32 明日を待たずに
「明日、出なければ間に合わない」
白い鳥の言葉を、私はすぐには理解できなかった。
窓の外には、いつもと変わらない夜が広がっている。月は静かに浮かび、王城の庭も、その向こうの森も、淡い光の中で眠っていた。
それなのに…遠い南の空から、何かがひび割れるような音が響いた。
聞き間違いだとは思えなかった。
「……三日後じゃ遅いの?」
「ああ」
「どれくらい時間があるの?」
白い鳥は、しばらく私を見つめた。
「分からない」
「分からないの?」
思わず声が大きくなる。
「明日じゃないと間に合わないって言ったのに?」
「境界が壊れる速度が変わった」
「どうして?」
「お前が完成したからだ」
胸がざわつく。また、その言葉…
完成した守り人
「私が……レオンハルトを好きになったから?」
口にしてから、こんな状況なのに頬が熱くなった。
けれど、白い鳥は笑わなかった。
「それだけではない」
「じゃあ、何?」
「お前は、自分の命を自分のものとして選んだ。誰かのために生きるのではない。誰かのために死ぬのでもない。自ら生きたいと願い、愛する者と共に未来を望んだ」
白い鳥の目が、静かに私を見つめる。
「それによって、守り人の魂は本来の形へ戻った」
「……それが、黒い影にも分かった?」
「ああ」
鳥は南へ顔を向けた。
「だから奴は待たない」
胸の奥が冷たくなる。
「完成した私の魂が欲しいから?」
「そうだ」
即答だった。
怖い……思わず両腕を抱く。
その時、髪に触れるものがあった。
今日、レオンハルトからもらったばかりの髪飾り。深い蒼色の石が、ほんのりと温かい。
私はそこへ手を添えた。不思議だった…怖いのに、触れていると少しだけ落ち着く。
レオンハルトの瞳と同じ色
帰ってきたら、また王都へ行こうと約束した。
猫を見る
編み物をする
もっといろんな場所へ行く
――絶対に帰ってこよう
「……分かった」
私は白い鳥を見る。
「みんなに話す」
「急げ」
「あなたも来る?」
白い鳥は答えなかった。
「ちょっと、またそうやって都合の悪いことは黙るの?」
「……」
「七百年以上生きてるなら、もう少し会話を覚えてもいいんじゃない?」
白い鳥が私を見る。なんとなく、呆れられた気がした。
「お前は、本当に変わった守り人だ」
「よく言われる」
「褒めてはいない」
「でしょうね」
こんな時なのに、少しだけ笑えた。
白い鳥が翼を広げる。
「夜明けまでに決めろ」
「分かった」
「アステリアで待っている」
「え?」
聞き返すより早く、白い鳥は夜空へ飛び立った。
「待って!」
窓から身を乗り出す。
「一緒に行くんじゃないの!?」
返事はない。
白い羽は月明かりの中へ溶けるように消えていった。
「……もう」
本当に自由な鳥だ。
でも、ぼやいている場合ではない。
私は上着を羽織り、部屋を飛び出した。
*
夜中の王城は静かだった。
廊下には最低限の灯りしかなく、私の足音だけがやけに大きく響く。
どこへ行けばいい?
