25 あなたがいるから、怖くない
「私の名は、セドリック・ノクス」
暗闇の中で、男が一歩踏み出した。
靴底が石床を擦る音が、地下室の奥まで低く響く。白い光に照らされたその顔は、三十代半ばほどにしか見えなかった。黒に近い髪が額へ落ち、整った顔立ちには、長い年月を生きた者だけが持つような静かな余裕が浮かんでいる。けれど、その瞳だけは、人のものではなかった。赤紫色の光を宿した瞳が、まっすぐ私を見つめている。
いや、私を見ているのに、私自身を見ているわけではない。私の奥にある何かを、探るように……
「七百年、君を待っていた」
穏やかな声だった。
だからこそ、背中を冷たいものが這い上がった。
七百年……人間が生きられる時間ではない。
「七百年って……」
喉が乾く。それでも、視線だけは逸らさなかった。
「あなた、人間じゃないの?」
セドリックの口元が、わずかに持ち上がる。
「随分と率直だな」
「遠回しに聞いても仕方ないでしょう」
「なるほど」
彼は楽しそうに笑った。
その笑みの奥に、私を値踏みするような光が揺れる。
「エレノアとは、随分違う」
胸の奥で、嫌な音がした。
「エレノアを知ってるんですね」
「もちろん」
「あなたが騙したの?」
問いかけても、セドリックは答えなかった。
ただ、赤紫色の瞳が細くなる。それだけで十分だった。
「……最低」
「何?」
「人の大切な人を殺して、それを餌にして呼び出して、魂まで奪ったんでしょう?」
セドリックの指先が、わずかに動いた。
怒ったのか、それとも別の感情を隠したのかは分からない。
「白き翼から聞いたのか」
「それだけじゃない。エレノア自身の記憶も見た」
「……そうか」
一瞬……本当に一瞬だけ、彼の表情から笑みが消えた。
「まだ、あの女は残っているのか」
その言い方が、どうしても許せなかった。
「残ってちゃ困る?」
「困るというより」
セドリックは、ゆっくりとこちらへ歩き出した。
……一歩
石床を踏むたび、黒い霧が彼の足元から細く立ち上る。反射的に、私は一歩下がった。背中が石壁に触れる。
「面倒だ」
「来ないで」
声を張る。セドリックの足が止まった。
私は胸元へ手を当てる。指の間から、白い光が漏れていた。淡い光の中心には、深い蒼色の線が絡みついている。その線は空中へ伸び、見えない場所にいるレオンハルトへつながっていた。
彼の気配が、かすかに伝わってくる。
焦っていて……怒っている。そして、生きている。
(大丈夫)
自分に言い聞かせる。一人じゃない。
「その力か」
セドリックの視線が、私の手元へ落ちた。
白い光を追うように、彼の瞳が細く動く。
「興味深い」
「……何が?」
「以前の守り人にはなかった」
また、その言葉……でも以前とは違う。
「エレノアにも守護の力はあったでしょう?」
「もちろん」
「じゃあ、何が違うの」
セドリックはすぐには答えなかった。私の胸元から、空中へ伸びる蒼い光をじっと見つめている。
「エレノアは」
やがて、静かに口を開いた。
「自分の中だけで完結していた」
「……?」
「守り人の力は、本来、一人で完結するものだ。癒やし、浄化、守り、滅する。その全てを一人で行う」
「でも私は違う?」
「君は」
赤紫色の瞳が、私の胸元を射抜く。
「他人と力をつなげた」
守護紋
レオンハルト
「本来、守り人の魂は他者の魔力と混ざらない。それほど強いものだからな」
セドリックが片手を上げる。
その指先に、黒い魔力が細い糸のように集まった。糸は空中で絡み合い、蛇のようにうねりながら私の守護紋へ伸びてくる。
私は反射的に手を握り込んだ。
白い光が弾け、黒い糸を押し返す。
「なのに君は、一人の騎士と魂の回路を作った」
「魂の……回路?」
「互いの位置を感じ、感情を読み、傷を共有し、力を送り合う」
黒い糸が、白い光の表面を撫でる。
触れた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
