


同じ声


違うのは、今の彼女が涙を流していることだけだった。


「今のは……昔のアステリア?」

「そう」

「じゃあ、あなたは?」


問いかけながら、私は彼女の顔を見つめた。

やはり知っている。この人のことを、私は知っている。ただの守り人ではない。エレノアでもない。もっと近くて、もっと大切な存在だったはずだ。


けれど、その答えに手を伸ばすたび、胸の奥に強い痛みが走る。


女性は答えない。私は少し迷ってから、これまでずっと気になっていた名前を口にした。


「……エレノア?」


女性は静かに首を横へ振った。

やっぱり違う。その否定に、なぜか安堵した。

エレノアではない。

では、誰なのか。


「じゃあ……最初の守り人?」


今度は否定しなかった。

ただ、どこか寂しそうに微笑んだ。

その微笑みを見た瞬間、また胸が痛くなる。

この人が笑う時、私はいつも同じように胸を痛めていた気がする。


「教えて。あなたは誰なの?」


一歩近づくと、女性の瞳からまた涙がこぼれた。

その涙を見た瞬間、理由もなく手を伸ばしたくなった。


拭ってあげたい。

泣かないでと言いたい。

大丈夫だと伝えたい。


それは、初対面の相手に向ける感情ではなかった。


「私は――」


その言葉を遮るように、髪飾りが突然強く光った。


「っ……!」


深い蒼色の光が白い花畑を照らし、女性の表情が変わる。


「……その光」


私は髪飾りへ手を添えた。


熱い。


さっきまでとは比べものにならないほど、強い熱を持っている。その熱に触れた瞬間、胸の奥に別の温もりが蘇った。


誰かに髪を撫でられている。

誰かの膝に頭を乗せている。

耳元で、優しい声が囁いている。


――大丈夫


――私がいるから


その声が、目の前の女性の声と重なった。


私は思わず息を呑んだ。でも、怖くはなかった。

むしろ、ずっと探していたものが近づいてくるような感覚があった。


「レオンハルト……?」


理由なんて説明できない。それでも分かった。

この光の向こうに、彼がいる。


「レオンハルトが、私を探してる」


そう口にした瞬間、女性の顔に浮かんだのは驚きだった。


そして、深い悲しみ。


「そう……。今度は、あなたを探してくれる人がいるのね」

「今度は?」


また、その言葉…

胸の奥に、嫌な予感ではない、けれど強い違和感が広がった。


今度は…


以前にも、誰かが私を探したことがあるのだろうか。

以前にも、私は誰かと離れたのだろうか。

そして、その人は私を見つけられなかったのだろうか。


「どういう意味?」


女性は答えず、私の髪飾りを見つめたまま静かに尋ねた。


「その光の向こうにいる人を、あなたは愛しているの?」


あまりにも突然の質問に、私は目を瞬いた。こんな場所で、こんな状況で聞かれるとは思わなかった。

けれど、答えに迷うことはなかった。


「うん。愛してる」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥が温かくなった。

レオンハルトの顔が浮かぶ。


不器用に心配してくれる姿

私のくだらない話にも真剣に耳を傾けてくれる姿

離れたくないと、初めて自分から思えた人。


「だから帰るの。あの人のところに。二人で帰るって約束したから」


また王都へ行く

一緒に猫を見る

編み物をする

もっとたくさんの場所へ行く


世界を救うこととは何の関係もない、小さな約束ばかり。でも、今の私にとっては、そのどれもが生きて帰りたいと思う理由だった。


女性は長い間何も言わずに私を見つめていた。


その眼差しには、喜びと悲しみが混ざっているように見えた。まるで、私が誰かを愛していることを嬉しく思いながら、その相手が自分ではないことを寂しく思っているような…やがて、泣きそうな顔で笑った。


「あなたは……変わったのね」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にまた記憶の欠片が浮かんだ。昔の私は、今とは違ったのだろうか。

この人のそばにいた頃の私は、どんな子供だったのだろう。


「それ、白い鳥にも言われた」

「白い鳥?」

「うん。七百年以上生きてるくせに説明不足で、都合が悪くなると勝手にどこかへ飛んでいく鳥」


女性が目を瞬いた後、ほんの少しだけ口元を緩めた。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥に懐かしさが広がった。

