23 信じると決めた人
『裏切ったのは、ヴァイス家の者だ』
白い鳥が残した言葉が、頭から離れなかった。
あのあと鳥は窓の外へ飛び去り、私はしばらくベッドの上で動けずにいた。眠ろうとして目を閉じても、浮かんでくるのは今日知ったばかりの名前ばかりだった。
エレノア
アルノルト・ヴァイス
そして、七百年前のヴァイス家。
「……どういうことなの」
アルノルトはエレノアを守ろうとしていた。
『彼女をノクスへ渡すことはできぬ』
そう書き残していた。白い鳥も、エレノアとアルノルトが愛し合っていたと言った。それなのに、アルノルトを裏切ったのが同じヴァイス家の人間だという。
家族?
兄弟?
親?
それとも、もっと遠い親族?
分からない。ただ、一つだけ嫌だったのは、その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのがレオンハルトだったこと。
「……違う」
誰も、今のレオンハルトが何かしたなんて言っていない。七百年前の話だ。それなのに、ヴァイスという同じ名前だけで、ほんの一瞬でもあの人と重ねてしまった自分が嫌だった。
私は布団から出ると窓辺へ向かい、まだ暗い空を見上げた。
「私は……信じるって決めたんだから」
レオンハルトが言ってくれた。自分はアルノルトではない。私もエレノアではない。同じ結末にはならない、と……だったら私も、過去が何であったとしても、今の彼を見なければならない。
そう思った途端、少しだけ胸が軽くなった。
けれど、もう一度ベッドへ戻っても、結局なかなか眠ることはできなかった。
*
翌朝、寝不足でぼんやりしながら朝食を食べていると、エミリアさんが何度もこちらを見ていた。
「……何?」
「いいえ」
「絶対何かあるでしょう」
「少しお疲れのように見えましたので」
「ちょっと寝不足なだけ」
「何かございましたか?」
私は少し迷った。昨日、白い鳥から聞いたこと、まだローグ様たちにも話していない。
「……昨日、また白い鳥が来たの」
エミリアさんの表情が変わった。
「何かお話を?」
「うん。でも、その前にローグ様たちにも話した方がいいと思う」
「すぐにお呼びいたしましょうか?」
「お願いします」
言ってから、自分で少し笑う。
「私、ちゃんと報告できてるでしょう?」
「はい。それはもう、大変なご成長で」
「だから、その言い方!」
エミリアさんが笑う。その時、扉がノックされた。
「ミキ」
聞き慣れた声。胸が、ふっと温かくなる。
「どうぞ」
扉が開く。レオンハルトだった。
いつもの騎士服、銀色の髪、深い蒼色の瞳…
姿を見た瞬間、
(ああ……)
安心した。昨日どんな話を聞いたって、私が知っているのは、この人だ。
「おはよう、レオンハルト」
自然に名前を呼ぶと、レオンハルトが少し目を見開いた。
「……おはよう、ミキ」
二人の時ではない。エミリアさんもいる。
それなのに、普通に名前で呼び合った。
気づいた瞬間……
「あ」
「……」
二人とも止まる。
エミリアさんを見る。ものすごくいい笑顔…
「エミリアさん」
「はい?」
「何も言わないで」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔で言ってる!」
レオンハルトが小さく咳払いをした。
耳が少し赤い。私も多分同じだ。でも、昨日までなら慌てて言い直していたかもしれない。
今日は、まあいいか……そう思った。
「ところで」
レオンハルトが私の顔を見る。
「眠れなかった?」
「……分かる?」
「少し」
「そんなに顔ひどい?」
「そうではなくて」
少し言葉を探してから……
「いつもより元気がない」
よく見てる。本当に…
「昨日、白い鳥が来たの」
その一言で、レオンハルトの表情が変わった。
「何を言われた?」
「今からローグ様たちにも話そうと思ってた」
「危険なこと?」
「……まだ分からない」
「ミキ」
「大丈夫とは言わないから…ただ、レオンハルトにも一緒に聞いてほしい」
「もちろん」
迷いのない返事だった。それだけで少しほっとした。
*
しばらくして、私の部屋にエドワード、ベルン、レオンハルト、それから昨日王城へ来たばかりのレイブン様まで集まった。
「……兄上も?」
レオンハルトが少し嫌そうに言う。
「私も当事者だろう?」
「まだ何も聞いていませんが」
「ヴァイス家に関係があるとエドワード殿から聞いた」
レオンハルトがエドワードを見る。
「ローグ殿」
「必要だと思った」
「……」
「何だ。その顔は」
「いえ」
その横でレイブン様が楽しそうに笑っている。
「相変わらずだな」
「兄上は黙っていてください」
昨日から思っていたけれど、この兄弟…仲が悪いわけではない。むしろ、多分かなり仲がいい。