私は息を呑み、片膝をつく。
「っ……!」
遠くで、レオンハルトの気配が大きく揺れた。
心配している。私の痛みを感じたのだ。
「そんなこと……」
「偶然だと思っていた?」
セドリックが、また一歩近づく。
黒い魔力が彼の足元から広がり、石床の隙間へ染み込んでいく。床に刻まれた古い紋様が、赤紫色に明滅した。
「君が作ったあの守護紋は、ただのお守りではない」
知っている。でも、
「それが何?」
私は立ち上がった。
膝は震えていたけれど、視線は逸らさない。
「怖くないのか?」
「何が?」
「魂を他人とつなげることが」
一瞬、答えに詰まった。
魂
そんな大きな言葉で言われたら、怖い。
……もし何か起きたら
レオンハルトに、私のせいで何か起きたら
けれど、胸の奥には温かいものがある。
彼の気配が、確かにそこにある。
焦っているし、すごく怒っている。
それでも、私を探している。
「……怖いよ」
正直に言った。セドリックの眉が、わずかに動く。
「でも」
私は手のひらを開いた。
蒼い光が、指の間から細く伸びる。
「怖いからって、なかったことにはしたくない」
「……」
「私は、自分でレオンハルトにお守りを渡した」
一目ずつ、自分で編んだ。
……無事でいてほしいと願いながら。
「この力だって、私が彼を守りたいと思ったから生まれたんでしょう?」
「そうだろうな」
「なら」
私はセドリックを見据えた。
「後悔してない」
その瞬間、胸元の守護紋が、強く輝いた。
白い光が私の身体を包み、床に落ちていた黒い魔力を押し退ける。光の中心から蒼い波動が広がり、地下室の壁を震わせた。
セドリックの外套が、風もないのに大きくはためく。
彼は目を細めながら、私を見つめていた。
*
礼拝堂の隠し部屋……
「ミキ!」
レオンハルトは、黒い紋様が消えた床へ駆け寄った。
剣の柄を叩きつける。一度…二度……三度、石床が鈍い音を返すだけで、転移陣は沈黙していた。
「どこへ連れていった!」
怒鳴り声が、狭い部屋の中で跳ね返る。返事はない。
レオンハルトは床へ膝をつき、黒い紋様の残滓へ手を伸ばした。指先に魔力を流し込むと、消えかけた線が一瞬だけ赤く明滅する。
その瞬間、彼の顔が歪んだ。
「……くそっ!」
拳が壁へ叩きつけられる。
石壁に亀裂が走り、細かな欠片が床へ落ちた。
「レオンハルト!」
レイブンが駆け寄り、弟の肩を掴む。
「落ち着け!」
「落ち着いていられるか!」
レオンハルトが振り返った。
その声に、レイブンは一瞬言葉を失った。
弟は、いつも冷静だった。どんな戦場でも…どれほど不利な状況でも…感情に任せて剣を振るうような男ではない。なのに今、その深い蒼色の瞳には、隠しきれない恐怖が浮かんでいた。
「ミキが……!」
言葉が途切れる。目の前で、手が届かなかった。
あと数センチ……指先が触れそうだったのに。
落ちていった……そして、消えた。
「レオンハルト」
エドワードが低く呼びかける。
「守護紋は?」
「……」
レオンハルトは、はっとしたように胸元へ手を伸ばした。お守りを取り出す。白い光が、鼓動するように明滅していた。その中心には、深い蒼色の光が絡みついている。
「……つながっている」
「なら生きている」
「分かっている!」
「なら、感じろ!」
エドワードの声が、部屋全体を震わせた。
レオンハルトが顔を上げる。
「お前が冷静さを失ったら、ミキへそのまま伝わる可能性がある!」
「……」
言葉が、胸へ突き刺さる。感情は伝わる。
戦いの最中、ミキの不安も、心配も、怒りも感じた。
なら、今の自分の恐怖も、彼女へ届く。
レオンハルトは、強く目を閉じた。
深く息を吸う。一度…二度…胸元へ手を当てる。
お守りは温かかった。その温度の向こうに、ミキの気配がある。
「ミキ」
目を閉じたまま、心の中で呼びかける。
どこだ?
怖いか?
傷ついていないか?
