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30 初めてのデート



「……何を着ればいいんだろう」


翌朝、私は開け放たれた衣装棚の前で腕を組んでいた。


普段なら、用意してもらった服を着て終わりだ。こちらの世界へ来てからというもの、私の身の回りのことはマルガレーテさんたちが何から何まで整えてくれるので、正直なところ服装について悩むことなんてほとんどなかった。


けれど今日は違う。


デートなのだ。


しかも、この世界へ来て初めての……


昨日、自分から「恋人らしいこともしたい」と言った。王都へ行きたいとも、デートがしたいとも言った。その時は勢いで言えてしまったのに、一晩経ってみれば急に恥ずかしくなってきた。


(五十五にもなって、デートの服で悩むとは思わなかったわ……)


いや、今の見た目はずっと若い。それでも中身まで若返ったわけではないし、そもそも前の人生で「デートに何を着よう」なんて悩んだのは、一体何十年前の話だろう。


「ミキ様」


背後から声をかけられて振り返ると、エミリアさんがとても楽しそうな顔で立っていた。


「……何?」

「お困りですか?」

「別に」

「そうですか」

「うん」

「では、そちらの三着は何でしょう?」


指差された先には、私が衣装棚から引っ張り出した三着のドレスが並んでいた。


「……ちょっと気になっただけ」

「なるほど」


エミリアさんの笑顔が深くなる。


「デートですものね」

「言わなくていいから!」


思わず振り返ると、いつの間にかリゼットさんとニーナちゃんまで部屋へ入ってきていた。しかも、二人とも何かを持っている。


「待って。何それ」

「候補のお衣装です」


リゼットさんが当然のように答える。


「どうして増えてるの?」

「エミリアが、ミキ様がお困りになるだろうと」

「だって初めてのデートですよ?」

「だからって、こんなにいらないでしょう!」


三人の後ろから、さらにマルガレーテさんが入ってくる。もう逃げられない。


「ミキ様」

「……はい」

「本日は私どもにお任せくださいませ」


その完璧な微笑みを見た瞬間、私は悟った。


これはもう、逆らってはいけない。


*


結局選ばれたのは、淡い青色のワンピースだった。


こちらの世界ではドレスと呼ぶらしいけれど、王城で普段着ているものよりずっと軽やかで、裾も歩きやすい。派手すぎない刺繍が胸元と袖に入っていて、腰には白い細いリボンが結ばれている。


