33 帰る場所を残して
部屋へ戻った頃には、窓の外がすっかり明るくなっていた。結局、一睡もしていない。眠いはずなのに、不思議と頭は冴えていた。三日後だったはずの出発が今日になり、しかも昼までには王城を出る。そう考えると、やることはいくらでもあるはずなのに、私は部屋の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。
「……何を持っていけばいいんだろう」
旅行とは違う。着替えや薬、食料――考えてみれば、そのあたりはきっと皆が用意してくれる。それ以前に、私はアステリアがどんな場所なのかさえ知らないのだ。ぼんやりと部屋を見回していると、椅子の上に置かれた袋が目に入った。
「あ……」
昨日、王都で買ってもらった毛糸だ。
袋を開けると、淡い生成りや深い緑、柔らかな灰色、それから少し青みがかった綺麗な糸が入っている。指先で触れると、ふわりとした柔らかな感触がした。
昨日、久しぶりに毛糸を見つけたことが嬉しくて、つい夢中になってしまった私をレオンハルトは黙って見ていた。
――欲しいものがあるなら、買いましょう
――こんなに?
――足りませんか?
思い出しただけで、口元が緩む。
「普通、逆でしょう」
多すぎると言っているのに…
一玉を手に取って、これで何を編もうかと考える。ショールもいい。靴下もいい。手袋もいいかもしれない。
「……レオンハルトに何か編むって、約束したんだった」
前に渡したお守りとは違うもの。今度は普段から身につけてもらえるものがいい。手袋か、マフラーか…でも騎士の人ってマフラーをするんだろうか。
そこまで考えて、ふと気づいた。
私は、帰ってきた後のことを考えている。以前の私なら、こんな時はきっと「やらなければならないこと」ばかりを考えていた。
守り人だから…私にしかできないから…誰かを守らなければならないから…
でも今は違う。帰ってきたら、何をしよう?そんなことを考えている。私は毛糸を袋へ戻し、持っていこうとして――やめた。
「置いていこう」
窓辺にある小さな籠へ、毛糸を一玉ずつ移していく。編み針もその横へ置いた。帰ってきたら、ここから続きを始めよう。まだ何も編み始めていないのに、不思議と「続き」という言葉がしっくりきた。これはきっと、編み物だけの続きではない。私の、これからの人生の続きなのだ。最後に青い毛糸へ指先で触れる。
「待っててね」
自分で言って、少し笑った。毛糸に話しかけてどうするんだろう。それでもいい。
ここに、帰る理由をひとつ置いていこう。
*
「ミキ様!」
勢いよく扉が開き、驚いて振り返るとエミリアが立っていた。その後ろにはリゼットとニーナ、最後にマルガレーテが静かに入ってくる。
「聞きました! 今日、出発されるって!」
「うん」
「三日後だって聞いていたのに!」
「私も昨日まではそう思ってた」
エミリアの顔が曇る。いつも明るい彼女がそんな顔をすると、胸が痛んだ。
「大丈夫だよ」
そう言ってから、私は少しだけ考えた。また、いつもの癖が出た。心配されると「大丈夫」と言ってしまう。でも、もう何でも一人で抱え込むのはやめようと決めたばかりだ。
「……とは、言い切れないけどね」
エミリアが目を丸くする。
「正直に言えば、怖いよ。すごく怖い。でも、一人じゃないから。レオンハルトもいるし、ローグ様も、グレンジャー様も、レイブン様もいる」
だから大丈夫、とは言わなかった。大丈夫かどうかなんて、誰にも分からない。
「でも、ちゃんと帰ってくるつもりだから」
エミリアの目にみるみる涙が浮かんだ。
「つもりじゃ嫌です。絶対に帰ってきてください」
隣ではニーナが何度も頷いている。
「そうです! 絶対です!」
「ニーナまで」
「だって……」
今にも泣きそうなニーナの背中を、リゼットがそっと撫でた。
「お帰りになったら、また皆でお茶にいたしましょう。王都のお話も、もっと聞かせてください」
「うん」
「それから」
リゼットの視線が私の髪へ向いた。
深い蒼色の髪飾り…
「昨日のお話も、詳しく」
「え?」
その一言にエミリアが勢いよく反応した。
「そうです! 私たち、まだちゃんと聞いていません!」
「話す必要ある?」
「あります。特に、その髪飾りを渡された時のレオンハルト様のご様子を」
「なんでそこまで……」
「重要です」
何がどう重要なんだろう。
「では、そのお話を伺うためにも、お戻りいただかなくてはなりませんね」
マルガレーテが穏やかに言った。
「マルガレーテまで……」