返事はなかった。けれど、次の瞬間、細い光の流れが、胸の奥へ入り込んできた。緊張と警戒。そして…意外なほど強い意志。レオンハルトの指が、お守りを包み込む。
「……」
口元が、ほんの少し緩んだ。
「何だ?」
レイブンが尋ねる。
「……怒っている」
「誰が?」
「ミキが」
エドワードが眉を上げた。
「何に?」
レオンハルトは、わずかに息を吐く。
「恐らく、相手に」
何となく分かる。あの人なら絶対に言い返している。
「……無事だ」
今度は、自分へ言い聞かせるためではなかった。
確信だった。
「ミキは無事だ」
レオンハルトは立ち上がり、剣を握り直す。
刃に魔力が集まり、淡い蒼い光が走った。
「だから」
床に残る黒い紋様を見下ろす。
「必ず迎えに行く」
*
「君は」
セドリックが、白い光の向こうから私を見つめた。
「本当に、エレノアとは違うな」
「さっきからそればっかり」
「顔は似ている」
「……」
「魂も同じだ」
胸が、止まりそうになった。
「……何?」
セドリックの赤紫色の瞳が、ゆっくり細められる。
「君とエレノアは、同じ魂だ」
「……」
やっぱり……そうなの?可能性は考えていた。でも、誰かにはっきり言われると、現実の重さが違った。
「生まれ変わり……?」
「正確には、少し違う」
「どういうこと」
「守り人の魂は、普通の輪廻を巡らない」
セドリックが指先を動かすと、黒い魔力が空中に集まり、古い記憶の断片のような光景を形作った。
白い衣をまとった女性
崩れ落ちる礼拝堂
黒い箱
その中へ吸い込まれていく光
「この世界が必要とした時にのみ、再び生を得る」
女神様が言っていた。
『本来、この世界に生まれるはずだった魂』
「じゃあ……私が日本で生きたのは?」
「事故だ」
「……は?」
あまりに簡単に言われて、頭が追いつかなかった。
「魂の流れが乱れた」
「乱れた?」
「七百年前、エレノアの魂が箱に封じられたことで、本来の循環が壊れた」
黒い箱の幻影が、指先で砕ける。
「本来なら、エレノアの死後、魂は眠り、必要な時代に再びこの世界へ生まれるはずだった」
「でも箱に」
「一部を奪われた」
「……」
「残った魂は行き場を失い、世界の境界を越えた」
日本………私。
「つまり、私が日本に生まれたのって……」
「本来の道から外れた結果だ」
喉が乾く。胸が痛い。
……五十五年…夫、子供、仕事したことや笑ったことも泣いたことも………全部……事故?
「……ふざけないで」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「何?」
「私の人生を」
手が震える。怒りが、身体の奥から湧き上がってくる。
「事故って言わないで」
セドリックの指先で、幻影が消えた。
「……」
「私は日本で生きたの」
大切な人がいた。辛いこともあった。でも、それも私だった。
「五十五年」
声が震える。それでも、止めない。
「ちゃんと生きた」
セドリックの表情が、わずかに変わった。
「それを勝手に、本来じゃなかったとか事故だったとか言わないで!」
白い光が、身体の内側から溢れ出した。
床に刻まれた古い紋様が一斉に輝き、石壁の文字が浮かび上がる。光の奔流が地下室を満たし、黒い霧を押し戻していく。
「……!」
セドリックが、初めて明確に一歩下がった。
外套が大きく翻り、彼の足元に集まっていた黒い魔力が弾ける。
「私は坂元水姫!」
胸の奥が熱い。
「エレノアでもあるのかもしれない。でも、エレノアだけじゃない!」
白い光が、私の背後で翼のように広がった。
「日本で生きた全部が、私!」
光が石壁を走り、地下室全体を震わせる。
「今ここにいる私を、誰かの続きだけにしないで!」
セドリックは眩しそうに目を細めた。
けれど、その顔にはなぜか、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「……やはり」
「何」
「完成している」
「何が?」
「魂が」
………ぞくりとする。
「日本での生が」
セドリックの笑みが深くなる。
「君を完成させた」
「……何を言ってるの」
「エレノアにはなかったものを、君は持っている」
「何?」
「他者へ頼ること」
胸が止まる。
「弱さを認めること」
「……」
「愛する者に守らせること」
レオンハルト。
「そして」
赤紫色の瞳が、私を見つめる。
「愛する者から、力を受け取ること」
その瞬間、胸が強く熱くなった。
「……っ!」
レオンハルトの怒り、焦り。
でも、それ以上に強いもの。信じている…私を。