「可愛いけど……若すぎない?」


鏡の前で尋ねると、エミリアさんが即座に首を横へ振った。


「全然です!」

「本当に?」

「ミキ様はお若いんですから」

「見た目はね……」


思わず呟く…鏡に映っている自分を見ると、今でも時々不思議な気持ちになる。そこにいるのは、どう見ても若い女性だ。肌も髪も、前の人生とは違う。


でも…

レオンハルトが好きになってくれたのは、この姿だけじゃない。


私が前の世界で生きてきたことも知っている。


夫がいたことも

子どもがいたことも

それでも、好きだと言ってくれた。


そう思うと、鏡の中の自分を以前より少しだけ素直に受け入れられる気がした。髪はいつもより少し丁寧に整えてもらった。耳の横を軽く編み込み、後ろでまとめてもらう。


「今日はこれくらいで」


リゼットさんが言う。


「髪飾りは?」


エミリアさんが尋ねると、マルガレーテさんが静かに首を横へ振った。


「本日は、このままでよろしいでしょう」

「そう?」

「ええ」


なぜかマルガレーテさんだけ、少し意味ありげな顔をしている。


「……何?」

「いえ、何も」


絶対、何かある。


でも聞いても教えてくれそうにないので、私は諦めた。


「どう?」


振り返ると、四人が黙っていた。


「え、何?」


最初に口を開いたのはニーナちゃんだった。


「……とても、お綺麗です」

「ありがとう」

「レオンハルト様……」

「ニーナ?」

「いえ!」


その横でエミリアさんが満面の笑みを浮かべている。


「楽しみですねぇ」

「何が?」

「レオンハルト様の反応です」

「やめてよ!」


せっかく落ち着いていたのに、また緊張してきた。


*


待ち合わせは王城の玄関だった。


なぜ同じ城に住んでいるのに待ち合わせをするのか、と最初は思ったけれど、エミリアさん曰く「デートとはそういうものです」らしい。


本当だろうか。


階段を降りながら、私は何度も服の裾を確認していた。


「変じゃないよね?」

「大丈夫です」


隣を歩くマルガレーテさんが答える。


「髪も?」

「大丈夫でございます」

「やっぱり別の服の方が――」

「ミキ様」

「はい」

「前をご覧くださいませ」


言われて顔を上げた。


そして…足が止まった。


玄関ホールにレオンハルトが立っていた。


今日は騎士の制服ではない。白いシャツの上に濃紺の上着を羽織り、腰には剣だけを下げている。いつもより少し柔らかい格好なのに、背が高くて姿勢がいいから、何を着ても様になる。


(……格好いい)


今まで何度も見てきた人なのに、恋人になった途端、どうしてこんなに違って見えるんだろう。

するとレオンハルトも私に気づいた。


深い蒼色の瞳がこちらを向く。


そのまま、動かなくなった。


「……?」


私は階段を降りて、彼の前まで行った。


「お待たせしました」


返事がない。


「レオンハルト?」

「……はい」

「どうしたの?」

「いえ」

「何か変?」


慌てて服を見る。


「やっぱり、ちょっと若すぎたかな」

「違います」


今度は即答だった。


「では、何でしょう?」


尋ねると、レオンハルトは私を見たまましばらく黙っていた。


やがて、少し困ったように息を吐く。


「……綺麗です」


胸が跳ねた。


「とても」


二回言わなくてもいいのに。


「ありがとう」


それだけ答えるのが精一杯だった。

ふと後ろを見ると、エミリアさんが両手で口元を押さえている。


やっぱり見てた。

しかも、ものすごく嬉しそう。


「エミリアさん」

「いってらっしゃいませ!」

「まだ何も言ってないでしょう」

「お気をつけて!」


追い出されたよ…


*


王城を出ると、空は気持ちよく晴れていた。


朝の光が石畳を淡く照らし、夜の冷たさを残した風が頬を撫でていく。城門の外では、馬車の車輪が石を踏む音や、行き交う人々の話し声が重なっていた。


王都までは馬車で向かう。


いつもなら向かい合わせに座るところだけれど、今日はなぜか隣同士だった。


理由は聞かないことにした。


ただ…近い

肩が触れそうなくらい近い…


馬車が動き出すと、車輪が規則正しく揺れ、窓から入り込む風が髪を揺らした。私は窓の外を見るふりをしながら、ちらりと隣を見る。


レオンハルトも、いつもより少し落ち着かないように見える。


「ねえ」

「はい」

「緊張してる?」

「……していません」

「本当に?」

「はい」

「じゃあ、なんでさっきからそんなに姿勢がいいの?」

「普段からです」


確かに…思わず笑ってしまった。


「ミキは?」

「私は緊張してるよ」

「そうなのですか?」

「だって久しぶりのデートだもの」


言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


前の人生…夫とも、若い頃にはこうして出かけた。

その記憶をなかったことにするつもりはない。

大切だったし今でも大切な人生だ。


でも、新しく誰かを好きになることは、それを裏切ることではない。ようやく、そう思えるようになってきた。


「レオンハルト」

「はい」

「今日は楽しもうね」


彼は少しだけ目を細めた。


「はい」


そして、しばらくしてから小さく付け加える。


「私も、楽しみにしていました」

「……いつから?」

「昨日から」

「私と同じだ」


二人で笑った。

その瞬間、肩から少し力が抜けた。


*


王都へ着いた途端、私は窓へ張りついた。


「すごい!」


大きな通りには色とりどりの店が並び、行き交う人の声が重なっている。焼きたてのパンの香りや、どこか甘い匂いまで風に乗って流れてきた。


馬車を降りると、さらに多くの音と匂いが押し寄せてくる。店先では店員が客を呼び込む声を上げ、遠くでは鐘の音が響いていた。焼きたてのパンからは香ばしい小麦の匂いが漂い、果物を並べた露店からは甘酸っぱい香りがする。


