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27 あなたと生きたい

転移陣の光が消えた時、最初に感じたのは、王城の空気だった。


見慣れた石壁、窓から差し込む午後の光、遠くから聞こえる人の声……ほんの数日前までは、この場所さえ異世界の知らない城だったはずなのに、今は不思議なくらいほっとする。


「……帰ってきた」


思わず呟くと、隣にいたレオンハルトが、握ったままの私の手に少しだけ力を込めた。


「ああ。帰ってきたな」


短い返事だった。

けれど、その声を聞くだけで胸が温かくなる。今度はちゃんと、一緒に帰ってこられたのだ。


旧領へ向かう前、私は怖かった。白い鳥が見せた未来や、エレノアとアルノルトの悲しい結末が頭から離れず、自分たちまで同じ道を辿るのではないかと考えたこともあった。


けれど、今、隣にいるレオンハルトの手は温かい。

私もここにいる。それで十分だった。


「ミキさん!」


聞き慣れた声に顔を上げると、廊下の向こうからグレンジャー様が早足でこちらへ向かってきた。表情を見た瞬間、嫌な予感がする。


「……グレンジャー様」

「体調は?」


一言目がそれだった。


「大丈夫です」

「その“大丈夫”は、信用していい大丈夫ですか?」

「……ちょっと疲れました」

「では、診察です」


即答だった。


「今すぐ?」

「今すぐです」

「でも――」


言いかけた私の隣で、レオンハルトが静かに口を開いた。


「ミキ、診てもらってくれ」

「レオンハルトまで……」

「約束しただろう?」


その言葉に、私は黙り込んだ。

無理をしない、体調がおかしければきちんと伝える、そして……帰ったらちゃんと話す。


最後の約束を思い出した瞬間、胸が急に騒ぎ出した。たぶん、顔にも出ていたのだろう。レオンハルトが私を見て、ほんの少しだけ目を細める。


「逃げないから」

「……え?」


低い声が、私にだけ聞こえるように落とされた。


「診察が終わるまで待っている」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がまた大きく跳ねた。待っている……ただそれだけの約束なのに、今夜のことを意識してしまう。


