34 忘れられた国
アステリアが見えてから、船の上から笑い声が消えた。誰もが前方に浮かぶ島を見つめている。
近づくにつれて、その異様さはますますはっきりしてきた。海からそそり立つ黒い崖には波が激しく打ちつけているのに、その音はやはりどこか遠い。空には灰色の雲が重く垂れ込め、そのさらに上を、巨大な亀裂が南北へ走っていた。
まるで空そのものが傷ついている。
時折、亀裂の奥で黒いものが蠢くように見えた。
「あれが境界の亀裂か?」
レイブン様が低い声で尋ねる。
ローグ様は答えず、じっと空を見上げていた。やがて懐から魔道具らしきものを取り出したけれど、手のひらほどの円盤は激しく明滅した後、突然光を失った。
「……駄目だな」
「壊れたの?」
「いや、正常だ」
「正常なのに動かないの?」
「ここでは、ということだ」
嫌な答えだった。ローグ様によると、王国で使われている魔力測定の道具が、この島の近くではまともに働かないらしい。魔力がないわけではなく、むしろ逆だという。
「多すぎるんです」
グレンジャー様が海の向こうを見ながら説明してくれた。
「しかも流れが一定ではない。あちらこちらから別々の魔力が入り込み、互いに干渉している。こうなると普通の魔道具では正確に測れません」
「つまり?」
「人間に例えるなら、大勢が一度に喋っている部屋で、一人の声だけを聞き取ろうとしているようなものですね」
「なるほど」
それなら私にも分かる。
「ただし」
ローグ様が続けた。
「問題は、その中にこの世界のものではない魔力が混じっていることだ」
私は空を見上げた。
あの黒い亀裂
胸の奥が、またざわついた。
「黒い影?」
「おそらくな」
隣に立つレオンハルトの手が、私の手を包む。
その温もりに、私は少しだけ息を吐いた。
*
船が島の西側へ回り込むと、崖の切れ目に小さな入り江が現れた。古い記録に残されていた上陸地点らしい。かつては港だったのだろう。海から突き出した石造りの桟橋らしきものが残っていたけれど、その半分は崩れ、白い波に洗われている。船を直接つけることはできず、小舟に分かれて岸へ向かうことになった。
「足元に気をつけてください」
「分かってる」
レオンハルトに手を取られ、小舟から岩場へ降りる。
靴底が地面に触れた。その瞬間だった。
ドクン、と胸の奥が大きく脈打った。
「……っ」
身体から力が抜けそうになり、レオンハルトの腕がすぐに腰を支えた。
「ミキ!」
「大丈夫……ちょっと、びっくりしただけ」
けれど、自分でも分かっていた。ただ驚いただけではない。足の裏から何かが上がってきた。
熱でも冷気でもない…もっと不思議なもの。
懐かしさ…?その感覚が身体の中を駆け抜けた。
「ミキさん?」
グレンジャー様が駆け寄ってくる。
「痛みは?」
「ないです」
「眩暈は?」
「それもない。ただ……」
私は周囲を見た。
黒い岩
崩れた桟橋
その向こうに続く、細い石畳
初めて見る。間違いなく初めて見る場所だ。なのに…
「……知ってる気がする」
「何を?」
「ここ」
全員の表情が変わった。私はゆっくりと石畳へ目を向ける。
「この道を……知ってる」
言った途端、頭の奥に、何かが閃いた。
青い空
白い建物
花
誰かの笑い声
そして、小さな女の子が、石畳を走っている。
――待って
手を伸ばした瞬間、景色が消えた。
「ミキ!」
レオンハルトの声で我に返る。
いつの間にか、彼の腕を強く掴んでいた。
「……ごめん」
「何が見えました?」
「分からない」
私は額へ手を当てた。
「女の子がいた。ここを走ってた。今みたいな場所じゃなくて……もっと明るくて、人がいて」
「記憶?」
レイブンが尋ねる。
「分からない。私の記憶じゃないと思う」
少なくとも…坂元水姫として生きた五十五年間に、こんな場所へ来た覚えはない。この世界へ来てからだって…初めてだ。
