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閑話 ようやく、という言葉では足りない


その夜、王城の侍女たちの控室には、いつもより遅い時間になっても灯りが残っていた。


ミキの身の回りを整え、一日の仕事を終えたエミリア、リゼット、ニーナは、それぞれ湯気の立つカップを手にテーブルを囲んでいる。少し離れたところでは、マルガレーテが明日の予定を確認していた。


本来なら、もう休んでもいい時間だ。

それなのに、なぜか誰も席を立とうとしない。


「……あの」


最初に口を開いたのはニーナだった。


「どうしたの?」


エミリアが尋ねると、ニーナは周囲を見回してから、少しだけ声を潜めた。


「ミキ様……今頃、レオンハルト様とお話しされているんですよね?」


ぴたり、と空気が止まった。


「ニーナ」


リゼットが静かに名前を呼ぶ。


「はい」

「そのようなことを詮索するものではありません」

「すみません……」


しょんぼりと俯くニーナ。けれど、数秒後……


「……でも、気にはなるわよね」


エミリアが小さく呟いた。


「エミリアさん!」


ニーナの顔がぱっと明るくなる。


「声が大きいわよ」

「すみません!」


リゼットは呆れたように息を吐いたものの、否定はしなかった。


マルガレーテだけは何も聞こえていないかのように、静かに書類をめくっている。


「マルガレーテ様」

「何でしょう」

「何とも思われませんか?」

「何についてでしょう」

「……ミキ様とレオンハルト様です」


ようやくマルガレーテが顔を上げた。


「お二人ともご無事に戻られて、本当に何よりでしたね」

「そういうことじゃありません!」


思わずエミリアが身を乗り出す。


「だって、今日ですよ? 今夜ですよ?」

「今日の夜ですね」

「もう!」


リゼットの口元が僅かに緩み、ニーナも笑いを堪えている。


「マルガレーテ様、絶対分かってて仰ってますよね?」


マルガレーテは三人をしばらく眺めたあと、手にしていた書類を静かに閉じた。


「……では、少しだけお話しいたしましょうか」

「はい!」


ニーナの声が控室に響く。


「ニーナ」

「すみません」


今夜、何度目だろう。とうとう全員が笑った。


*


「最初は、本当に分かりませんでしたよね」


エミリアがカップを両手で包みながら、懐かしそうに言った。


「レオンハルト様は護衛としてミキ様のお傍にいらしたわけですし、いつも通り真面目で……」

「少し怖かったです」


ニーナが小声で付け足す。


「ニーナ」

「最初だけです!」


慌てて言い直す姿に、また小さな笑いが起こった。

けれど、今思い返してみれば……

きっと、ずっと前から始まっていたのだ。


何も分からない世界へ突然放り込まれたミキ。

見たことのないものに目を輝かせたかと思えば、次の瞬間には不安そうな顔をする。困っている人を見れば自分のことを忘れて手を差し伸べ、少し無茶をしては周囲を心配させる。