「分かった」


素直に頷くと、レオンハルトはわずかに目元を和らげた。


「行ってきます」

「ああ」


その返事を聞いた瞬間、出発前のことを思い出した。


『行ってきます、ミキ』


『行ってらっしゃい、レオンハルト様』


思わず笑みがこぼれる。


「何だ?」

「何でもない」

「また何か思い出したのか?」

「ふふっ。秘密」


今度は私から、そっと手を離した。

指先が離れる直前、レオンハルトの親指が私の手の甲をかすめる。その小さな感触に、離れた後まで手が熱を覚えていた。


でも、不思議と寂しくなかった。

だって、待っていてくれると分かっているから…


*


診察は、思ったより長くかかった。


「魔力の消耗がかなりありますね」


グレンジャー様が眉を寄せながら、私の脈を確認する。


「やっぱり?」

「“やっぱり”ではありません」

「すみません」

「ただ、以前のように限界まで使い切ってはいませんね。多少は学習されたようです」

「また子供みたいに言ってません?」

「褒めています」

「絶対、半分くらい呆れているでしょう」


グレンジャー様は答えなかったけど、その沈黙が何よりの答えだった。それでも、少し嬉しい。

今回、私は一人で無茶をしなかった。怖い時は怖いと言えたし、助けたいと思った時も、一人で飛び込まずにみんなを頼ることができた。


レオンハルト、レイブン様、ローグ様


エレノアが最後に言ってくれた。


『自分も信じる』


多分、少しはできたのかもしれない。


「セドリックさんは?」


診察が終わりかけた頃に尋ねると、グレンジャー様は少し考えてから答えた。


「別室で治療中です」

「状態は?」

「命に別状はありません。ただ、身体に残っている瘴気がかなり強い。目を覚ますには、もう少し時間がかかるでしょう」

「そう……」


ほっとした反面、自分でも少し変な感じがする。

私を狙っていた人でエレノアを騙した人。許せるかどうかなんて、まだ分からない。

それでも、生きていて良かったと思った。


「複雑ですか?」


グレンジャー様が静かに尋ねる。


「……はい。許せるとは思いません。でも、死んでほしいとも思わないんです」

「それでいいのでは?」

「そうでしょうか」

「今、答えを決める必要はありません」


その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「ありがとうございます」

「それより、今日はもう魔法は禁止です」

「……はい」

「古文書も禁止」

「はい」

「地下書庫も禁止です」

「行きません!」


思わず声を上げると、グレンジャー様の口元がわずかに緩んだ。


*


部屋へ戻ると、エミリアさんたちが待っていた。

扉を開けた瞬間、ニーナちゃんが駆け寄ってくる。


「ミキ様!」


飛び出してきそうな勢いだったけれど、ぎりぎりのところで止まり、私の全身を確認するように見つめた。


「お怪我はありませんか?」

「ないよ」

「本当に?」

「本当に」

「良かったぁ……」


泣きそうな顔で息を吐くニーナちゃんを見て、胸が温かくなる。


「心配かけてごめんね」

「もう! ミキ様は、いつもそうやって簡単に謝るんですから!」


怒られてしまった。その後ろでは、エミリアさんもリゼットさんも笑っている。そして、マルガレーテさんはいつもの穏やかな表情を浮かべていたけれど、その目は少しだけ潤んでいるように見えた。


「ただいま」


そう言うと、マルガレーテさんの表情が柔らかくなる。


「お帰りなさいませ、ミキ様」


その言葉が好きだった。

この世界へ来た時、帰る場所なんてなかった。でも今は、「お帰りなさい」と言ってくれる人がいる。


「……うん」


泣きそうになるのをこらえながら、もう一度、はっきりと言った。


「ただいま」


*


夕方、少し休んでから、ローグ様たちと簡単な報告をした。セドリックは王城内の結界区画で治療と監視を続けること、黒い影については、セドリックが目を覚まし次第、詳しく話を聞くこと、そして、エレノアの魂は、もう箱には残っていない可能性が高いこと。


「解放された、と考えていいだろう」


ローグ様の言葉に、私はゆっくり頷いた。

寂しいけど嬉しい。最後にエレノアは、幸せになってと言ってくれた。だから、泣くよりも笑いたい。


「それと」


ローグ様が私を見る。


「今日はもう終わりだ」

「何がですか?」

「話がだ」

「まだ聞きたいことがいっぱいあるんですけど」

「明日だ」

「でも――」

「明日」


有無を言わせない声だった。


「ベルンから、お前を休ませろと念を押されている」

「……はい」

「それに」


ローグ様の視線が、私の後ろへ向いた。

振り返ると、レオンハルトが壁際に立っている。

いつからそこにいたのだろう。壁に背を預け、腕を組んでいるのに、視線だけはずっとこちらへ向けられていた。


「何ですか?」

「いや」


ローグ様は、わずかに口元を上げた。


「待たせている者がいるようだからな」

「……」


顔が熱くなる。

見ると、レオンハルトの耳も少し赤くなっていた。けれど、目が合うと、彼は何も言わずにほんの少しだけ頷いた。その仕草が、まるで「待っている」ともう一度伝えているように見えた。