ローグ様が険しい顔をする。
「守り人の魂に残った記憶かもしれない」
「魂に?」
「可能性の話だ。まだ決めつけるな」
そう言いながらも、ローグ様の顔は明らかに緊張していた。私はもう一度、石畳を見る。
さっきの女の子は…誰だったのだろう。
*
全員が上陸した後、私たちは古い道を進み始めた。
先頭はレイブン様と数人の騎士、中央に私とグレンジャー様、ローグ様、そのすぐ横をレオンハルトが歩き、後方にも騎士たちがついている。
完全に守られている。以前の私なら、申し訳なく思ったかもしれない。でも今は、ありがたく守ってもらうことにした。一人で何とかしないってそう決めたから…
道の両側には黒い森が広がっていた。
近くで見ると、木そのものが黒いわけではない。濃い緑色の葉が重なりすぎて、光がほとんど入らないのだ。けれど不思議なことに、森は死んでいなかった。
小さな花が咲いている。
白い花
足元に群生するそれを見た途端、私は立ち止まった。
「……これ」
あの香りだ。船の上で感じた、懐かしい花の香り。
私はしゃがみ込んだ。
「ミキ」
「大丈夫。見るだけ」
レオンハルトも隣へしゃがむ。
花は親指の先ほどの大きさで、白い五枚の花びらの中央だけが淡い青色をしていた。
「綺麗」
指を伸ばしかける。その瞬間、
――ミキ
手が止まった。
「……え?」
「どうしました?」
レオンハルトが私を見る。
「今……」
呼ばれた。確かに…私の名前を…
「誰かが、私を呼んだ」
全員が周囲を見る。剣が抜かれる音がした。
「どこからだ?」
レイブン様が尋ねる。
「分からない。でも……」
私は花を見る…違う、花が喋ったわけではない。
もっと遠い…島の奥から…
「向こう」
森の奥を指差す。
「誰かいる」
ローグ様が険しい表情で同じ方向を見る。
「白い鳥か?」
私は首を横に振った。
「違う」
あの鳥の声は分かる。これは別の声。
そして、なぜか怖くなかった。むしろ…
「……泣いてた」
「泣いていた?」
「うん」
声が泣いているように聞こえた。
*
それからしばらく進むと、森が突然途切れた。
目の前に広がった景色に、私は息を呑んだ。
「……街?」
かつて街だった場所。石造りの建物がいくつも並んでいる。ほとんどが崩れ、屋根も落ちていたけれど、道の形は残っている。中央には大きな広場があり、その向こうには高い塔のような建物が見えた。
千年以上前に滅びた国
それなのに、まるで昨日まで誰かが暮らしていたような、不思議な気配が残っている。
「おかしいな」
レイブンが呟いた。
「何が?」
「記録と違う」
「どういうこと?」
ローグ様が持っていた古い地図を広げる。
「上陸地点から旧市街までは、徒歩で半日近くかかるとある」
私は空を見る。まだ、それほど時間は経っていない。
「私たち、どれくらい歩いた?」
「一時間も経っていません」
レオンハルトが答えた。背中がぞくりとした。
距離が変わる。昨日、聞いたばかりだ。
「もう始まってるってこと?」
「そのようだな」
ローグ様が地図を睨む。
「全員、互いの位置を確認しろ。絶対に単独行動をするな」
騎士たちが応じる。レオンハルトは何も言わず、私の手を握った。
「離しません」
「うん」
「何があっても」
「分かった」
私は握り返す。髪飾りが温かい。
大丈夫…少なくとも今は一緒にいる。
*
旧市街へ足を踏み入れた。静かだった。風が建物の隙間を通り抜けているのに、やはり音が遠い。足音だけが石畳へ響く。私は周囲を見回しながら歩いた。不思議だ。どこを見ても知っているような気がする。
「あそこ……」
無意識に声が出た。
「何です?」
「分からないけど」
道の角を指差す。
「曲がったところに、噴水がある気がする」
全員が止まった。
「見えるのか?」