「……聞こえる」
小さく呟く。
「何が?」
セドリックが、わずかに眉を寄せた。
「レオンハルト」
声ではない。けれど、分かる。
――迎えに行く。
そう言っている。
「ふふっ」
思わず笑った。
「何がおかしい?」
「あなた」
「何?」
「失敗したね」
セドリックの笑みが消える。
「私を一人にしたつもりなんでしょう?」
「……」
「でも」
私は手のひらを掲げた。蒼い光が、白い光の中で強く輝く。
「一人じゃない」
白い光が、さらに広がった。
*
「反応が変わった」
礼拝堂で、エドワードが床の魔法陣を見下ろしていた。黒かった紋様の一部に、白い光が走っている。
光は細い線となって床を這い、やがて蒼い輝きへ変わった。
「ミキの力か?」
レオンハルトが駆け寄る。
「恐らく」
エドワードは膝をつき、魔法陣へ手をかざした。
指先から銀色の魔力が流れ込み、黒い紋様の構造を探っていく。
「この転移陣は、ノクスが作ったものだ。通常なら外から追跡できない」
「なら?」
「内側から、誰かが座標を固定している」
「ミキ……」
レオンハルトの胸元で、お守りが強く光った。床に、細い蒼い線が浮かび上がる。線は何度も揺らめきながら、空中へ伸びていく。レオンハルトが手を伸ばす。指先が蒼い線に触れた瞬間、強い魔力が腕を駆け抜けた。
「……!」
視界の奥に、一瞬だけ白い光が見える。
その向こうに、ミキの気配……
「俺を……呼んでる」
「待て」
エドワードが腕を掴む。
「まだ完全ではない」
「だが!」
「転移先が分からないまま入れば、お前まで捕まる!」
「それでも」
レオンハルトが腕を振り払おうとした。
その時……レイブンの声が、静かに響いた。
「レオンハルト」
「ミキ様は何と言った?」
「……」
「一人で戦うな、と言っていたんじゃないのか?」
レオンハルトの動きが止まる。
「お前まで一人で突っ込んでどうする」
「……兄上」
「私も行く」
レイブンは剣を抜いた。
鞘から滑り出た刃が、礼拝堂の光を受けて鋭く輝く。
「何?」
「エドワード殿も」
「当然だ」
エドワードが立ち上がる。
「必要なら騎士団も呼ぶ」
レオンハルトは、もう一度お守りを握り込んだ。
ミキの気配が、蒼い光の向こうで揺れている。
……強い。……落ち着いている。信じている。
なら、自分も信じる。
「……分かりました」
レオンハルトが剣を下ろす。
「座標を確定させてください」
エドワードが、ほんの少し口元を上げた。
「ようやく頭が戻ったな」
「早く」
「分かっている」
エドワードが両手を魔法陣へ向ける。
銀色の魔力が床へ流れ込み、黒と蒼の光が激しく絡み合った。
*
白い光が、地下の部屋を少しずつ明るくしていく。
光に照らされ、初めて壁の文字が見えた。
「……文字?」
セドリックも振り返る。
その顔に、初めて明確な驚きが浮かんだ。
「何?」
彼も知らなかったのだろうか。
古代語……私は壁へ近づき、光に浮かび上がった文字を読む。
『守り人よ』
『己を失うな』
胸が鳴る。
『過去は、お前を作る一部であり』
『お前そのものではない』
「……」
エレノア?いや違う。文字の形が、エレノアの記憶で見たものよりさらに古い。
『愛した者を失うことを恐れ』
『己を閉ざしてはならぬ』
『信じよ』
白い鳥が、何度も言っていた。
………信じろ。
『力とは、一人で抱えるものではない』
涙が出そうになる。
誰が、これを残したのだろう。
最後の文字が、白い光の中で浮かび上がった。
『次なる守り人へ』
『どうか』
『幸せに生きよ』
息が止まった。
「……幸せに」
誰かが、私に残した言葉。
……守れ
……戦え
……救え
ではなく、………幸せに生きろ。
胸がいっぱいになる。
私は震える指先で、文字へ触れた。
その瞬間、壁全体が淡く輝き、頭の中へ声が響いた。
『ミキ』
「エレノア?」
今までより近い。
『そう』
「これ、あなたが?」
『違う』
「じゃあ誰?」
一瞬の間、
『最初の守り人』
最初……エレノアより前の
『私は、これを読めなかった』
「え?」
『心が』
声が悲しげに揺れる。胸が痛む。
『壊れていたから』
『でも、あなたなら』
「……」
『受け取れる』
「エレノア」
『ミキ』
声が優しい。
『私の続きを生きないで』
涙が一粒、頬を伝った。
『あなたの人生を生きて』
「……うん」
声が震える。
「分かった」
『そして』
一瞬……少し笑ったような声がした。
『あの騎士を、あまり待たせないで』
「……え?」
待って……今、何て?