「では、我々は失礼しましょう」


レイブン様が立ち上がる。


「兄上」

「何だ?」

「その顔をやめてください」

「どの顔だ?」


絶対に分かっているくせに……


「ミキ様」


レイブン様が私を見る。


「今夜はゆっくりお休みください」

「はい」


そして、ほんの少しだけレオンハルトへ視線を向けた。


「弟をあまり困らせない程度に」

「兄上!」

「何の話ですか!?」


私とレオンハルトの声が、ほとんど同時に重なった。

レイブン様が楽しそうに笑い、ローグ様まで肩を震わせている。


「もう!」


結局、二人にからかわれながら、みんなは部屋を出ていった。扉が閉まる直前、レイブン様がこちらを振り返った。


「焦らず、ゆっくり話すといい」


その言葉だけは、からかうような響きがなかった。

私は小さく頷いた。


*


静かになった。


私の部屋には、私とレオンハルトだけが残されている。エミリアさんたちも、なぜかものすごく手際よく退出していった。絶対にわざとだ……

でも、今夜はありがたかった。さっきまで普通に話していたのに、二人きりになった途端、何を言えばいいのか分からなくなる。心臓がうるさい…レオンハルトも、いつもより落ち着かないように見えた。


彼は扉の前に立ったまま、すぐにはこちらへ来なかった。私も、声をかけるタイミングを失ってしまう。


沈黙が落ちる。


気まずいわけではない。ただ、互いに今夜の約束を意識しているのが分かる沈黙だった。レオンハルトが一度、視線を伏せる。それから、何かを決めたように顔を上げた。


「……座る?」


私が尋ねると、彼は頷いた。


「ああ」


ゆっくりとこちらへ歩いてきて、二人でソファに腰を下ろす。けれど、微妙に距離が空いていた。つい数時間前には、あんなに強く抱きしめ合っていたのに。今は、指一本分の距離さえ意識してしまう。


レオンハルトの手が、膝の上でわずかに動いた。何か言おうとしているのかもしれない。

私も口を開きかけた。


「あの」

「ミキ」


同時に声を出してしまい、二人で黙り込む。


視線が重なる。


先に逸らしたのは私だった。けれど、レオンハルトの口元がわずかに緩むのが見えて、私もつられて笑ってしまう。


「まただね」

「そうだな」


それだけで、張りつめていた緊張が少しほどけた。


「先にどうぞ」


私が言うと、レオンハルトは首を横に振る。


「いや、ミキからでいい」

「今日はレオンハルト」

「……」

「だって、帰ったら全部伝えるって言ったでしょう?」


レオンハルトは大きく息を吐いた。

その横顔を見ていると、いつもなら迷いなく剣を構える彼が、今は言葉一つを選ぶために慎重になっているのが分かる。


「覚えている」

「私は忘れてないよ」

「知っている」

「逃げない?」

「逃げない」

「本当に?」

「ミキ」


低い声で名前を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。


「何?」


レオンハルトは、深い蒼色の瞳でまっすぐ私を見つめる。その視線から逃げられないし、逃げたくもなかった。


「今日は、絶対に逃げない」


胸が大きく鳴った。


「……うん」


レオンハルトは、すぐには話し始めなかった。

視線が一度、私たちの間に置かれた手へ落ちる。指先が触れそうで触れない距離にある。彼は何かを考えるように、ゆっくりと息を吸った。

……やがて、彼がゆっくり口を開く。


「最初に森であなたを見つけた時、あれほど警戒心のない人間がいるのかと思った」

「ちょっと待って」

「事実だ」

「今、それを言う?」

「ちゃんと最初から話したい」


そう言われると、笑いそうになりながらも黙って聞くしかない。


「知らない場所で目を覚まして、魔物に襲われて、何が起きたのかも分からないはずなのに、それでもあなたは周りの人間を気にしていた」

「そうだった?」

「ああ」

「覚えてない」

「私は覚えている」


その言葉に、胸がきゅっとなる。


レオンハルトの声は静かだったけれど、その一言には、私が忘れてしまった小さな出来事まで覚えているという確かな重みがあった。


「その後も、自分が大変なのに誰かが困っていれば気にして、誰かが怪我をすれば心配して、すぐに自分のことを後回しにする」

「……」

「正直、何度怒ったか分からない」

「そんなに?」

「かなり」

「ごめん」

「だが」


レオンハルトの声が、少しだけ柔らかくなる。


彼の視線が私の目から外れ、頬や髪へと静かに移った。まるで、今から口にする言葉を私の表情から受け止めてもらえるか確かめているようだった。


「気づけば、それを見るたびに、あなたを守りたいと思うようになっていた」


胸が熱くなった。


「最初は、護衛だからだと思っていた」


あの日、私が何度も尋ねた言葉……護衛だから?