ローグ様
グレンジャー様
レイブン様
迷ったのは一瞬だった。
気づけば、足はレオンハルトの部屋へ向かっていた。
扉の前まで来て、立ち止まる。
「……いや、待って」
こんな時間だ。当然、寝ているよね…
恋人になったからって、夜中に男性の部屋を訪ねるのはどうなんだろう。
いや、緊急事態だから…そう、これは緊急事態だ…
変な意味はない。全然ない……
「何を一人でやってるんだろ、私……」
小さく呟き、扉を叩こうと手を上げた。
その瞬間、扉が開いた。
「わっ!」
思わず一歩下がる。
そこに立っていたのは、レオンハルトだった。
「ミキ?」
「……起きてたの?」
「今、あなたの魔力が大きく揺れました」
「分かったの?」
「はい」
レオンハルトは、すでにシャツとズボンを身につけていた。銀色の髪だけが少し乱れていて、いつものきっちりした姿とは違う。
それを見た途端、なぜか目のやり場に困った。
「……どうしました?」
「何でもない」
「顔が赤いですが」
「気のせい」
「しかし」
「それより大変なの!」
強引に話を戻すと、レオンハルトの表情が変わった。
「何があったのですか?」
「白い鳥が来たの」
「部屋に?」
「窓のところに」
私は、さっき告げられたことを説明した。
三日では遅いこと
境界が壊れる速度が変わったこと
そして、明日には出発しなければならないこと
話を聞き終えたレオンハルトは、しばらく黙っていた。
「……分かりました」
「信じるの?」
「もちろんです」
あまりに迷いのない返事に、私は目を瞬いた。
「でも、ローグ様の判断とは違うんだよ?」
「それでもです」
「どうして?」
レオンハルトは、まっすぐ私を見た。
「あなたが、そう感じたのでしょう?」
「うん」
「なら、無視するべきではありません」
その言葉が嬉しかった。守り人だから信じるのではない。私が伝えたから、信じてくれる。
「ローグ様を起こしましょう」
「怒られない?」
「怒るでしょうね」
「やっぱり?」
「ですが、起こします」
「頼もしい」
そう言って笑った。
けれど、レオンハルトは笑わなかった。
「……レオンハルト?」
「ミキ」
低い声だった。
「何?」
「怖くありませんか?」
思いがけない問いに、私は一瞬だけ「大丈夫」と答えそうになった。いつもの癖だった。
心配されると、反射的にそう返してしまう。
でも、もう一人で抱え込まないと決めた。
「……怖いよ」
口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ溢れた。
「すごく怖い」
声が震える。
「アステリアに何があるのか分からないし、黒い影は私の魂を狙ってる。それに……」
言葉が途切れた。
「もし帰ってこられなかったらって考えると、怖い」
今日一日が楽しかったから、余計に怖かった。
王都へまた行きたい
猫を見たい
編み物をしたい
レオンハルトと、もっといろんな場所へ行きたい
生きたい理由が、増えてしまった。俯いた私の頬に、温かな手が触れた。顔を上げると、深い蒼色の瞳がすぐ近くにあった。
「私もです」
「……え?」
「私も、怖いです」
初めて聞いた。この人が、自分からそんな言葉を口にするのを……
「あなたを失うことが」
胸が痛いほど締めつけられた。
「守れないことも、間に合わないことも怖い。そして――」
彼の指が、私の頬をそっと撫でる。
「あなたのいない場所へ、一人で戻ることが一番怖い」
「……レオンハルト」
「だから、必ず帰ってきてください」
私は首を横に振った。
レオンハルトの表情がわずかに強張る。
「違う」
彼の手に、自分の手を重ねた。
「私だけじゃないでしょう?」
「……」
「二人で帰るの」
今日、王都で交わした約束を思い出す。
「猫を見るんでしょう?」
「はい」
「またデートするんでしょう?」
「はい」
「編み物だってしたいし、まだこの世界で見ていないものがいっぱいある」
「はい」
私は彼の手を握った。
「だから、絶対に一緒に帰ってこないとね」
レオンハルトの目が揺れた。
次の瞬間、強く抱きしめられる。
「わっ……」
腕の中へ包み込まれた。
力強いのに、苦しくはない。
