31 境界の向こうへ
王城へ戻る馬車の中は、行きとはまるで違う空気に包まれていた。
朝はあんなに浮かれていたのに、今は隣に座るレオンハルトの表情もすっかり騎士のものへ戻っている。彼は窓の外を鋭く見つめ、私は何度も南の空を振り返った。けれど王都を離れる頃には、あの黒い筋は建物の陰に隠れて見えなくなっていた。
それでも、胸の奥に残ったざわつきは消えない。
――来い
あれは確かに聞こえた。正確には、耳で聞いたわけではない。もっと内側、魂に直接触れられたような感覚だった。
「ミキ」
レオンハルトに呼ばれて顔を上げる。
「気分は悪くありませんか?」
「うん、大丈夫。……でも、こうなるとグレンジャー様に会った瞬間、また聞かれそう」
「聞かれるでしょうね」
「絶対に『体調に変化は?』って聞くよね」
「必要なことです」
「分かってるけど」
いつも通りの彼の声に、少しだけ安心する。
その時、馬車が大きく揺れた。身体が傾いた瞬間、レオンハルトがすぐに私の肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう」
顔を上げると、思ったより近くに彼の顔があった。ほんの一瞬、デートの時の甘い空気が戻る。
けれど、レオンハルトの視線は私の髪へ移った。今日もらったばかりの髪飾りを見ている。
「どうしたの?」
「髪飾りが、少し温かいようです」
彼が指先で石に触れる。私も確かめてみると、深い蒼色の石は確かにほんのりと熱を持っていた。さっきまでは、こんな感触ではなかったはずだ。
「どうして?」
「王城へ戻ったら、ローグ様に見てもらいましょう」
「壊れたのかな」
「そうではないと思います」
「じゃあ、何?」
レオンハルトは少し考えてから、私の髪飾りを見つめた。
「魔力に反応している可能性があります」
石の奥で、淡い光が一瞬だけ揺れた。
*
王城へ着くと、玄関前にはすでに何人もの騎士が集まっていた。馬車が止まるより早くレオンハルトが扉を開け、私へ手を差し出す。
「足元に気をつけてください」
「うん」
馬車を降りると、玄関前に張り詰めた空気が漂っているのが分かった。普段なら人の出入りや話し声が絶えない場所なのに、今日は誰もが声を潜めている。
その中から、見慣れた人影が近づいてきた。
「遅かったな」
レイブンだった。
「すみません」
「謝るな。せっかくのデートだったんだろ」
「兄上」
レオンハルトがたしなめると、レイブンは肩をすくめた。
「はいはい。状況を伝えるぞ。南方国境に近い三か所で、同時に異常魔力が確認された。空に現れた黒い亀裂も、すべて同じ方向へ伸びている」
「アステリアですか?」
レオンハルトが尋ねる。
「ああ」
胸の奥が重くなった。
「ローグ様は?」
「会議室だ。ベルンもいる。ミキもすぐに来てくれ」
「分かりました」
歩き出そうとした時、レイブンの視線が私の髪へ向いた。
「それにしても、その髪飾りは何だ?」
「え?」
「見慣れないものだな」
反射的にレオンハルトを見ると、彼は何も言わずに視線を逸らした。
「今日、もらったの」
「へえ。誰に?」
「兄上」
「聞いただけだろう」
「分かっていて聞いているでしょう」
「もちろん」
こんな状況なのに、少しだけ空気が緩んだ。
レイブンは髪飾りを見てから、私に笑いかける。
「良かったな」
誰に向けた言葉なのかは分からなかったけれど、たぶん私たち二人に向けたものだろう。
私は髪飾りに触れながら、小さく笑った。
「うん。大事にする」
隣で、レオンハルトがわずかに息を詰めた。
*
会議室へ入ると、エドワード――ローグ様が大きな地図の前に立っていた。その隣にはグレンジャー様がいて、机の上には書類と、魔力測定に使うらしい結晶が並べられている。
「ミキ様」
グレンジャー様が真っ先にこちらへ歩み寄った。
「体調に変化はありませんか?」
やっぱり聞かれた。
「大丈夫です」
「頭痛、吐き気、動悸、眩暈は?」
「ありません」
「魔力が勝手に動くような感覚は?」
少し考えてから、私は頷いた。
「あります」
グレンジャー様の表情が変わる。
「いつからです?」
「王都で警戒鐘が鳴った時です」
部屋の空気が一気に引き締まった。
ローグ様が地図から顔を上げる。
「詳しく話してくれ」
私は、王都で見た黒い筋のこと、胸の奥で白い光が脈打ったこと、そして「来い」と呼ばれたように感じたことを説明した。話し終えると、しばらく誰も口を開かなかった。
「呼ばれたのか」
ローグ様が低く呟く。
「たぶん」