「でも、違った」


レオンハルトは私の目を見つめたまま続ける。


「任務を離れている時も、あなたが何をしているのか気になった。笑っていれば嬉しかったし、他の男と親しげに話していれば――」

「ヤキモチ?」


思わず口を挟むと、レオンハルトは少し困ったような顔をした。視線がわずかに横へ逸れる。


「……今、言うのか?」

「ごめん。でも、続けて」

「嫉妬した」

「かなり?」

「……かなり」


その答えが可愛くて笑いそうになったけれど、今は我慢した。レオンハルトは、私が笑っていないか確かめるように、もう一度こちらを見る。その目があまりにも真剣で、私は慌てて首を横に振った。


「笑ってないよ」

「そうか」

「少しだけ、嬉しいけど」

「……ミキ」

「ごめん」

「謝る必要はない」


そう言いながら、彼の耳がさらに赤くなる。


「あなたがレイブンを名前で呼ぶだけで面白くなかった」

「様はついていたよ?」

「知っている」

「それでも?」

「それでもだ」


……やっぱり、可愛い。

けれど、レオンハルトは真剣な表情のまま、私の手を取った。触れる直前、彼の指が一度ためらうように止まる。それから、確かめるように私の指先へ触れ、ゆっくりと手のひらを重ねた。

大きくて温かな手が、私の指を包み込む。


「だが、それ以上に怖かった」

「何が?」

「あなたを失うこと」


胸が締めつけられる。


「白い鳥が見せた未来で、自分が死ぬかもしれないと聞いた時より、目の前であなたが消えた時の方が、ずっと怖かった」


絡められた指に、少しだけ力がこもる。


「手が届かなかった。あれほど近くにいたのに、届かなかった」


声がわずかに震えていた。

レオンハルトはそこで言葉を止めた。視線が落ち、握った私の手へ向けられる。その横顔には、あの時の恐怖がまだ残っているように見えた。


初めて気づいた。この人も、怖かったのだ。


「だから」


私は握られた手に、もう片方の手を重ねた。

レオンハルトの指が、わずかに動く。


「来てくれたでしょう?」

「……ああ」

「ちゃんと」


私は微笑んだ。


「届いたよ。レオンハルトの手、ちゃんと私に届いた」


深い蒼色の瞳が、優しく揺れた。しばらく、彼は何も言わなかった。ただ、私の手を見つめている。

その沈黙が、言葉よりも多くのことを伝えていた。

やがて、レオンハルトは顔を上げた。


「ミキ」

「うん」


彼は一度、深く息を吸った。


「私は、あなたが好きだ」


やっと、ちゃんと言葉になった。胸の奥が、どくんと鳴る。これまでにも、何度も告白のような言葉をもらっていたし、大切な人だと言ってくれた。あなたのところへ帰るとも言ってくれた。俺があなたを選ぶと言ってくれた。


でも、やっぱり違う。


「好き」


その二文字を本人の口から聞くと、涙が出そうになった。レオンハルトは、私の表情を見つめたまま、次の言葉を探している。私が泣きそうになっていることに気づいたのか、親指がそっと手の甲を撫でた。