私も彼の背中へ腕を回す。
耳を寄せると、速い鼓動が聞こえた。
「レオンハルト」
「はい」
「心臓、すごいよ」
「……言わないでください」
思わず笑ってしまう。
「私も同じだから」
少しだけ身体を離すと、目が合った。
近い。さっきまで笑っていたのに、急に何も言えなくなった。レオンハルトの手が頬に触れたまま、親指がそっと肌をなぞる。
「ミキ」
「……うん」
「口づけても?」
胸が跳ねた。
恋人になった時にも口づけを交わしたのに、こうして尋ねられると、やはり緊張する。
私は小さく頷いた。
「うん」
レオンハルトの顔が近づく。
唇が重なった。短い口づけだった。
触れて、離れる。それだけなのに、胸の奥まで温かくなる。
彼の額が、私の額にそっと触れた。
「……帰ってきましょう」
「うん」
「必ず」
「二人で」
レオンハルトが、わずかに目を細めた。
「はい。二人で」
そのまま離れるのかと思った。
けれど、彼の腕が緩む前に、私はシャツの裾をつまんだ。
「あの」
「どうしました?」
「……もう一回は?」
言ってしまった。レオンハルトが固まる。
「嫌なら、いいけど」
「嫌ではありません」
返事だけは早かった。
「では、なぜ黙るの?」
「心の準備をしていました」
「さっき自分からしたでしょう?」
「それとこれとは違います」
思わず笑う。
「じゃあ、もういい」
照れ隠しに離れようとした。けれど、腰に腕を回される。
「え?」
引き寄せられ、再び彼の胸に触れた。
「断れるはずがないでしょう」
低い声が耳元に落ちる。
「あなたが望んでくれたのに」
今度の口づけは、さっきより長かった。
触れた唇が離れかけ、また重なる。
胸の奥が苦しいほど高鳴り、思わず彼のシャツを掴んだ。
やがて唇が離れる。近すぎる距離で目が合った。
先に視線を逸らしたのは私だった。
「……心臓に悪い」
レオンハルトが小さく笑う。
「私もです」
「嘘。余裕そう」
「まさか」
彼は私の手を取り、自分の胸へ導いた。
掌の下で、鼓動が速く打っている。
「……本当だ」
「ですから、そう言ったでしょう」
なんだか嬉しくなって、笑みがこぼれた。
「笑わないでください」
「ごめん」
そう言いながら、また笑ってしまう。
レオンハルトも、困ったように口元を緩めた。
明日が怖くないわけではない。けれど、胸を埋めていた冷たさは、少しだけ薄れていた。
レオンハルトの指が、私の髪へ触れる。
深い蒼色の髪飾りが、淡く光った。
「……また」
二人で石を見つめる。
蒼い光は、呼吸するようにゆっくり明滅していた。
「約束に反応してるのかな」
「だとしたら」
レオンハルトが石へそっと触れる。
「何度でも約束しましょう」
「何を?」
彼は私を見る。
「二人で帰ってくると」
胸が温かくなる。
「うん」
私は頷いた。
「二人で帰ってこよう」
「はい」
髪飾りが、もう一度淡く光った。
*
「明日だと?」
予想通り、ローグ様は不機嫌だった。
深夜の会議室には、私とレオンハルト、寝起きとは思えないほど身なりの整ったローグ様、そして明らかに寝起きのグレンジャー様が集まっていた。
グレンジャー様の髪が少し跳ねている。
珍しい…見てはいけないと思いつつ、つい目が向いた。
「ミキ様」
「はい」
「今、私の髪を見ましたね?」
「見てません」
「見ましたよね?」
「大丈夫です。いつもより親しみやすいです」
「それは褒めていますか?」
「多分」
「ミキ」
レオンハルトに静かに呼ばれる。
「はい」
怒られた。少しだけ…
その向こうでは、レイブン様が欠伸を噛み殺している。
「それで?」
ローグ様が机に手をつく。
「白い鳥がそう言ったのか」
「はい」
「三日では遅いと」
「はい」
「根拠は?」
「聞いてません」
「……」
「すみません」
「なぜ聞かない」
「聞こうとしたら飛んでいったんです」
ローグ様が眉間を押さえた。
「本当に勝手な鳥だな」
「私もそう思います」
意見が合った。
「ただ」
私は真面目な顔に戻る。
「嘘を言っているとは思えませんでした」
ローグ様が私を見る。
「それに、境界が壊れる音を聞きました」
「音?」
「南の方から。何か大きなものにひびが入るような音」