そんなミキを、レオンハルトはいつも見ていた。


「ミキ様が少しでも体調を崩されると、すぐに気づかれていましたよね」


ニーナが言う。


「そうね。グレンジャー様を呼ぶのも早かったわ」

「でもミキ様は」


リゼットが淡々と続ける。


「『護衛だからですよね』と」


三人が顔を見合わせる。そして同時に…


「……はぁ」


………ため息…


マルガレーテが小さく笑った。


「何ですか?」

「いえ。皆、同じことを思っていたのですね」

「マルガレーテ様もでしょう?」


エミリアがすぐに食いつく。


「さあ」

「またそれです!」


でも、マルガレーテの目も笑っていた。


*


「私が一番焦れったかったのは」


ニーナが言う。


「お二人とも、お互いのことになるとすごく心配されるのに、ご自分のことになると全然分かっていらっしゃらなかったことです」

「それは分かるわ」


エミリアが大きく頷いた。


ミキが危険な目に遭えば、普段は冷静なレオンハルトが驚くほど余裕を失う。


レオンハルトが任務へ向かえば、ミキは何でもない顔をしようとしながら、その姿が見えなくなるまでずっと見送っている。


なのに……


「護衛だから」

「心配してくださっているだけ」

「私が守り人だから」


何度そんな言葉を聞いただろう。


「違いますって何度言いそうになったか」


エミリアが額を押さえる。


「言ってはいけませんからね」


リゼットが釘を刺す。


「分かってます。でも、あれを毎日見せられるこちらの身にもなってください」

「確かに」

「リゼットさんまで!」

「私にも感情はあります」

「それはそうですけど!」


ニーナがくすくす笑う。


「でもレオンハルト様も、相当だったと思います」

「ええ」

「ミキ様がレイブン様と楽しそうにお話しされていた時なんて――」

「ああ……」


三人の顔が同時に変わった。


「あれは」

「分かりやすかったですね」

「ものすごく」

「……」


マルガレーテは何も言わない。ただ、否定もしなかった。


*


そして……ミキがレオンハルトへ渡した、小さなお守り。あの時は、まだ誰も知らなかった。


ミキがどんな想いでそれを編んだのかも…


そこに込められた守護紋が、後に二人の命さえつなぐものになることも…


「お守りを渡された時」


ニーナが嬉しそうに笑った。


「レオンハルト様、本当に大切そうにされていましたよね」

「ええ」


エミリアも頷く。


「ローグ様に調べてもらうことになった時も、手放したくなさそうだったもの」

「ミキ様からいただいたものですから」


リゼットが言う。


「それにしてもですよ」


エミリアが身を乗り出した。


「もう、あの頃には絶対好きだったでしょう?」

「恐らく」

「絶対です!」

「本人に確認していませんから」

「じゃあ九十九パーセント!」

「一パーセントしか譲らないのね」


また笑いが起きた。でも……

お守りに秘められた力が分かった頃から、状況は少しずつ変わっていった。


*


北の森


黒い霧


守り人の力


白い鳥が見せた、不吉な未来


そして、ミキを狙う者たち


少しずつ二人を取り巻くものが、ただの恋だの何だのと笑っていられるものではなくなっていった。


「レオンハルト様が北へ向かわれた朝」


ニーナが静かに言った。


「ミキ様、ずっと笑っていらっしゃいましたよね」

「ええ」

「でも」


エミリアが続ける。


「怖かったでしょうね」


『行ってきます』

『行ってらっしゃい』


ただそれだけの言葉……それなのに…

見送るミキの手が僅かに震えていたことを、侍女たちは知っている。


レオンハルトもまた、何度も振り返りそうになる自分を堪えるようにして歩いていった。


「もうあの時には」


エミリアが小さく笑う。


「どう見ても両想いだったのに」

「そうですね」

「なのに言わない!」


急に声が大きくなった。


「エミリア」

「だって!」

「お気持ちは分かりますけれど」

「リゼットさんだって思ったでしょう? もう言えばいいのにって」

「……多少は」

「ほら!」


ニーナも笑う。


「私も思いました」

「でしょう!?」


エミリアが勢いづく。


「それなのに、やっと何かありそうになると事件! 少し近づいたと思ったら、また事件! 今度こそと思ったら、もっと大変な事件!」


「エミリア」

「はい」

「落ち着いて」

「……はい」


でも、言いたいことは全員分かっていた。


*


「私……怖かったです」


ニーナがぽつりと言った。さっきまでの笑いが消える。


「何が?」

「お二人が」


ニーナはカップへ目を落とした。


「ちゃんとお気持ちを伝える前に、どちらかに何かあったらって」


誰も、すぐには答えられなかった。