「黒い影にか?」
「分かりません。ただ、白い鳥の声とは違いました」
「どう違う?」
「白い鳥の声は、もっと静かで、どこか懐かしい感じがします。でも、今回のものは冷たくて……ぞっとしました」
ローグ様は腕を組み、地図へ視線を戻した。
「国境で確認された魔力と、ミキ様が異変を感じた時刻は一致している」
「ということは、ミキを意図的に呼んでいるということですか?」
レオンハルトが尋ねる。
「その可能性は高い」
その言葉を聞いた瞬間、私は無意識に拳を握りしめた。
「それと、もう一つあります」
私は髪飾りへ手を伸ばした。
「これが温かくなりました」
ローグ様の視線が髪飾りへ向く。
「それは?」
「今日、レオンハルトにもらったものです」
「なるほど」
ローグ様は一瞬だけレオンハルトを見た。
「何ですか?」
「いや。良い色だと思っただけだ」
絶対にそれだけではない気がしたけれど、今は追及している場合ではない。髪飾りを外そうとすると、ローグ様が手で制した。
「そのままでいい。少し調べる」
ローグ様が指先をかざすと、淡い光が石を包んだ。すると、蒼色の石がほんのりと明るくなる。
「これは……」
ローグ様の眉が寄った。
「何か分かりましたか?」
「魔力が入っている」
レオンハルトが驚いたように髪飾りを見る。
「私は何もしていません」
「分かっている」
「では、なぜ?」
私が尋ねると、ローグ様は石を見つめたまま答えた。
「正確には、魔力が入ったというより、定着し始めている」
「定着?」
「持ち主の魔力を少しずつ吸収しているようだ」
一瞬、不安になる。
「それは大丈夫なんですか?」
グレンジャー様が石を確認しながら答えた。
「吸収している量はごくわずかです。命に関わるようなものではありません」
「むしろ逆だ」
ローグ様が続ける。
「この石は、ミキ様の魔力だけでなく、レオンハルトの魔力にも反応している」
「私の魔力に?」
レオンハルトが眉を寄せる。
「なぜです?」
「これを選んだ時の感情が、石に残っているのかもしれません」
グレンジャー様が何気なく言うと、レオンハルトが黙り込んだ。
「強い魔力を持つ者が、強い感情を抱いて選んだ物には、その感情とともに魔力が残ることがあります」
私は思わずレオンハルトを見る。
「強い感情って……」
レイブンが吹き出した。
「へえ。なるほどな」
「兄上」
「何も言っていないだろう」
「言っているのと同じです」
レイブンは楽しそうに笑っている。レオンハルトは困ったように視線を逸らした。私は髪飾りへ触れた。
「じゃあ、これにはレオンハルトの魔力が残っているの?」
「微量ですが」
グレンジャー様が頷く。
「そこへミキ様の魔力が触れたことで、何らかの形が生まれ始めているようだ」
「守護紋みたいなもの?」
以前、編んだお守りに魔力が宿ったことを思い出す。
「似ているが、同じではない」
ローグ様は石から手を離した。
「まだ詳しいことは分からない。ただし、これは身につけておいた方がいい」
「もちろんです」
私は即答した。レオンハルトがこちらを見る。
「大事なものだから、絶対に外しません」
そう言うと、彼は一瞬だけ息を止めたようだった。
レイブンがまた何か言いかけたけれど、ローグ様に睨まれて、今度こそ黙り込んだ。
*
地図の上には、三つの赤い印がつけられていた。どれも南方にあり、その先には海が広がっている。さらに海の向こうには、古い文字で島の名が記されていた。
「アステリア」
私が読み上げると、ローグ様が頷いた。
「正確には、かつてアステリアと呼ばれていた場所だ。今は国として存在していない」
「人は住んでいないの?」
「ほとんどいないとされている」
「ほとんど?」
「過去に調査隊が入った記録はある。だが、戻らなかった者の方が多い」
背筋が冷たくなった。
「何があるの?」
「分からないから危険なんです」
グレンジャー様が答える。
「魔物だけではありません。空間そのものが安定していないという記録もあります」
「空間が?」
「場所によって距離が変わる。進んでいるはずなのに、いつの間にか元の場所へ戻っている。時間の感覚が狂う。そういった報告が残っています」
私は地図を見つめた。そこへ行かなければならない。
「いつ出発するの?」
誰もすぐには答えなかった。やがて、ローグ様が私を見る。
「三日後を予定している」
「三日後……」
「早すぎます」
レオンハルトがすぐに反論した。
「準備が足りません」
「分かっている。だが、待ってはいられない」