その仕草が優しくて、余計に胸がいっぱいになる。


「あなたを守りたい。だが、それだけではない」


レオンハルトは、私の手を見つめながら続ける。


「守らせてほしいし、できれば私も守ってほしい。嬉しいことも、怖いことも、これから見つける真実も、全部あなたと一緒に受け止めたい」


一つ一つの言葉が、静かに胸へ落ちてくる。


「これから先も、あなたの隣にいることを許してくれますか」


涙が一粒、頬を伝った。

ずっと待っていた言葉なのに、あまりにもレオンハルトらしく丁寧に尋ねられて、胸がいっぱいになる。

彼はすぐに手を伸ばさなかった。泣いている私に触れていいのか、迷っているのだろう。

そのためらいが、嬉しかった。

私は自分で頬の涙を拭い、それから彼の手を握り返した。


「それって」


涙を拭いながら、私は尋ねた。


「告白?」


レオンハルトが一瞬、固まる。


「……そのつもりだ」


思わず笑ってしまった。

涙が出ているのに、どうしても嬉しくて笑ってしまう。


「レオンハルトらしい」

「駄目だったか?」

「ううん」


私は首を横に振った。


「すごく嬉しい」


そして、今度は勢いではなく、自分の意思で言葉を選ぶ。


「私も、レオンハルトが好き」


彼の瞳が、わずかに大きくなった。

握られていた手が、ほんの少し強くなる。


「守ってくれるからじゃない。この世界で一番最初に優しくしてくれたからでもない。アルノルトの魂だからでもない」


胸元へ手を当てる。


「私が、今のレオンハルトを好きになったの」


声は少し震えていたけれど、もう迷いはなかった。


「一緒にいたい。これから先も、できるならずっと」


レオンハルトは目を閉じ、深く息を吐いた。

そのまましばらく動かなかった。まるで、私の言葉を何度も胸の中で確かめているようだった。

やがて、ゆっくりと目を開く。

その瞳には、安堵と喜びが混ざっていた。


「……抱きしめても?」

「もう!」


思わず笑ってしまう。


「まだ聞くの?」

「大事だから」

「何回も言っているでしょう?」

「だが――」

「レオンハルト」


私は自分から彼へ近づき、腕を首へ回した。

触れた瞬間、レオンハルトの身体がわずかに強張る。


「聞かなくていい」


レオンハルトの身体が、ぴたりと止まる。


「私が嫌な時は、ちゃんと言うから」

「……分かった」

「だから、今は」


鼓動が速い。

恥ずかしいけれど、ちゃんと伝えたかった。


「抱きしめて」


次の瞬間、強く、それでいて優しい腕に包まれた。

抱きしめられた瞬間、レオンハルトの胸が大きく上下するのが分かった。


彼も緊張している。その事実が、嬉しかった。


「……ミキ」


耳元で呼ばれた声が、少し震えている。


「うん」

「好きだ」


もう一度、はっきりと言われる。


「……うん」

「本当に好きだ」

「私も」


私も彼の背中へ腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。


「好き」


レオンハルトの腕が、さらに強くなる。

けれど、苦しくはない。大切なものを壊さないように、確かめるように抱きしめてくれている。


しばらく、二人とも何も言わなかった。

言葉はもう必要なかった。

胸が温かい…安心する。そして嬉しい。……そして、少しだけ泣きたい。


今度の人生では、愛されたいと思っていた。

でも、今なら分かる。愛されるだけではなく、私も愛したい。この人を……


*


どれくらいそうしていたのか。


やがて、レオンハルトの腕が少し緩んだ。けれど、完全には離れない。顔を上げると、距離が近い。深い蒼色の瞳が、さっきとは違う熱を宿して私を見つめていた。すぐには、どちらも動かなかった。

レオンハルトの手が背中に触れたまま、私の頬へゆっくり上がってくる。

指先が頬に触れる直前で、また一度止まった。


「……ミキ」

「うん」

「一つ、聞いていいか?」

「どうぞ」


レオンハルトの視線が、一瞬だけ私の唇へ落ちた。

それから、すぐに目へ戻る。


心臓が跳ねる!!