この世界へ来てから、私は王城と森、それから魔物や黒い影に関わる場所ばかりを行き来していた。


こんなに普通に人が暮らしている場所を、ゆっくり見るのは初めてだった。


「レオンハルト、見て! あれ何?」

「どれです?」

「あの赤い実みたいなの」

「ルージュの実ですね」

「食べられる?」

「食べられます」

「美味しい?」

「……酸っぱいです」

「じゃあいらない」

「聞いておいてですか?」

「だって、酸っぱいのは苦手だもの」


そう言いながらも、露店の前を通り過ぎる時、私は赤い実をもう一度振り返った。艶のある皮には陽の光が反射し、籠の中でころころと転がっている。


レオンハルトがそれに気づいたのか、店主へ声をかけた。


「一つください」

「え、いらないって言ったのに」

「見るだけでは分からないでしょう」


渡された実を手のひらで転がす。ひんやりとした感触が心地よく、思い切ってかじると、舌に強い酸味が広がった。


「……酸っぱい!」

「ですから、そう申し上げました」

「でも、ちょっと美味しいかも」

「どちらですか?」

「酸っぱいけど、後から甘い」


レオンハルトが小さく笑う。


「では、買って正解でしたね」


大通りへ出ると、さらに目移りした。


「すごいねぇ」


思わず呟く。


「何から見ますか?」

「何でもいいの?」

「もちろん」

「じゃあ……」


右を見て、左を見る。

色鮮やかな布を並べた店、香辛料の匂いが漂う食料品店、細工物を扱う小さな店。通りの向こうでは、焼き菓子を売る屋台から甘い香りが流れてくる。


全部気になるよね


「全部」


レオンハルトが笑った。


「では、端から行きましょう」

「本当に?」

「今日はそのつもりです」


その言葉に嬉しくなって、一歩踏み出す。けれど、思った以上に人が多い。誰かと肩がぶつかりそうになり、慌てて避けた瞬間だった。

手を掴まれた。


「危ない」

「ごめん」


レオンハルトの手だった。そのまま人の流れから少し離れた場所へ引かれる。


「大丈夫ですか?」

「うん」

「ここは人が多いので、私から離れないでください」

「はい」


いつもの護衛の言葉。


でも…掴まれた手は離れない。

私は手元を見てから、レオンハルトを見る。

彼も気づいたらしい。


「あ……」


少しだけ力が緩んだ。離される……そう思った瞬間、

私は逆に、その手を握った。


「……ミキ?」

「今日は護衛じゃないんでしょう?」


深い蒼色の瞳が見開かれる。言ってから、自分でもかなり恥ずかしくなった。でも、もう遅い。


「恋人なんだから」


頑張って続ける。


「手くらい、つないでもいいんじゃない?」


レオンハルトが黙った。


「……嫌?」

「まさか」


握られた。今度は、しっかりと…

指と指が重なる。彼の手のひらは温かく、剣を握る人らしい硬さがあった。その感触が妙に頼もしくて、胸の奥までじんわりと温まる。


「嫌なはずがありません」


低い声でそんなことを言うから、心臓がまた忙しくなる。


「じゃあ行こう」

「はい」


手をつないで歩き出す。


知らない街


知らない人


知らないものばかり


それなのに不思議と怖くない。隣にいる人を知っているから…


*


最初に入ったのは、小さな雑貨店だった。


扉を開けると、木製のベルが軽やかに鳴った。店内には乾いた木の香りと、布や革の匂いが混ざっている。窓から差し込む光が棚の上のガラス細工に反射し、壁や天井に小さな光を散らしていた。