ミキは何度も危険な目に遭った。レオンハルトも何度も剣を抜いた。お互いを守ろうとして、時には自分の命さえ後回しにして……


「私も思いましたよ」


リゼットが静かに答える。


「特に、守護紋のことが分かってからは」


片方が傷つけば、もう片方にも影響するかもしれない。守るということが、いつの間にかただ傍に立って剣を振るうことではなくなっていた。


「だから」


エミリアが少し目を潤ませながら笑った。


「今日、お二人が一緒に戻ってこられた時」


旧領から二人とも生きて一緒に帰ってきた。


「本当に良かったって思ったんです」

「はい」


ニーナが頷く。


「私もです」


マルガレーテが静かに三人を見つめる。


「きっと」


優しい声だった。


「お二人とも、少しずつ変わられたのでしょうね」

「変わった?」

「ええ」


最初の頃…レオンハルトは、ミキを守ることばかり考えていた。危険から遠ざけ、自分が盾になり自分一人で背負おうとした。


ミキもまた、誰かに迷惑をかけたくないと自分で何とかしようとしていた。


けれど今は、怖い時は怖いと言う。

助けてほしい時は助けてと言う。

守るだけではなく相手を信じて任せる。


「それができるようになったからこそ」


マルガレーテが微笑む。


「今日、お二人とも無事に戻ってこられたのかもしれませんね」


誰も何も言わなかった。

でも…みんな少しだけ、嬉しそうだった。


*


同じ頃、近衛騎士団の詰所。


カイルは机に向かいながら、目の前の書類をほとんど読んでいなかった。


………気になる。ものすごく気になる。


「……」


時計を見る。そして、また書類を三行……時計…


「カイル」


隣の騎士が呆れた声を出した。


「何だ」

「さっきから何回時計を見るんだ」

「見てない」

「見てる」

「気のせいだ」

「何かあるのか?」

「ない」


でも………ある。今頃、副団長は……ミキ様と二人。


「……今度こそですよね」


思わず声に出た。


「何が?」

「何でもない」


慌てて書類を見る。


*


その少し後、詰所の扉が開いた。


「お疲れさまです」


聞き慣れた声にカイルが顔を上げる。


レオンハルト……いつも通り

銀色の髪……いつも通り

真面目な顔……いつも通り

そして、真っ直ぐな姿勢。


何も変わっていないように見える。


「……」


カイルは、じっと見る。


「何だ」

「いえ」

「何か言いたそうだな」

「何もありません」


レオンハルトが、少し眉を寄せる。そして、自分の机へ向かう。その時……カイルは、見た。


レオンハルトの指が、胸元のお守りへ触れた。


いつも触れるているが、今日のその顔は、ほんの少しだけ違う。………柔らかい。


「……」


カイルは分かった。いや、多分…きっと……


「副団長」

「何だ」

「……お疲れさまでした」

「?」

「今日は、もう休まれた方がいいですよ」

「急に何だ」

「いえ」


カイルが笑う。


「何となくです」


レオンハルトは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。カイルも聞かなかった。


今夜は…まだ、二人だけのものにしておけばいい。

ただ……

レオンハルトが背を向けたあと小さく呟いた。


「……やっとか」


*


王城の別室では、レイブン、エドワード、ベルンの三人は、遅い時間になってもまだ席を立たずにいた。


本来なら話すべきことは山ほどある。


セドリック


黒い影


七百年前の出来事


守り人


これから調べなければならないこと。それなのに…


「ところで」


レイブンが唐突に言った。


「今頃、弟は何をしているのでしょうね」


エドワードが眉を寄せる。


「なぜ今、その話になる」

「気になるではありませんか」

「ならん」

「本当に?」

「ならん」


ベルンが小さく笑った。


「私は少し気になりますけどね」

「ベルン」

「だって」


ベルンはカップを置いた。


「……ようやくでしょう?」


レイブンの口元が上がる。


「やはり、そう思われますか」

「ええ」


エドワードが大きくため息をついた。


「お前たちまで……」

「エドワードは違うのですか?」

「何がだ」

「焦れったいと思ったこと」

「……」

「ありますね?」

「うるさい」


十分な答えだった。


「二人とも」


ベルンが少しだけ真面目な声になる。


「相手を大切にしすぎるんですよ」

「大切にしすぎる?」


「レオンハルトは、ミキさんが突然この世界へ来て、自分しか頼る者がいないから懐いているだけかもしれないと思っていた。ミキさんはミキさんで、レオンハルトの優しさを護衛としての責任だと思っていた」