ローグ様とグレンジャー様が顔を見合わせる。
「王城では確認されていません」
グレンジャー様が言う。
「つまり、ミキ様にだけ聞こえた?」
「多分」
「守り人だから、か」
ローグ様が呟く。
「それと」
レオンハルトが口を開く。
「髪飾りが南の方角へ反応しているようです」
「見せてくれ」
ローグ様が調べる。
深い蒼の石は、今も淡い光を宿していた。
「昨日より魔力が安定している」
「良いこと?」
「少なくとも暴走はしていない」
ローグ様が石から手を離す。
「ミキ様の魔力と、レオンハルトの魔力。その二つを媒介するような形になっている」
「媒介?」
「簡単に言えば」
グレンジャー様が私を見る。
「二人を繋いでいる、と考えるのが近いかもしれません」
私とレオンハルトは、同時に黙った。
レイブン様が笑う。
「良かったな」
「兄上」
「何も言ってないだろ」
「その顔で十分です」
「だが」
ローグ様の一言で、空気が戻る。
「それなら使えるかもしれない」
「何に?」
「アステリアでの位置確認だ」
地図が広げられる。
「以前の調査記録では、アステリアでは空間が歪み、仲間とはぐれた者が多い」
昨日聞いた話だ。
進んでも元の場所へ戻る
距離が変わる
時間の感覚まで狂う
「もしこの石が二人の魔力を繋いでいるなら、互いの位置を感じ取れる可能性がある」
私は髪飾りへ触れた。
「つまり、もしはぐれても…」
ローグ様がレオンハルトを見る。
「互いを探せるかもしれない」
レオンハルトの表情が変わった。
「ならば、必ず身につけていてください」
「もちろん」
「絶対に外さないでください」
「分かってるって」
「何があってもです」
「はいはい」
「ミキ」
「……はい」
本気だ。思わず笑ってしまう。
「分かった。絶対に外さない」
「お願いします」
そのやり取りを見ていたレイブンが、小さく呟いた。
「完全に尻に敷かれてるな」
「兄上」
「逆じゃない?」
思わず聞くと、グレンジャー様が吹き出した。
ローグ様まで口元を押さえている。
「……話を戻すぞ」
ちょっと笑っていたでしょう。絶対……
*
結論は、夜明けとともに準備を開始し、昼までに出発することになった。三日後だった予定が、半日後になった。同行するのは、私、レオンハルト、ローグ様、グレンジャー様、そしてレイブン様。その他に、航路とアステリア周辺の地形に詳しい者を数名選ぶことになった。
「グレンジャー様も行くの?」
私が尋ねると、本人が眉を上げた。
「行きますよ」
「危なくない?」
「それをミキ様が言いますか?」
「……確かに」
「守り人の身体に何が起こるか分からない場所へ、医師が同行しないという選択肢はありません」
「ありがとうございます」
「ただし」
嫌な予感がした。
「無茶をしたら、その場で止めます」
「はい」
「返事だけではなく」
「分かってます」
「本当に?」
「……多分」
「レオンハルト」
「任せてください」
「ちょっと!」
いつの間にか監視役が増えている…レイブン様が笑った。
「諦めろ、ミキ」
「レイブン様まで」
「俺も見張っておく」
「いらない」
「ひどいな」
そんな会話をしている間にも、窓の外が少しずつ白み始めていた。
夜が終わる。
アステリアへ向かう日が始まる。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、私は一人ではない。
髪飾りへ触れる。
深い蒼色の石は、静かな温もりを残していた。
唇にも、まだ彼の温もりが残っているような気がした。
私は隣に立つレオンハルトを見る。
目が合う。一瞬、二人とも何も言わなかった。
けれど、さっきの口づけを思い出しているのは、きっと私だけではない。
レオンハルトが、ほんの少し視線を逸らした。
耳が赤い。思わず笑いそうになる。
「……何ですか?」
「何でもない」
「笑っていますが」
「気のせい」
今度は私がそう答えた。
レオンハルトが困ったように息を吐く。
その横顔を見ながら、私は心の中でもう一度、同じ言葉を繰り返した。
帰ってこよう
必ず
二人で
そして今度は…
今日の続きをしよう。