何を聞こうとしているのか、すぐに分かった。


「キスしても?」


やっぱり聞いた。顔が熱くなる。

でも、もう逃げたくなかった。


「……はい」


小さな声だったけれど、レオンハルトには届いた。

彼の手が私の頬を包む。指先が触れるだけなのに、そこから熱が広がっていく。レオンハルトはすぐには近づかなかった。私の目を見つめ、私が本当に嫌ではないのか確かめている。


その視線に耐えられなくなって、私はほんの少しだけ目を伏せた。


すると、彼の親指が頬をそっと撫でた。


それが合図だったのかもしれない。ゆっくりと距離が縮まり、唇が触れた。……ほんの一瞬だった。

柔らかく、けれど確かに、気持ちが重なった。離れた後も、顔は近いままだった。互いの吐息が触れる距離で、目が合う。私も真っ赤になっているだろうけれど、レオンハルトの耳も赤く染まっている。

彼は何か言おうとして、けれど言葉を見つけられないまま、わずかに視線を逸らした。

その様子を見ていると、胸の奥にいたずら心が湧いてくる。


「……終わり?」


思わず口からこぼれた。


「……え?」


レオンハルトが固まる。私も、言ってから固まった。

いやいや…何を言っているの、私。


「いや、今のは!」


慌てて言い訳しようとしたけれど、レオンハルトの目が細められる。


「ミキ」

「はい」


低い声に、胸がまた大きく鳴った。


「今の言葉は?」

「忘れて」

「無理だ」

「ですよね!」


次の瞬間、頬に触れていた手が、ゆっくりと首の後ろへ回る。その動きに、身体が自然と強張った。

けれど、レオンハルトは急がなかった。私の表情を見つめ、逃げ道を残すように、ほんの少しだけ距離を保っている。


「今度は、聞かない」

「……」


胸が限界まで高鳴る。


「嫌なら止めて」

「……うん」


今度の口づけは、さっきより長かった。

優しいのに、さっきよりもずっと気持ちが伝わってくる。私も目を閉じ、彼の肩へ手を置いた。

触れた肩が、わずかに震えている。

その震えに気づいた瞬間、私の緊張も少しだけほどけた。そのまま少し引き寄せられ、唇が離れた時には、息が少し苦しくなっていた。レオンハルトも同じように、わずかに息を乱している。顔を見られなくなった私は、そのまま彼の胸へ額をつけた。