ローグ様に尋ねられ、首を振る。ここから先は建物に遮られて見えない。
「なんとなく」
レイブン様が先に進む。角を曲がった。しばらくして…
「……あるぞ」
声がした。私たちも後を追う。そこには崩れかけた小さな噴水があった。水は流れていない。
中央には翼を広げた鳥の像がある。
白い鳥
私は息を呑んだ。
「これ……」
像の足元に文字が刻まれている。読めない。この世界の文字とは違う。でも指先で触れた瞬間、頭の中に言葉が浮かんだ。
『帰還を願う者に、光の導きを』
「……読める」
自分の声が震えた。ローグ様が私を見る。
「何?」
「これ。読める」
「古代アステリア文字だぞ」
「でも、分かる」
私は刻まれた文字を見つめた。
「『帰還を願う者に、光の導きを』」
ローグ様の顔から表情が消えた。
「間違いないのか?」
「うん」
「この文字は、完全には解読されていない」
「でも……」
分かる…どうして?その時だった。
カチッ
小さな音がした。
「え?」
噴水の中央、鳥の像の目が白く光った。
「離れろ!」
ローグ様が叫ぶ。レオンハルトが私を抱き寄せる。
次の瞬間、世界が揺れた。
*
地面ではない。
空間そのものが歪んだ。
目の前にある建物が左右へ引き伸ばされ、石畳が波のように揺れる。
「何これ……!」
「ミキ、私から離れないでください!」
「うん!」
レオンハルトの腕を掴む。周囲で騎士たちが何か叫んでいる。けれど、声が聞こえない。
レイブン様が見える。ローグ様も、グレンジャー様も…なのに…遠い。
すぐそこにいるはずなのに、何十メートルも向こうにいるように見える。
「レオンハルト!」
「ここにいます!」
手を握る。強く、絶対に離さないとそう思った。
その瞬間、誰かが耳元で囁いた。
――その者を連れてくるな
「……え?」
女性の声…泣いていた声。
――一人で来て
「誰?」
白い光が弾けた。眩しい…反射的に目を閉じる。
手だけは、離さない絶対に…
「ミキ!」
レオンハルトの声。
「いるよ!」
握っている。ちゃんと手は…
ここに――
「あれ?」
感触が消えた。目を開けると誰もいなかった。
「……え?」
噴水も
街も
レイブン様も
ローグ様も
グレンジャー様も
そして
レオンハルトも
「レオンハルト?」
返事はない。
「……レオンハルト!」
声がどこにも届かない。
さっきまで握っていたはずの右手を見る。
空っぽだった。
「嘘……」
胸が冷たくなる。
「レオンハルト!」
走ろうとした。けれど、どこへ?周囲はさっきまでいた街ではなかった。
白い花が一面に咲いている。
その向こうには崩れていない真っ白な建物、青い空、暖かな風…まるで千年以上前のアステリアがそのまま残っているようだった。
「……ここ、どこ?」
その時、髪飾りが熱を持った。
「っ……」
深い蒼色の石が強く光っている。
私は両手でそれを包んだ。
「レオンハルト……?」
温かい。…いる…分からないけれどそう思った。
彼はどこかにいる。そして、私を探している。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
一人じゃない、今は見えないだけ…
「絶対に見つけてくれる」
違う。私は首を振った。
「……私も見つける」
待つだけじゃない。二人で帰ると約束したのだから…
その時、風が吹いた。白い花が一斉に揺れる。花びらが舞い上がり、私の前に一本の道を作った。
その先に誰かが立っていた。
女性
長い髪
白い服
こちらに背を向けている。
「……誰?」
女性がゆっくり振り返った。
顔を見た瞬間、息が止まった。
知らない人なのに…知っている。
「やっと……」
女性の唇が動く。その目から涙が一筋、こぼれた。
「やっと、帰ってきたのね」
胸の奥で、白い光が大きく脈打った。