この人は、昔から白い鳥を知っていた。私も知っていた。その事実が、なぜか当たり前のように感じられる。


「……相変わらずなのね」

「知ってるの?」


思わず身を乗り出す。


「やっぱり! じゃあ、あなたは――」


その瞬間、頭の中で何かが繋がりかけた。


白い花


幼い女の子


少女の笑顔


握られた手


ずっと一緒という約束


そして、目の前の女性。


胸の奥で、名前になりかけた何かが震えた。

けれど、最後まで言葉になる前に、突然足元が大きく揺れた。


いや、揺れたのは地面ではない。この空間そのものだった。女性が険しい表情で空を見上げる。


「時間がない」

「待って。まだ何も聞いてない!」

「彼が来る」

「レオンハルトが?」


胸が跳ねた。けれど、女性の表情は暗い。


「ここへ来させてはいけない」

「どうして?」

「ここは、守り人の記憶の中だから。守り人の魂を守るために作られた場所なの」


女性は私の髪飾りへ目を向けた。


「彼は守り人ではない。この場所に長く留まれば、いずれ彼の存在そのものが削られてしまう」


血の気が引いた。


「……何、それ」

「彼を止めて」


私は髪飾りを握りしめた。

蒼い光は、どんどん強くなっている。

レオンハルトが近づいている。


私を探して


来てほしい


会いたい


怖いから、今すぐ抱きしめてほしい


でも、彼が消えてしまうのなら、その願いを私は自分で押し殺さなければならない。


「来ちゃ駄目……」


私は蒼い石を強く握りしめた。


*


「ミキ!」


レオンハルトは何度目かも分からないほど、その名を叫んでいた。


返事はない。


ほんの数瞬前まで、確かに手を握っていた。指の感触も、温もりも、すぐ隣にいる気配もあった。それなのに、白い光が弾けた次の瞬間、彼女だけが消えた。


「ミキ!」


噴水の周囲を探し、崩れた建物を覗き込み、路地へ駆け込む。それでも姿は見つからない。


「レオンハルト!」


レイブンが腕を掴んだ。


「落ち着け!」

「離してください!」

「落ち着けと言っている!」

「ミキがいないんです!」


張り詰めた声が、廃墟の街へ響いた。

その瞬間、全員が黙った。


レオンハルト自身も、自分がどんな声を出したのか分かっていなかった。


「分かっている」


レイブンは掴んだ腕を離さず、弟の目をまっすぐ見た。


「俺たちだって探している。だからこそ落ち着け。お前まで見失ったら、誰がミキを連れ戻すんだ」


正しい…分かっている。それでも身体が言うことを聞かない。ついさっきまで彼女を握っていた右手が、ひどく冷たく感じる。


「レオンハルト」


グレンジャー様が近づいてきた。


「髪飾りのことを思い出してください。昨日、エドワードが言っていたでしょう。あれは二人の魔力を繋いでいると」


レオンハルトが顔を上げる。


エドワードは、すでに噴水の周囲を調べながら、何かを考えていた。


「レオンハルト、ミキに渡した髪飾りには、お前の魔力が残っている。そこへミキの魔力が結びついた。ならば、お前の側にも何かあるはずだ」


「私の側……」


呟いた瞬間、思い出した。レオンハルトは胸元へ手を入れ、いつも持ち歩いている小さなお守りを取り出した。ミキが自分のために編んでくれたもの…

手のひらへ載せた瞬間、全員が息を呑んだ。


光っている。

ミキの魔力を思わせる白い光…


それだけではない。お守りに刻まれた守護紋の一部が、髪飾りと同じ深い蒼色へ変わっていた。


「……ミキ」


レオンハルトは両手でお守りを包み込み、目を閉じた。


温かい。


彼女はいる。


まだ、どこかにいる。


「感じるのか?」


レイブンに尋ねられても、すぐには答えなかった。


意識を集中させる。


彼女の声


笑顔


手の温も


昨日、王都で初めて恋人として繋いだ手


そして昨夜、自分からもう一度口づけを望んでくれた時の、恥ずかしそうな顔


――二人で帰るの


その言葉を思い出した瞬間、お守りが鼓動のように一度強く脈打った。


レオンハルトは目を開ける。


「……います」

「分かるのか?」

「はい」


今度の声に迷いはなかった。


「ミキは、います」


そして、噴水の向こう側へ視線を向ける。

そこには何もない。ただ崩れた街並みが続いているだけだ。それでも、分かる。


「あちらです」


一歩踏み出そうとしたレオンハルトを、エドワードが止めた。


「待て、今の空間は通常の状態ではない。むやみに入れば、お前まで戻れなくなる」

「それでも行きます」

「レオンハルト」

「彼女と約束しました。二人で帰ると」


レオンハルトは、お守りを強く握りしめた。

エドワードが深く息を吐く。


「……止めても行くだろうな」

「はい」

「即答するな」


レイブンが呆れたように笑ったが、その表情はすぐに兄のものへ変わった。


「必ず連れて戻れ」

「言われなくても」


その時だった。レオンハルトの手の中にあるお守りから、細い光が伸びた。


白と蒼


二色の光が絡み合いながら噴水の向こうへ伸び、やがて一本の道を作る。


「これは……」


ベルンが息を呑む。エドワードも驚きを隠せない。


「守護紋が、向こう側の魔力に反応しているのか……」


まるで、見えない場所から誰かが手を伸ばしているようだった。レオンハルトは迷わず、その光へ手を伸ばした。


*


「来ちゃ駄目!」


私は叫んだ。髪飾りから伸びる蒼い光が、白い花畑を横切り、遠くまで続いている。その先に、人影が見えた。まだ輪郭しか分からない。それでも間違えるはずがなかった。銀色の髪…