店内にはアクセサリーや食器、布製品、小さな置物まで所狭しと並んでいる。


「可愛い!」


棚に並んだ小さな動物の置物を見つけて、思わず手に取った。


「これ猫かな?」

「猫ですね」

「この世界にも猫いるの?」

「いますよ」

「見たい!」

「……そこまでですか?」

「猫は大事よ」


真剣に答えると、レオンハルトが笑った。


「今度、見られる場所へ行きましょう」

「約束ね」

「はい」


そんな話をしながら店内を見ていると、今度は毛糸のようなものが目に入った。


「待って」


思わずレオンハルトの手を引っ張る。


「これ!」


色とりどりの糸が棚いっぱいに並んでいる。


触ってみると、柔らかい。指先を滑らせると、ふわりとした繊維が肌をくすぐった。


「毛糸だ……」

「ご存じなのですか?」

「もちろん!」


一気にテンションが上がる。


「私、編み物好きだったの」

「編み物?」

「うん。前の世界でね。セーターとか、ショールとか、靴下とか」


懐かしいなあ…糸に触れているだけで、前の世界で過ごした穏やかな時間を思い出す。冬の窓辺で編み針を動かしたこと。編み上がったものを家族へ渡した時の笑顔。指先に残る毛糸の感触まで、遠い記憶の中から蘇ってきた。


「これなら、こっちでも編めるかな」


呟いた時…レオンハルトが店主に声をかけた。


「この糸と、必要な道具を」

「ちょっと待って!」


慌てて腕を掴む。


「何してるの?」

「欲しいのでしょう?」

「そうだけど、自分で買うよ」

「私が贈ります」

「なんで?」

「……駄目ですか?」


そんな顔で聞かれると弱い。


「駄目じゃないけど」

「では」

「でも全部はいらないからね!」


結局、毛糸を数玉と、編み針を買ってもらった。

店を出ると、買った毛糸から新しい羊毛のような匂いがした。淡い青や白、深い蒼の糸が袋の中で揺れている。


「ありがとう」


店を出てから改めて言う。


「嬉しい」

「それなら良かった」

「何か編んだら、レオンハルトにもあげるね」

「私に?」

「うん。何がいい?」

「何でも」

「それが一番困るのよ」


笑いながら彼を見る。


「じゃあ私が勝手に決める」

「楽しみにしています」


何を編もう……そんなことを考えられるのが、ものすごく嬉しかった。


*


それから何軒か店を見て歩いた。


私が食器を見ている間、レオンハルトは少し離れた場所にいた。何となく振り返ると、小さな宝飾店の前で立ち止まっている。


「レオンハルト?」


声をかけると、彼は一瞬だけこちらを見た。


「先に見ていてください」

「何か気になるものあった?」

「少しだけ」


珍しい…いつもなら買い物にあまり興味がなさそうなのになぁ、


「じゃあ待ってるね」


私はそれ以上聞かず、隣の店を覗くことにした。

しばらくして戻ってきたレオンハルトは、何も持っていないように見えた。


「何か買った?」

「いえ」

「そう」


なぜか少しだけ怪しい。

でも、本人が言わないなら聞かないでおこう。


*


昼を過ぎた頃、私たちは大通りから少し離れた茶店へ入った。


扉を開けると、焼き菓子の甘い香りと、茶葉の爽やかな香りがふわりと漂ってきた。店内には小さな話し声と食器の触れ合う音が響き、窓辺には柔らかな陽射しが差し込んでいる。窓際の席に座ると、王都の街並みがよく見える。