「エレノア!?」
返事はない。
「ちょっと!」
何それ?こんな時に……
セドリックが、私を見ていた。ものすごく微妙な顔をしている。
「……何だ」
「何でもありません!」
思わず顔が熱くなる。
今、レオンハルトのことを言ったよね?
『あの騎士を待たせるな』
もう何なの…エレノア。ちょっと好きかもしれない。
*
「座標が出た!」
エドワードの声が、礼拝堂に響いた。
床の魔法陣で、白と蒼の光が混ざり合う。黒い紋様が押し退けられ、中央に巨大な光の裂け目が開いた。
裂け目の向こうには、地下室らしき石壁が見える。
けれど、視界は黒い霧に遮られていた。
「行けるか?」
レオンハルトが尋ねる。
「ああ。ただし、転移先に何があるか分からん」
「構わない」
「三人で行く」
レイブンが剣を抜く。
「私もです」
「兄上」
「今さら置いていく気か?」
レオンハルトは一瞬だけ兄を見つめた。
それから、短く息を吐く。
無理だ。この兄は、絶対に来る。
「では」
エドワードが魔法陣へ手を置く。
銀色の魔力が渦を巻き、裂け目の縁を固定していく。
「行くぞ」
レオンハルトは胸元のお守りを握った。
白い光の向こうに、ミキの気配がある。
……ミキ
もう少し……待っていてくれ
*
「さて」
セドリックが、ゆっくりと私へ向き直った。
白い光に照らされた彼の顔からは、先ほどまでの余裕が薄れている。
「そろそろ話を戻そう」
「何の?」
「君の魂を」
「渡しません」
即答した。セドリックの眉が、わずかに動く。
「最後まで聞け」
「聞いても渡さないので同じです」
「……」
「エレノアと違って、本当に扱いづらいな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない」
「知ってます」
少しだけ、楽しくなってきた。いや、楽しい状況ではないのだけれど…でも、怖いからといって、相手の言うことを全部聞く必要はない。
「君は、自分の魂が完全になった理由を知りたくないのか?」
「……」
そこは知りたい。
「日本で生きたから?」
「それもある」
「他には?」
セドリックが、赤紫色の瞳を細める。
「君の魂には、もう一つ必要なものがあった」
「何?」
「縁」
「……縁?」
「この世界へ戻るための」
胸が鳴る。
「魂を引くほど強い縁」
「誰かが君を呼んだ」
「……誰が?」
「分からないのか?」
嫌な予感がした。でも同時に、胸の奥が温かくなる。
「七百年前」
セドリックが言った。
「アルノルトは死ぬ直前、願った」
地下室の空気が、わずかに震える。
『次があるなら』
『今度こそ、彼女を守れるように』
「……」
……息が止まる。
「そして」
赤紫色の瞳が、私を見据える。
「エレノアも願った」
『次があるなら』
『今度こそ、あの人と幸せに』
心臓が、うるさい。
「魂に刻まれた願いは」
セドリックが笑う。
「時を越える」
「待って」
……嫌。……聞きたい。でも、怖い。
「あなたが言いたいのって」
喉が震える。
「まさか」
レオンハルト
アルノルト
違う。同じじゃない。
「レオンハルトが」
セドリックの口元が上がる。
「アルノルトの――」
その瞬間、
――ドォンッ!