「レオンハルト!」


思わず名前を呼んだ直後、女性から聞かされた言葉を思い出す。


「駄目! 来ないで! ここに長くいたら、あなたが危ないって!」


人影が一瞬立ち止まった。聞こえたらしい。


「私は大丈夫だから、戻って!」


少しの沈黙の後、遠くから声が返ってきた。


「それは信用できません!」

「……は?」


こんな状況なのに、思わず変な声が出た。


「何それ!」


「あなたの『大丈夫』を、これまで何度聞いたと思っているのですか!」

「今それ言う!?」


隣にいる女性まで目を丸くしている。

ものすごく恥ずかしい。けれど、そのやり取りを聞いた瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。

この声を聞きたかった。

この人に、いつものように呆れられたかった。


「とにかく来ちゃ駄目なの! 危ないって言ってるでしょう!」

「嫌です!」

「嫌ですって何!?」

「あなたを一人にしないと約束しました!」


光の向こうから、レオンハルトが一歩ずつこちらへ歩いてくる。


頑固…


本当に頑固。


いつもなら呆れるところなのに、今は怖くてたまらなかった。彼が一歩進むたび、その輪郭が水面に映る影のように揺らいでいる。


この場所が彼を拒んでいるのだ。


「レオンハルト、お願い! 戻って!」


それでも彼は足を止めない。


「あなたが消えるのは嫌なの!」


叫んだ途端、涙が溢れた。


「私のせいであなたがいなくなるなんて、絶対に嫌! 二人で帰るって言ったでしょう!」


ようやくレオンハルトが立ち止まった。

白い花だけが、二人の間で静かに揺れている。

しばらくして、彼の声が届いた。


「なら、私を消さないでください」

「……え?」

「あなたが、私をこちらへ引いてください」

「私が?」

「はい」


レオンハルトがこちらへ手を伸ばす。

まだ遠い。到底届く距離ではない。

それでも、彼はまっすぐに私を見ていた。

その姿を見ていると、胸の奥にまた別の記憶が浮かんだ。誰かが、同じように私へ手を伸ばしている。


白い花の中で泣きながら「帰ろう」と言っている。

その手を、私は一度離してしまった。

そんな感覚が胸をよぎった。だから今度は、絶対に離さない。


「ミキ、帰りましょう」


その一言で、胸の奥が熱くなる。

髪飾りが強く輝き、それに呼応するように私の中の白い光も膨らんでいった。


そうだ…私は、守ってもらうためだけにここへ来たわけじゃない。彼が私を探してくれたのなら、今度は私が、彼をこちらへ引けばいい。


「帰る」


私は手を伸ばした。


「一緒に帰る!」


白と蒼、二つの光が重なった。彼との距離が、一気に縮まる。


あと少し


もう少し


そして――指先が触れた。

次の瞬間、レオンハルトの手が私の手を強く掴んだ。


「捕まえた」


息を切らしながら、彼が言う。その声を聞いた途端、張り詰めていたものが一気にほどけた。


「……遅い」

「申し訳ありません」

「来るなって言ったのに」

「聞けません」

「頑固」

「知っています」


そのまま強く抱きしめられた。

私は抵抗するどころか、彼の胸に顔を埋める。


温かい。

ちゃんといる。

本物のレオンハルトだ。


その温もりに触れた瞬間、さっきまで胸の奥に浮かんでいた古い記憶が、静かに遠ざかっていった。


今、私が抱きしめているのはレオンハルトだ。

私が帰りたいと思う場所は、彼の隣だ。


「……怖かった」

「はい」

「すごく怖かった」

「私もです」


背中へ回った腕に、さらに力が込められる。


「もう離しません」


その言葉に、私は涙を拭いながら顔を上げた。


「……それ、昨日も言ってなかった?」

「言いました」

「離れたじゃん」

「不可抗力です」


あまりに真面目な顔で言うものだから、泣いていたのに笑ってしまった。


「言い訳」

「何とでも」


少し身体を離して彼の顔を見る。

いつも冷静なレオンハルトにも、今は余裕なんてなかった。呼吸は乱れ、額には汗が滲んでいる。

それを見たら、また胸がいっぱいになった。


「……来てくれて、ありがとう」

「はい」


彼の手が頬へ触れる。

その温もりを確かめるように、私は目を閉じかけた。


「……なるほど」