でも、ありがたかった。
「分かった。帰ってきたら、ちゃんと話す」
「全部ですね?」
エミリアが念を押す。
「……言える範囲で」
「全部です」
「それは無理」
昨夜のことまで話せるわけがない。絶対に…
そう思った瞬間、レオンハルトと交わした口づけを思い出してしまった。途端に頬が熱くなる。
「ミキ様?」
エミリアの目が輝いた。しまった……
「今、何か思い出しました?」
「何も」
「お顔が赤いです!」
「気のせい」
どこかで聞いたような返事だ。
「絶対に何かあります!」
「ないって」
「あります!」
「エミリア」
マルガレーテの静かな声に、エミリアがぴたりと止まった。
「今は出発の準備が先ですよ」
「……はい」
本当に残念そうだ。
助かった――と思ったのも束の間…
「お帰りになってから、ゆっくり伺いましょう」
「マルガレーテ……」
逃げ道は、完全になくなった。
*
荷物の準備は、思っていたより早く終わった。動きやすい服に厚手の外套、丈夫な靴。薬や水、保存食など、必要なもののほとんどは皆が整えてくれていた。
「これは必ずお持ちください」
マルガレーテから小さな布袋を渡される。開けてみると、中には小さな包みがいくつか入っていた。
「お菓子?」
「はい。疲れた時には甘いものが一番です」
「遠足みたい」
思わず笑いながらも、ありがたく荷物へしまった。
マルガレーテは私の髪に手を伸ばし、深い蒼色の髪飾りがきちんと留まっていることを確かめる。
「こちらも、どうか大切になさってください」
「うん。絶対に外すなって、レオンハルトにも言われてる」
「でしょうね」
なぜか微笑まれた。
「何?」
「いいえ」
絶対に何かある。そう思ったけれど、聞く前にマルガレーテの手がそっと私の頬へ触れた。
驚いて顔を見ると、彼女はいつもの穏やかな表情を浮かべていた。
「お帰りを、お待ちしております」
それだけだった。胸がいっぱいになる。
「……うん。行ってきます」
「はい。いってらっしゃいませ」
その言葉を聞いた途端、とうとうエミリアが泣き出した。ニーナも涙を堪えきれず、リゼットは二人の背中を撫でながら、自分も少し目を潤ませている。
私は三人を順番に抱きしめた。そして最後にマルガレーテを見る。一瞬迷ったけれど、両腕を広げた。
「マルガレーテも」
「私もですか?」
「もちろん」
私から抱きつくと、彼女の身体が一瞬だけ固まった。けれどすぐに、優しく背中へ腕が回る。
「……お気をつけて」
「うん」
温かな腕の中で、私はもう一度思った。
今度こそ、ちゃんと帰ってこよう。
*
王城の前には、すでに馬車と騎馬が並んでいた。
空は明るいのに、南の方角にだけ薄暗い雲がかかっている。その下を目を凝らして見ると、昨日よりも太くなった黒い線が遠い空を裂いていた。
「ミキ」
呼ばれて振り返る。こちらへ歩いてくるレオンハルトは、今日は完全な騎士の装いだった。王国近衛騎士団〈白銀の獅子〉の紋章を身につけ、腰には剣を下げている。昨日の街歩きで見せた柔らかな姿とはまるで違う。それでも、私を見る深い蒼色の瞳は同じだった。
「準備はできましたか?」
「うん」
「体調は?」
「大丈夫。グレンジャー様にも聞かれたけど、問題なし」
「なら良かった」
レオンハルトの視線が私の荷物へ移る。
「荷物が少ないですね。昨日の毛糸は?」
「置いてきた」
「置いてきた?」
少し驚いた顔をする。
「持っていこうかとも思ったんだけど、帰ってきてから編もうと思って」
私は王城を振り返った。ここから自分の部屋は見えない。それでも、あの窓辺には毛糸が置いてある。
「あなたに何か編むって約束したでしょう? だから、帰ってきたら編む」
「……覚えています」
「何が欲しい?」
「何でも」
「それが一番困るの」
「あなたが作ってくださるなら、何でも嬉しいので」
あまりにも自然に言われて、返事に困った。
「……そういうこと、さらっと言うようになったね」
「嫌でしたか?」
「まさか」
むしろ困るのは、嬉しすぎるからだ。
「じゃあ、帰りながら何を編むか考える」
「帰りながら?」
「うん。帰ってくる前提で話した方がいいでしょう?」
レオンハルトの表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「そうですね」
彼が私へ手を差し出した。
「行きましょう」
その手を見る。
昨日、王都で繋いだ手…
昨夜、私を抱きしめた手…
そしてこれから、一緒に戦う人の手…