運ばれてきたのは、花の香りがするお茶と、小さな焼き菓子だった。


白い湯気の向こうから、花びらのような香りが立ち上っている。カップを口元へ運ぶと、ほんのり甘く、後からすっきりとした風味が広がった。


「美味しい」


一口食べて思わず頬が緩む。焼き菓子は表面がさくりとしていて、中はしっとり柔らかい。噛むたびに蜂蜜のような甘さが広がり、思わずもう一口食べたくなる。


「これ好き」

「もう一つ頼みますか?」

「まだ食べてる途中!」

「気に入ったようなので」

「レオンハルトって、私を甘やかしすぎじゃない?」


何気なく言ったつもりだった。ところが、向かいに座っていたレオンハルトが少し考える。


「そうでしょうか」

「そうだよ」

「……嫌ですか?」


また、それ?


「嫌じゃないけど」

「なら、いいのでは?」

「よくないよ。私、駄目になるかもしれない」

「その時は私が面倒を見ます」


危うくお茶を吹きそうになった。


「何それ」

「何がです?」


本人は真顔だ。


「そういうの、さらっと言うのやめて」

「なぜです?」

「心臓に悪いから」


言ってしまってから顔が熱くなる。するとレオンハルトが黙った。今度は何だろう。


「……ミキ」

「何?」

「私も同じです」

「え?」

「今日のあなたは、いつも以上に心臓に悪い」


一瞬、意味が分からなかった。分かった途端…


「……もう」


私は焼き菓子を食べた。レオンハルトもお茶を飲んだ。二人とも、しばらく窓の外を見ていた。


窓の外では、通りを行き交う人々の声が遠くに重なっている。カップの中で揺れる淡い色の水面を見つめながら、私は自分の鼓動がなかなか静まらないことに気づいた。


多分……顔が赤いのは私だけじゃない。


*


茶店を出た頃には、陽が少し傾き始めていた。


午後の光が建物の壁を金色に染め、石畳には長い影が伸びている。通りを吹き抜ける風は昼間より少し涼しく、どこかで焼かれている香辛料の匂いが鼻先をくすぐった。


王都の広場では楽器を演奏する人がいて、その周りに子どもたちが集まっている。


弦を弾く音が軽やかに響き、時折、太鼓の低い音が重なった。子どもたちの笑い声や、屋台から聞こえる呼び声まで混ざり合い、広場全体が一つの大きな音楽のようだった。


私たちは少し離れた場所に座って、その様子を眺めた。


「楽しかった」

「まだ帰る時間ではありませんよ」

「うん。でも言いたくなったの」


朝からたくさん歩いた。


お店を見て


知らない食べ物を食べて


毛糸まで買ってもらった。


何か特別なことをしたわけじゃない。でも、それが良かった。


「こういうの、ずっと忘れてたな」

「何をですか?」

「何でもない日に、誰かと出かけること」


レオンハルトは何も言わずに聞いている。


「前の人生ではね、毎日やることがいっぱいあったの。家のこととか、仕事とか、子どものこととか。それが嫌だったわけじゃないよ。大切だったし、幸せだった」


少しだけ間を置く。


「でも、自分のためだけに何かすることは、いつの間にか減ってた」


風が髪を揺らした。


「だから今日、すごく楽しかった」

「……そうですか」

「うん」

「では、また来ましょう」


私は彼を見る。


「いいの?」

「なぜ駄目なのです?」

「これからアステリアにも行かないといけないし、黒い影のこともあるし」

「だからこそです」


レオンハルトの声は静かだった。


「戦うことだけが、あなたの人生ではありません」


胸の奥が、ぎゅっとなる。


「ミキは守り人である前に、ミキでしょう?」


それ何度もいろんな人に言われてきた。でも、好きな人から言われると、こんなにも違う。


「……うん」

「なら、したいことをしてください」

「レオンハルトと?」


聞いてみた。彼が少し驚く。


「もちろんです」

「今、間があったよ?」

「ありません」

「絶対あった」

「気のせいです」