地下室全体が、大きく揺れた。
石壁に亀裂が走り、天井から細かな砂埃が降り注ぐ。
セドリックが振り返る。壁の中央に、白い亀裂が走っていた。亀裂は瞬く間に広がり、黒い霧を押し退けながら眩い光を噴き出す。
「何だ?」
胸元の守護紋が、強烈な光を放った。
白い光の中に、深い蒼色の魔力が絡みつく。
「……来た」
思わず笑った。
「誰が?」
聞かなくても分かる。光の向こうから、声が響いた。
「ミキ!!」
胸が一気に熱くなる。
「レオンハルト!」
光が弾けた。轟音とともに壁が崩れ、石片が宙へ舞い上がる。白い魔力が爆風のように地下室へ流れ込み、黒い霧を一瞬で押し広げた。
その光の中心から、一人の男が踏み込んでくる。
銀色の髪が魔力の風に煽られ、深い蒼色の瞳が、真っ先に私を捉えた。
右手には剣……刃には蒼白い光がまとわりつき、足元へ落ちた石片を触れることなく弾き飛ばしている。
見た瞬間、涙が出そうになった。
「……遅い」
言ってしまった。
レオンハルトの瞳が、私の全身を素早く走査する。
怪我はないか?
立っていられるか?
拘束されていないか?
その視線が、ほんの一瞬で全部を確認した。
そして次の瞬間、顔が怒りに変わる。
「それは、こっちの台詞だ!」
「え!?」
怒られた。でも、レオンハルトはもう走り出していた。石床を蹴るたび、蒼い魔力が足元で弾ける。私も駆け出す。距離が一気に縮まる。伸ばされた腕が、私の背中へ回った。
「……っ」
強く抱きしめられる。
身体が浮きそうなほどの力だった。
「レオンハルト、苦しい!」
「少し我慢して」
「前にも聞いた、それ!」
それでも、離してほしくなかった。私も彼の背中へ腕を回す。鎧越しに伝わる鼓動が、速い。彼も怖かったのだ。
「……怖かった」
小さく言う。レオンハルトの腕が、さらに強くなる。
「分かってる」
「でも」
私は彼の胸へ顔を押しつけた。
「来るって思ってた」
彼の呼吸が止まる。
「信じてたから」
レオンハルトの指が、私の背中でわずかに震えた。
そして、耳元へ低い声が落ちる。
「……それ以上」
「何?」
「今は言わないでくれ」
「何で?」
身体を少し離す。顔が近い。深い蒼色の瞳が、私だけを見ている。
「今すぐ」
彼の視線が、私の唇へ落ちた。
「約束を全部破りそうだから」
「……」
それって……
正式に言うまで、キスしないとか…そういう…
「……破っても」
言いかけた瞬間、レオンハルトの瞳がさらに近づいた。
「ミキ」
声が低い。
「今、それを言ったら本当に止まれない」
顔が熱くなる。
「……じゃあ言わない」
即答すると、レオンハルトが小さく笑った。けれど次の瞬間、彼の額が私の額へ触れる。ほんの一瞬、それだけなのに、胸の奥が大きく跳ねた。
「帰ったら」
「……うん」
「ちゃんと話す」
「うん」
「絶対に」
「……待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの顔から、笑みが消えた。彼は私を背中へ庇うように押し、剣を構える。刃先がセドリックへ向いた。蒼い魔力が剣身を走り、床に細い光の亀裂を刻む。
「さて」
低い声。先ほどまでの柔らかさは、どこにもない。
「よくも」
レオンハルトの視線が、セドリックを射抜く。
「俺の大切な人を連れ去ってくれたな」
「……!」
私の背中で、心臓が跳ねた。
………大切な人………って言った。
今、はっきり…
セドリックより、そちらに反応してしまう。
(今そこじゃない!)