私は迷わず握った。
「うん」
「必ず戻ります」
「二人でね」
「はい」
その言葉に応えるように、髪飾りがほんのりと温かくなった。
*
「そろそろいいか?」
声に振り返ると、レイブン様が少し離れたところでこちらを見ていた。
「何が?」
「いや、別に」
ニヤニヤしている。
「兄上」
レオンハルトの声が低くなる。
「何も言ってないだろ」
「言う前に分かります」
「便利になったな、弟よ」
「誰のせいですか」
二人のやり取りを見ていると、張り詰めていた気持ちが少しだけほどけた。そこへローグ様とグレンジャー様もやってくる。
「遊びに行くわけじゃないぞ」
ローグ様の言葉に私が頷こうとすると、彼はレイブン様を指した。
「ミキに言ったんじゃない。こいつだ」
「俺か?」
「お前だ」
「心外だな」
「はいはい。そこまでにしてください」
グレンジャー様が呆れたように二人を止め、それから私を見る。
「それよりミキさん、眠っていないでしょう」
ばれた。
「少しだけ」
「どれくらいです?」
「……ゼロ?」
「それは『少し』とは言いません。馬車の中で必ず休んでください」
「はい」
「レオンハルト様、お願いします」
「任せてください」
「また!」
いつの間にか、すっかり監視される側になっている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。この世界へ来たばかりの頃の私は、何が起きているのかも分からず、怖くても「大丈夫」と言っていた。でも今は、こんなにも心配してくれる人がいる。
私はもう、一人ではない。
*
王城を出た馬車は、南へ向かった。
王都を抜けて街道へ入り、しばらく走ると景色が少しずつ変わっていく。畑や村が遠ざかり、やがて木々が増え、その向こうに山並みが見え始めた。私はレオンハルトの隣に座り、流れていく景色を飽きることなく眺めていた。
「眠らないのですか?」
「寝ようとは思ってるよ」
「先ほどから、ずっと外を見ていますが」
「だって、見たことのない景色ばかりだから。こういうのも、ちゃんと覚えておきたくて」
「帰りにも見られます」
その言葉に、私は目を瞬いた。
「……そうだった」
思わず笑う。
「じゃあ寝ようかな」
「そうしてください」
目を閉じると、規則的な馬車の揺れと車輪の音が心地よく感じられた。隣にはレオンハルトがいる。それだけで、不思議なくらい安心する。
どれくらい経ったのか。
頭が何かに触れて、薄く目を開けると、私はレオンハルトの肩にもたれていた。
「ごめん」
慌てて離れようとすると、彼が小さく首を振る。
「そのままで」
「でも、重いでしょう?」
「全く」
「絶対嘘」
「嘘ではありません」
確かに眠かった。昨夜は一睡もしていないのだから当然だ。
「じゃあ……少しだけ」
「はい」
もう一度目を閉じる。すると、膝の上に置いていた手へ、そっと何かが触れた。レオンハルトの手だった。指が静かに絡む。私は目を開けないまま、その手を握り返した。
「……レオンハルト」
「はい」
「いる?」
「います」
「ずっと?」
ほんの少しの沈黙の後、落ち着いた声が返ってきた。
「あなたが望む限り」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「じゃあ、ずっとだね」
返事はなかった。ただ、繋いだ手に込められた力が少しだけ強くなった。それで十分だった…
*
次に目を覚ました時、最初に感じたのは潮の匂いだった。
「……海?」
身体を起こして窓の外を見る。遠くに、青く光るものが見えた。海だ。この世界へ来て初めて見る海は、前の世界とよく似ているのに、どこか違って見えた。空の青が少し濃く、海面には細かな銀色の光が揺れている。
「着いた?」
「港までは、もう少しです」
レオンハルトの言葉に頷きながら、私は窓へ近づいた。風に混じる潮の匂い。遠くで鳴く鳥の声。港へ向かう荷馬車の車輪の音。初めて見るものばかりで、本当ならもっと心が躍ってもいいはずなのに。
胸の奥が、ざわついていた。髪飾りへ触れる。温かい……王城にいた時より、ずっと…
「レオンハルト」
「はい」
「近づいてる」
彼の表情が変わる。
「分かるのですか?」
「うん、たぶん」
南…海の向こう。そこに何かがある。
私を待っている何かが。
*
港には、すでに船が用意されていた。
想像していたよりもずっと大きな帆船で、甲板では何人もの船員が慌ただしく出航の準備をしている。
「これで行くの?」
「ああ」