おかしくて笑ってしまう。


「じゃあ、レオンハルトとしたいことにする」


深い蒼色の瞳がこちらを見る。


「いっぱいあるよ」

「例えば?」

「また王都に来たい。猫も見たい。編み物もしたい。それから、もっとこの世界のいろんなところを見てみたい」

「はい」

「全部付き合ってくれる?」

「もちろん」

「大変だよ?」

「構いません」


迷いのない返事に私は笑った。


「じゃあ約束」


小指を出す。レオンハルトが不思議そうに見る。


「これは?」

「あ、こっちにはないのか」


小指を絡める。


「私のいた国では、約束するときにこうするの」

「……こうですか?」

「そう」


大きな手の小指と、私の小指が絡む。


「約束ね」

「はい」

「いっぱい楽しいことする」

「はい」

「一緒に」


今度は少しだけ間があった。でも、その間は嫌じゃなかった。


「……一緒に」


レオンハルトが答えた。


絡めた小指をほどくのが惜しくて、私はしばらくそのままにしていた。レオンハルトも急かすことなく、静かに隣にいてくれる。


広場の音楽が、夕暮れの空気の中でゆっくりと遠ざかっていった。


*


そろそろ帰ろうかと立ち上がった時だった。


「ミキ」

「ん?」


呼ばれて振り返ると、レオンハルトが少しだけ緊張した顔をしていた。


「どうしたの?」


彼は一度だけ視線を逸らし、それから上着の内側へ手を入れた。


取り出したのは、小さな箱だった。


「これを」

「……私に?」

「はい」


受け取ると、思っていたより軽い。


「開けてもいい?」

「もちろんです」


蓋を開ける。


中に入っていたのは、細身の髪飾りだった。


銀色の細工の中央に、小さな石が一つ。


深い、深い蒼色。


陽の光を受けると、まるで夜明け前の空のように静かに輝いている。


「……綺麗」


思わず呟いた。


「さっきのお店で?」

「はい」


やっぱり…


「これ、選んでくれてたの?」

「あなたに似合うと思ったので」


胸が、じんわり熱くなる。


「ありがとう」


髪飾りを指先でそっとなぞる。


「この色……」


顔を上げる。レオンハルトの瞳と同じ…

それに気づいた瞬間、なんだか恥ずかしくなった。


「レオンハルト」

「はい」

「この石の色って……」


彼が少しだけ目を逸らした。それだけで答えが分かってしまう。


「もしかして、自分の目の色?」

「……似ているとは思いました」

「自分で選んだの?」

「はい」

「わざと?」

「……はい」


素直に言われると余計に困る。


「もう」


笑いながら、もう一度髪飾りを見る。嬉しい…本当に。


「つけてもいい?」

「もちろんです」


自分で髪へ差そうとしたけれど、鏡がないのでうまくいかない。


「ちょっと待って。これ、どこに――」

「私が」


レオンハルトが手を差し出した。


「え?」

「つけても?」


心臓が跳ねる。


「……お願いします」


私は少しだけ彼に背を向けた。

レオンハルトの指先が髪に触れる。ほんの少し、それだけなのに、首筋が妙にくすぐったい。丁寧に髪をすくい、飾りを差し込む。


「できました」

「どう?」


振り返る。レオンハルトはすぐに答えなかった。


「……変?」

「いいえ」


深い蒼色の瞳が、髪飾りに向けられる。


「とても似合っています」

「良かった」


私は思わず笑った。


「大事にするね」

「……はい」


その返事があまりに嬉しそうで、胸の奥がまた温かくなる。


「色も好き」

「色?」

「レオンハルトの瞳と同じだから」


言ったあとで…しまったと思った。レオンハルトが完全に固まっている。


「……ミキ」

「何?」

「それは」

「何?」

「……いえ」


今度は明らかに顔を逸らした。


耳が赤い。


可愛い。


そう思ったら、ちょっとだけ意地悪したくなった。


「もしかして照れてる?」

「照れていません」