突然、後ろから声がした。私たちは同時に振り返る。


――忘れていた


女性がいた。


「ご、ごめんなさい」


思わず謝ると、レオンハルトが不思議そうに私を見る。女性は私とレオンハルトを交互に見つめた後、ほんの少し笑った。


「今度は、本当に違うのね」


また――今度


その言葉が、今度ははっきりと胸に刺さった。

この人は、以前にも私を誰かと重ねたことがある。

以前にも、私の帰りを待っていた。

以前にも、私と誰かが離れ離れになるのを見ていた。

そして、その時はきっと、今のように再会できなかった。私はレオンハルトの手を握ったまま、女性へ向き直った。


「そろそろ教えて、あなたは誰なの?」


もう曖昧なままにはさせない。

女性はしばらく私を見つめた後、静かに目を閉じた。白い花を揺らす風の中で、何か遠い記憶を辿っているように見えた。


その表情を見ていると、胸の奥が苦しくなる。

泣かないでほしい。

でも、泣いている理由を知りたい。私が忘れてしまった何かを、この人はずっと抱えている。

やがて目を開き、彼女は言った。


「私の名は、アリア」


その名前を聞いた瞬間、胸の奥が大きく脈打った。


知っている。私は、その名前を知っている。

頭では初めて聞いたはずなのに、心はずっと前から知っていた。


アリア…


その名前を呼んだことがある。


何度も泣きながら、笑いながら、小さな手を伸ばしながら…


「アリア……」


無意識に名前を繰り返すと、女性の瞳が揺れた。

その反応を見た瞬間、胸の奥に眠っていた記憶が一気に押し寄せる。


白い花畑を走る小さな足


転んで泣いた私を抱き上げる腕


髪を撫でる手


耳元で囁かれる、優しい声


――大丈夫


――私がいるから


目の前の女性の声と、記憶の中の声が重なった。


「私は、最初の守り人」


アリアは泣きながら、それでもどこか懐かしそうに微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、私はようやく理解した。この人は、私がずっと探していた人だ。

私が忘れてしまったのに、この人は私を覚えていた。

私が思い出せなかった約束を、この人はずっと守り続けていた。


「そして、あなたがこの世界で最初に生きた時の――」


そこで言葉が止まる。胸が苦しい…知りたい。でも、聞いてしまったら、何かが大きく変わってしまうような気がした。


もし、この人が私にとって本当に大切な人だったら…


もし、私がこの人を置いていったのだとしたら…


もし、私が忘れてしまったことで、この人を長い間苦しませていたのだとしたら…


怖かった。それでも、目を逸らすことはできなかった。アリアの唇が、ゆっくりと動く。


「あなたの、姉よ」


その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。


姉


その意味を理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。


姉?私の姉?目の前の女性が…アリアが…


私の――


「……お姉ちゃん?」


口からこぼれた言葉に、アリアの瞳から大粒の涙が落ちた。その瞬間、記憶の奥に閉じ込められていた声が、はっきりと蘇った。


――お姉ちゃん


幼い私が、何度もそう呼んでいる。白い花を抱えて走り、アリアの胸へ飛び込んでいる。転んで泣いた時も、怖い夢を見た時も、私はこの人を呼んでいた。


「アリア……お姉ちゃん……」


名前を呼ぶたび、胸の奥から懐かしさが溢れ出した。


会いたかった。


ずっと会いたかった。


忘れていたのに。


忘れてしまったからこそ、今まで理由も分からず探し続けていた。私はふらつきながら一歩前へ進んだ。

アリアもまた、泣きながら両手を広げる。

その腕の中へ飛び込んだ瞬間、白い花の香りに包まれた。知っている香りだった。幼い頃、何度もこの腕の中で嗅いだ香り。


「お姉ちゃん……」


声が震える。


「私、ずっと……あなたを知っていたのに……」

「ええ」


アリアは私を抱きしめ、震える声で答えた。


「ずっと、あなたを待っていたの」


白い花びらが、私たちの間を静かに舞い落ちた。





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