ローグ様が船を見上げた。
「通常なら、アステリアまでは半日以上かかる」
「通常なら?」
「今の海が通常とは限らない」
嫌な言い方だ。船へ乗り込んだ途端、足元が揺れた。
「わっ」
すぐに腰を支えられる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。船に慣れてないだけ」
前の世界でも、船に乗る機会なんてほとんどなかった。
「酔うかもしれませんね」
後ろからグレンジャー様がさらりと言う。
「嫌なこと言わないで」
「薬はありますよ」
「……先にもらっておこうかな」
「賢明です」
そんな会話をしているうちに、船がゆっくりと港を離れた。
岸が少しずつ遠ざかる…
王国が遠ざかっていく…
私は甲板に立ったまま、しばらく小さくなっていく陸地を見つめていた。
「ミキ」
隣にレオンハルトが立つ。
「寒くありませんか?」
「うん、大丈夫」
海から吹く風が髪を揺らした。レオンハルトが髪飾りへ手を伸ばし、外れそうになっていないか確かめる。
「大丈夫です」
「そんなに心配?」
「します」
即答だった。
「当然です」
思わず笑った時、白いものが視界の端を横切った。
「あ……」
空を見上げる。高いところを、一羽の白い鳥が飛んでいた。
「いた」
「白い鳥ですか?」
「うん」
鳥は私たちの船を追い越し、さらに南へ向かって飛んでいく。
まるで、こちらへ来いと…道を示すように。
*
海へ出て、どれほど経ったのだろう。最初は鮮やかな青だった空が、いつの間にか灰色へ変わっていた。風は冷たさを増し、穏やかだった波も次第に高くなっている。それ以上に気になったのは、音だった。
鳥の声がしない。
船員たちの声も、帆が風を受ける音も、波が船腹を叩く音さえ、薄い膜を一枚隔てた向こう側から聞こえてくるように遠い。
「……変だね」
「ああ」
珍しくレイブンも真剣な顔をしている。
「古い記録では、この辺りから異常が始まるとされている」
私は船縁から海を覗いた。海の色も変わっている。
青ではない。底が見えないほど暗く、まるで黒いものが水の下を満たしているようだった。
「ミキ」
ローグ様に呼ばれ、髪飾りへ触れる。
「……熱い」
さっきまでの温かさとは違う。はっきりと熱を持っている。その瞬間、胸の奥で白い光が強く脈打った。
「っ……」
身体が揺らぐ。すぐにレオンハルトの腕が肩を支えた。
「ミキ!」
「大丈夫」
そう答えながら、私は顔を上げた。
見える…遠く…灰色の霧の向こうに、何かがある。
「あれ……」
私が指差すと、皆の視線が同じ方向へ向いた。
風が吹いた。重く垂れ込めていた霧が、ゆっくりと左右へ流れていく。そして、その向こうに、島が姿を現した。海から切り立つ高い崖、その上を覆う黒い森、木々の間からは崩れかけた塔が突き出し、かつてそこに人が暮らしていたことを、辛うじて伝えている。
けれど、誰もが目を奪われたのは島ではなかった。
その上空…空そのものに、巨大な亀裂が走っていた。
黒い稲妻のようなものが、灰色の空を縦に引き裂いている。亀裂の周囲では景色がわずかに歪み、向こう側にあるはずのない暗闇が、時折覗いているように見えた。
誰も言葉を発しなかった。
私も、その島から目を離せない。
初めて見る場所のはずなのに、胸の奥が知っていると訴えている。
怖い
逃げたい
それなのに同時に、長い旅を終えて、ようやく帰ってきたような懐かしさが込み上げてきた。
「……どうして」
風に乗って、微かな香りが届いた。
花の香り
知らないはずの香りなのに、それを吸い込んだ瞬間、胸が締めつけられた。
懐かしい…どうしようもなく…泣きたくなるほどに。
その時、白い鳥が私たちの頭上を越え、島へ向かって飛んでいった。崩れた塔の上を一度旋回し、こちらを振り返る。
――ようやく来た。
声が頭の中に響いた。
私は無意識に、レオンハルトの手を探した。
すぐに大きな手が私の手を包み込む。
「ミキ」
「うん」
「私がいます」
その一言に、私は彼の手を握り返した。
千年以上前に滅びた国で最初の守り人の秘密が眠る場所。黒い影が待つ場所…そして――私がこの世界へ来た本当の理由がある場所。
私はゆっくり息を吸った。潮の匂いと、あの懐かしい花の香りが胸いっぱいに広がる。
「……あれが、アステリア」
言葉にした、その瞬間だった。
島の奥深く黒い森のさらに向こうで白い光が、一度だけ強く輝いた。まるでずっと私を待っていた誰かが
――ようやく見つけた
と、そう告げるように…