「耳、赤いよ」

「夕日のせいです」

「まだそんなに夕日じゃないけど?」

「……帰りましょう」

「ちょっと、待ってよ」


笑いながら追いかける。

すると、少し先でレオンハルトが立ち止まった。

そして振り返り、私へ手を差し出す。


「ミキ」

「はい」

「帰りましょう」


差し出された手を見る。今度は、人混みだからでも護衛だからでもない。私はその手を取った。


「うん」


指が絡む。歩き出したところで、レオンハルトが小さく言った。


「……私も好きです」

「え?」

「その色が」

「……色?」

「あなたの髪にある、深い蒼が」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも、隣を見ると、彼は前を向いたままだ。耳だけが赤い。


「レオンハルト」

「はい」

「今の、ずるくない?」

「何がです?」

「絶対分かって言ってるでしょう」

「分かりません」

「嘘」


繋いだ手が、少しだけ強く握られた。私も握り返す。

王都の街が夕暮れに染まり始めていた。


石畳は淡い橙色に輝き、店先の灯りが一つ、また一つと灯っていく。昼間の喧騒は少しずつ落ち着き、代わりに家路を急ぐ人々の足音が通りに響いていた。


知らない世界


知らない街


それなのに、今日からここには、私の思い出がある。


好きな人と初めて手をつないで歩いた道


一緒に笑った店


お茶を飲んだ場所


そして、初めて贈り物をもらった広場


今まで私は、この世界で自分が何をしなければならないのかばかり考えていた。


守り人だから、世界を守らなければ…黒い影を止めなければ…でも、それだけじゃない。

守りたいと思えるものは、こうして増えていくのかもしれない。誰かに言われたからではなく、自分がここで生きたいと思うから。


私は隣を歩くレオンハルトを見上げた。


「ねえ、今日は連れてきてくれてありがとう」

「こちらこそ」

「こちらこそ?」

「私も楽しかったので」


そして彼は、ほんの少し笑った。


その顔を見て


ああ……やっぱり好きだなぁってそんなことを思った。


その時だった。


遠くで――鐘が鳴った。


一度


二度


そして、三度


街を歩いていた人々の足が止まる。さっきまで聞こえていた話し声や足音が、波が引くように静まっていった。誰もが南の空を見上げ、店先の灯りだけが不安げに揺れている。


レオンハルトの表情が一瞬で変わった。


「……何?」


私が尋ねると、彼は空を見上げた。さっきまで晴れていた南の空。その遥か遠くに、黒い筋のようなものが見えた。


「警戒鐘です」


繋いでいた手が強く握られる。


「王都で?」

「違います」


レオンハルトの声が低くなる。


「国境です」


胸の奥で白い光が脈打った。


そして聞こえた。声ではない。言葉でもない。

それなのに、はっきり分かった。


――来い


私は南を見つめた。アステリアがあるという方角。

黒い筋は、ゆっくりと空へ広がっていく。


「……レオンハルト」

「はい」

「多分」


楽しかった一日の終わりに…私は、繋いだ手を強く握り返した。


「待ってくれないみたい」


レオンハルトは南の空を見つめたまま、静かに答えた。


「なら、行きましょう」

「うん」

「ただし」


深い蒼色の瞳が私を見る。


「必ず一緒に帰ります」


私は少しだけ笑った。


「約束?」

「約束です」


今度は小指ではなく。

繋いだ手を、そのまま握り合った。


初めてのデートは、こうして終わった。


楽しくて、恥ずかしくて、何度も胸が高鳴って…

そして最後には、やっぱり少しだけ不穏で…それでも私は思う。この日があって良かった、と…この先に何が待っていたとしても、今日ここで笑ったことを、きっと私は忘れない。





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