「無理」

「何が?」

「恥ずかしい」


頭上から、小さな笑い声が落ちてくる。


「笑わないで」

「すまない」

「絶対、そう思ってないでしょう」

「少しだけ」

「もう」


それでも、私も笑ってしまった。

レオンハルトの手が、私の髪をゆっくり撫でる。

その仕草があまりにも自然で、胸の奥がまた温かくなった。


*


少し落ち着いてから、私はまだレオンハルトの胸へ寄りかかったまま尋ねた。


「ねえ」

「何だ?」

「これって、私たち……」


言うのが恥ずかしくて、少しだけ間を置く。

レオンハルトの胸の鼓動が、耳元で規則正しく響いている。


「恋人?」


レオンハルトの身体が、わずかに固まった。


「違うのか?」

「いや」

「なら、そうだと思う」

「思う?」


思わず顔を上げる。


「ちょっと! そこは自信を持ってよ!」

「こういう経験がない」

「え?」

「ない」

「……初めて?」

「悪いか?」


耳まで赤くなっている。


「悪くない」


むしろ、すごく嬉しい。


「私も」

「……?」

「この姿では」

「ミキ」

「冗談」


笑いながら言ったけれど、本当のところ、こんな気持ちは久しぶりだった。


いや、多分、初めてなのかもしれない。

こんなふうに、ゆっくりお互いの気持ちを確かめて、好きだと伝え合うのは。


「じゃあ」


私は彼の手を取った。


「今日から?」

「今日から」


今度は、レオンハルトが迷わず答えた。


「恋人だ」


その言葉が、胸の奥に甘く響く。


「……はい」

「今、敬語になったな」

「慣れないの」

「そうか」


レオンハルトが微笑む。その表情も、やっぱり好きだった。


「ミキ」

「何?」

「一つだけ、頼みがある」

「まだあるの?」


深い蒼色の瞳が、真面目な色を帯びる。


「これから先、何が起きても、一人で決めないでほしい」

「……」

「危険なことだけではない。この世界でどう生きたいかも、帰りたいと思う日が来た時も、ちゃんと話してほしい」


胸が少し痛んだ。


日本…帰る場所…家族の思い出。

私の中には、まだ大切なものが残っている。

レオンハルトは、そんな私の迷いを分かっているように、少し苦しそうに笑った。


「寂しくても、言ってほしい」

「帰りたいって言ったら?」

「寂しい」


即答だった。胸がきゅっとなる。


「でも、ミキの人生だから」


その言葉に、涙が出そうになった。

この人は、恋人になったばかりなのに、私を自分のそばへ縛ろうとはしない。


「……レオンハルト」

「何だ?」

「私、今は」


少し考えてから、ちゃんと言葉にする。


「ここにいたい」


レオンハルトが息を止めたように見えた。


「この世界で、レオンハルトと一緒にいたい」


彼の瞳が揺れる。


「それが、今の私が選びたい人生」


レオンハルトは何も言わず、私の手を強く握った。

それだけで、十分だった。


*


夜、寝室へ戻った私は、ベッドの上で完全に固まっていた。指先で唇に触れる。


「……キスした」


声に出してみると、急に実感が湧いてきた。


「……キスしたーー!」


枕を抱きしめ、ベッドの上で転がる。

恥ずかしい。嬉しい。どうしよう。

私は五十五歳なのに…いや、今の身体は何歳だっただろう。もう、そんなことはどうでもいい。


「恋人……」


口に出してみる。


「レオンハルトが、恋人……」


胸が痛いほど高鳴る。でも、どうしても笑ってしまう。その時、窓からふわりと風が入り込んだ。


「あ……」


白い羽が一枚、どこからか舞い込んでくる。

白い鳥の姿はない。けれど、その羽はまっすぐ私の枕元へ落ちた。手に取ると、温かな光が指先へ伝わってくる。声は聞こえない。それでも、何となく分かった。


「エレノア」


私は微笑んだ。


「ちゃんと、幸せになるね」


白い羽が一瞬だけ優しく光り、静かに消えた。


*


同じ頃、近衛騎士団の詰所では、カイルが目の前のレオンハルトをじっと見つめていた。


「……副団長」

「何だ」

「先ほどから、ものすごく機嫌がよろしいですね」

「普通だ」

「いえ、普通ではありません」

「普通だ」

「口元が笑っています」

「笑っていない」

「では」


カイルがにやりと笑う。


「ミキ様と何かありましたか?」


レオンハルトの手が止まった。………沈黙が落ちる。

カイルの顔が、みるみるうちに変わっていった。


「えっ」


レオンハルトは何も言っていない。

けれど、その沈黙と、赤くなった耳がすべてを物語っていた。


「まさか……」

「カイル」

「はい」

「これ以上言えば、訓練を五倍にする」

「訓練ですか?」

「そうだ」

「そこまで!?」


それでも、カイルは笑っている。


「おめでとうございます」

「……何も言っていない」

「はいはい」

「カイル」

「黙ります」


レオンハルトは大きなため息をついた。けれど、胸元にあるミキのお守りへ、そっと手を当てる。


今日、聞いた言葉…


『私も、レオンハルトが好き』


そして、触れた唇の感触を思い出すと耳がまた熱くなった。遠くから見ていたカイルが、とうとう吹き出す。


「何だ」

「何もありません」

「笑うな」

「笑っていません」


絶対に笑っている。けれど、今夜だけは、まあいい。


レオンハルトは窓の外に浮かぶ月を見上げ、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。


「おやすみ、ミキ」


遠く、同じ月の下。眠りにつきかけていた私の胸が、ほんの少しだけ温かくなった。





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