でも、心臓はどうしようもなく騒いでいる。
セドリックは、レオンハルトを興味深そうに見つめていた。赤紫色の瞳が、銀色の髪から剣、そして胸元のお守りへと移る。
「……やはり」
「何だ」
「よく似ている」
「誰に」
セドリックが笑う。その笑みの奥で、黒い魔力がゆっくりと渦を巻き始めた。
「アルノルトに」
レオンハルトの瞳が細くなる。剣を握る手に力がこもり、刃の周囲で蒼い火花が弾けた。
「だから何だ」
「気にならないのか?」
「ならない」
即答。セドリックの笑みが、わずかに歪む。
「……何?」
「誰の生まれ変わりであろうと、何を受け継いでいようと」
レオンハルトが剣先をさらに上げる。切っ先から放たれた魔力が、セドリックの足元へ細い線を走らせた。
「俺は俺だ」
胸が、きゅっとなる。
「そして」
レオンハルトが、ほんの少しだけこちらを振り返った。その視線が、私の目を捉える。
「ミキはミキだ」
「……」
……同じ。私が、さっき言ったことと、私たちは離れていても、同じ答えにたどり着いた。
「過去の人間が何を願ったかは知らない」
レオンハルトの声は静かだった。
けれど、その一言一言が、地下室の空気を押し返すような力を持っていた。
「俺が彼女を守りたいのは」
胸元のお守りが、白く輝く。
「俺自身が、そう望んでいるからだ」
もう無理………胸が痛い。キュンどころではない。
セドリックの顔から、笑みが完全に消えた。
「……なるほど」
その背後で、白い光の裂け目が大きく開く。
光の中から、エドワードとレイブンが姿を現した。
レイブンは着地と同時に剣を抜き、レオンハルトの隣へ並ぶ。
「弟だけ先に行かせるなと言っただろう」
「兄上、遅いです」
「お前が速すぎる」
エドワードも魔法陣の縁を踏み越え、片手を掲げた。
銀色の魔力が指先で凝縮し、地下室の天井近くに幾重もの防御結界を展開する。そして、反対の手の中で青白い雷が唸りを上げている。
「ミキ」
「はい!」
「こちらへ来い」
「でも」
「今度は」
ローグ様が、雷光の向こうで少し笑った。
「任せろ」
一瞬、迷う。でも、頷いた。
「……お願いします」
守るだけじゃない。
頼る
信じる
私はレオンハルトの背中を見る。
一歩、下がるけれど、守護紋は消さない。
「レオンハルト」
「何?」
「私もいるから」
彼は振り返らなかった。それでも、口元がわずかに上がる。
「ああ」
剣を構え直す。蒼い魔力が刃の根元から切っ先へ集まり、鋭い光の筋となって走った。
「知ってる」
セドリックが、ゆっくり両手を広げた。その動きに呼応するように、地下室の四隅から黒い霧が噴き上がる。霧は天井へ伸び、巨大な翼のように広がった。石床の古い紋様が次々と赤紫色に染まり、黒い魔力が渦を巻きながらセドリックの背後へ集まっていく。
「ならば」
赤紫色の瞳が、鋭い光を放った。
「見せてもらおう」
黒い霧が、低い唸り声を上げる。
「七百年を超えた魂と」
セドリックの指先から、無数の黒い刃が生まれた。
「その魂に選ばれた騎士が」
床が大きく揺れる。天井から石片が落ち、エドワードの結界に触れて弾け飛んだ。
「本当に」
セドリックが笑う。
「運命を変えられるのか」
レオンハルトの胸元で、私のお守りが強く光った。
私の手のひらでも、同じ守護紋が輝く。白い光と蒼い光が絡み合い、二人の間に一本の光の線を結んだ。
黒い霧が、その光へ向かって一斉に押し寄せる。
でも、今度は怖くなかった。
「変えるんじゃない」
思わず言った。全員の視線が、こちらへ集まる。
私はレオンハルトを見る。
深い蒼色の瞳と、まっすぐに重なる。
「私たちは」
守護紋の光が、さらに強くなる。
「最初から」
レオンハルトの口元が、ゆっくり上がった。
「私たちの人生を生きるだけ」
「ああ」
レオンハルトが剣を振り上げる。白い光が刃を包み、蒼い魔力がその周囲で轟音を立てた。セドリックの黒い魔力が、巨大な波となって押し寄せる。
「その通りだ」
次の瞬間、
白と黒が、地下室の中央で激しく衝突した。