ローグ様の指が、国境の赤い印をなぞる。
「今日確認された亀裂は、三時間で二倍に広がった。このままなら、数日でこちら側の境界にも影響が出る」
「そんなに早く?」
「ああ」
部屋が静まり返る。
デートの帰り道、私は「待ってくれないみたい」と言った。まさか、本当にそうなるとは思わなかった。
「私、行きます」
「ミキ」
レオンハルトが低い声で私を呼ぶ。
「分かってる。怖いよ」
私は彼を見つめた。
「アステリアがどんな場所なのかも分からないし、黒い影が何をするのかも分からない。守り人の魂が狙われていることだって知ってる。それでも、行かないという選択肢はもうないんでしょう?」
誰も答えなかった。その沈黙が答えだった。
「なら、行く」
私は息を吐き、皆を見回した。
「ただし、今度は私一人で何とかしようとはしない。ちゃんとみんなに頼る」
ローグ様がわずかに目を細める。
「そうしてくれ」
グレンジャー様が小さく笑った。
「ようやく覚えてくださいましたね」
「遅かったですか?」
「かなり」
「ひどい」
思わず口を尖らせると、隣からレオンハルトが私を呼んだ。
「ミキ」
「何?」
「私も行きます」
「うん」
「何があっても、あなたの側を離れません」
胸が温かくなる。けれど、少しだけ意地悪をしたくなった。
「それは、護衛として?」
レオンハルトが目を見開き、レイブンが笑いを堪える。
「……恋人としてです」
彼は迷いなく答えた。
「もちろん、護衛としても」
「そっか」
私は笑って、彼の手にそっと触れた。
「じゃあ、安心した」
「本当に?」
「うん。少しは」
完全に不安が消えたわけではない。それでも、一人ではないと思えるだけで、心強さはまるで違った。
*
会議が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
部屋を出ると、長い廊下に灯りが並んでいる。隣を歩くレオンハルトは、さっきから黙ったままだった。
「どうしたの?」
「今日のことを考えていました」
「デートのこと?」
「はい」
レオンハルトは足を止め、私を見る。
「こんなことになるなら、もう少しゆっくり過ごせばよかったと思っています。もっとあなたの行きたい場所へ連れて行きたかった」
悔しそうな顔をする彼を見て、私は思わず笑った。
「何ですか?」
「ううん。十分だよ」
私は髪飾りへ触れた。深い蒼色の石が、廊下の灯りを受けて静かに輝いている。
「すごく楽しかったし、これももらったから」
「それでも……」
「本当に十分。だから、帰ってきたらまた行けばいいでしょう?」
レオンハルトが黙る。
「猫も見るんでしょう?」
「はい」
「編み物もするし」
「はい」
「まだまだ、やりたいことはいっぱいあるよ」
「……そうですね」
ようやく、彼の表情が少し和らいだ。
私は彼の手を取る。
「だから、絶対に帰ってこよう」
「はい」
「約束」
「約束です」
その瞬間、髪飾りの石が淡く光った。
私もレオンハルトも、同時にそれに気づく。
「今、光ったよね?」
「はい」
髪飾りに触れると、石は温かかった。けれど、さっきまでとは違う。不思議と怖くはなく、まるで私たちの約束に返事をしたように感じられた。
*
その夜、私はなかなか眠れなかった。
ベッドに入ってから何度も寝返りを打つ。明日から準備が始まり、三日後にはアステリアへ向かう予定だ。
最初の守り人
黒い影
境界
そして、私がこの世界へ来た本当の理由。そのすべてが、アステリアにあるのかもしれない。目を閉じると、また声がした。
――来い
今度は、さっきよりも近い。
私は目を開けた。部屋は静まり返り、月明かりだけが床に落ちている。
「……誰?」
返事はなかった。
代わりに、窓の外で白いものが動いた。
私は起き上がり、窓辺へ近づく。
そこには白い鳥がいた。
「あなた……」
鳥は私を見つめ、それから今度ははっきりと声を発した。
「時間がない」
「分かってる。三日後には出発するんでしょう?」
「違う」
鳥の声が低くなる。
「三日では遅い」
背筋が冷えた。
「どういうこと?」
白い鳥が翼を広げる。
「境界は、もう壊れ始めている」
「でも、ローグ様は三日後だと……」
「人が測れるものだけを見ている」
私は窓枠を掴んだ。
「じゃあ、いつ出ればいいの?」
白い鳥は、迷いなく答えた。
「明日」
「……明日?」
「明日、出なければ間に合わない」
月明かりの中で、白い羽が揺れる。
胸の奥で白い光が強く脈打った。
その直後、遠い南の空で、何かがひび割れる音がした。