レイブンが苦笑する。


「面倒な二人ですね」

「兄が言うか」


エドワードが返す。


「兄だから言うんですよ」


レイブンは少し笑った。


「弟は昔から、自分のこととなると驚くほど不器用ですから」

「ミキさんも似たようなものです」


ベルンも笑う。


「だから、ここまでかかったのでしょうね」

「だが」


エドワードが低く言った。


「今日の二人は少し違った」


レイブンとベルンが見る。


「お前も見ていたんじゃないか」

「何をです?」

「互いを信じていた」


旧領で、ミキが危険に晒された時…レオンハルトは一人で飛び込まなかった。仲間を頼り、何よりミキ自身を信じた。ミキも誰かを救いたいからと、一人で全てを背負おうとはしなかった。


「ようやく」


エドワードが小さく息を吐く。


「守るだけでは駄目だと分かったんだろう」


レイブンが少し驚いた顔をする。


「随分、恋愛に詳しいことを仰いますね」

「そういう意味で言ったんじゃない」

「本当に?」

「レイブン」

「はいはい」


ベルンが声を立てて笑った。


少しだけ穏やかな時間。

今日くらいはこれでいい。


明日になれば、また、調べなければならないことがある。


黒い影も…守り人の秘密も…まだ、何も終わっていない。それでも…


「今夜くらいは」


ベルンが小さく言った。


「二人に何も起こらない夜があってもいいでしょう」


誰も反対しなかった。


*


侍女たちの控室、そろそろ解散しようかという頃に扉が開いた。エミリアが入ってくる。


「ミキ様は?」


ニーナがすぐに尋ねる。


「もうお休みになるそうよ」

「そう……」


リゼットがエミリアを見る。


「どうかしました?」

「何が?」

「随分、嬉しそうですけれど」

「え?」


エミリアが自分の頬へ触れる。


「そんな顔してる?」

「しています」

「……」

「何かありましたね?」

「何もないわよ」

「本当に?」

「本当に」


……でも笑ってる。

……エミリアは見ていた。


寝室へ向かうミキが…一人になった途端……


ふっと……自分の唇へ指を触れたこと

その瞬間、耳まで真っ赤になったこと


そして、誰にも見られていないと思ったのだろう。


ものすごく幸せそうに笑ったこと


「……」


エミリアの口元が、また緩む。


「何ですか?」


ニーナが聞く。


「何でもない」

「絶対何かあります!」

「明日の朝になれば分かるんじゃない?」

「え?」


マルガレーテの手が止まる。

リゼットもニーナもエミリアを見る。


「何がです?」

「さあ?」

「エミリアさん!」


小さな笑い声が控室へ広がった。


……長かった。本当に長かった。


護衛だから


守り人だから


今はまだ…危険が去ってから


相手の気持ちが分からない


自分の気持ちに自信がない


何度、立ち止まっただろう。

その間に、何度もう間に合わないかもしれないと、周囲を怖がらせただろう。


それでも、二人は帰ってきた。

生きて同じ場所へ帰ってきた。


そして、今夜ようやく……たぶん?きっと?

いや!もうほとんど間違いなく


「……本当に」


エミリアが、ぽつりと呟いた。


「やっとですね」


マルガレーテが、優しく微笑む。


「ええ」


今度は否定しなかった。


明日の朝、

二人がどんな顔で現れるのか…


それを楽しみにしながら、王城の夜は静かに更けていった。






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