だからこそ遠慮がないのだろう。
「ミキ?」
エドワードに呼ばれ、私は姿勢を正した。
「はい」
「昨夜、何を聞いた?」
私は白い鳥との会話を説明した。
エレノアとアルノルトは愛し合っていたこと
アルノルトはエレノアを守ろうとして命を落としたこと
そして……
「白い鳥が言ったんです」
一度、レオンハルトを見る。
深い蒼色の瞳は静かに私を見返している。
「アルノルトを裏切ったのは、ノクス家でも王家でもないって」
「では誰だ?」
エドワードの問いにゆっくり答える。
「ヴァイス家の人だって」
部屋が静まり返った。
レオンハルトの表情は変わらなかった。でも、隣にいたレイブン様の目が少し細くなる。
「ヴァイス家の……」
「はい」
「具体的な名は?」
「そこまでは教えてくれませんでした」
レイブン様が腕を組む。
「なるほど」
思ったより冷静だった。
「兄上」
レオンハルトが見る。
「何か心当たりが?」
「ない」
即答。
「だが、アルノルトの記録を見つけた資料庫には、まだ確認していないものが大量にある」
「昨日持ってきた日誌も?」
「ああ。ページが抜かれていると言っただろう」
レイブン様の表情が険しくなる。
「問題は、誰が抜いたかだ」
「七百年前?」
私が聞く。
「それすら分からない」
「最近って可能性もある?」
「ある」
その言葉にぞくっとした。
もし、最近…誰かが記録を消しているなら、敵は過去の話ではない。今もヴァイス家の近くに?
「ミキ」
レオンハルトの声。
「顔色が変わった」
「……ちょっと考えただけ」
「何を?」
「もし最近誰かが抜いたならって」
「それは私も考えている」
レイブン様が答えた。
「だからこそ、旧領へ戻って調べる必要がある」
「兄上」
レオンハルトがすぐに反応する。
「一人で行くつもりですか?」
「そのつもりだったが」
「駄目です」
早い。レイブン様が少し呆れた顔をする。
「お前は私の兄か?」
「関係ありません」
「私はお前より十年近く長く生きているのだが」
「危険に年齢は関係ないでしょう」
「……」
レイブン様が私を見る。
「ミキ様」
「はい?」
「弟はいつから、これほど心配性に?」
「多分、元からです」
「ミキ」
「だって!」
思わず笑う。少しだけ空気が和らいだ。
*
「旧領へ誰を向かわせるかは後で決める」
エドワードが話を戻した。
「今は、分かっている情報を整理する」
テーブルの上に紙が広げられた。
エレノア
アルノルト
ノクス家
箱
そして…ヴァイス家
「アルノルトはヴァイス家の騎士で、エレノアの守護を任されていた」
「はい」
「二人は、おそらく恋仲だった」
私が小さく頷く。
「そしてアルノルトは、ノクスへエレノアを渡すことを拒否した」
「そのために殺された?」
「可能性が高い」
エドワードが続ける。
「だが、殺害に手を貸したのはヴァイス家の者だった」
胸が少し痛む。レオンハルトとレイブン様は、どんな気持ちなんだろう。
家族の過去……しかも、守るべき人を裏切った。
「……すみません」
口から出た。二人がこちらを見る。
「何がです?」
レイブン様が聞く。
「こんな話……嫌だろうなって」
「ミキ」
レオンハルトが低く呼ぶ。
「あなたが謝ることじゃない」
「でも」
「過去に何があったかを知らなければ、今の危険も避けられない」
レイブン様も頷いた。
「私も同じ考えです」
二人の顔を見る。
「ヴァイス家に裏切り者がいたとしても、それを隠す方が問題でしょう」
レイブン様の声は穏やかだった。
でも、瞳は真剣…
「家名を守るために真実を隠すつもりはありません」
「兄上」
「お前もそうだろう?」
「ああ」
二人、似ている。やっぱり……
「……格好いいね」
思わず呟いた。
「え?」
レイブン様が笑う。
「ありがとうございます」
「あ、いや」
兄弟二人ともって意味だったんだけど……
「ミキ」
横から低い声……
「……何?」
レオンハルトが私を見る。
「兄上が?」
「え?」
「格好いいと?」
「……」
また?
「いや、二人ともって――」
「私は嬉しいですよ」
レイブン様が、余計なことを言う。
「兄上」
「何だ?」
「黙ってください」
「褒めていただいたのに?」
「今だけは黙ってください」
昨日に引き続き、明らかに面白くなさそう。
私は、笑いを堪えながらレオンハルトの袖をほんの少し引っ張った。
「何?」
「あとで」
小さく言う。
「何が?」
「あとで言うから」
「……」
何をとは、言わない。
でも、レオンハルトの表情がほんの少しだけ和らいだ。レイブン様が全部見ている。
そして、にやっとした。
(この人、本当に油断ならない)
*
話し合いの結果、ヴァイス家の旧領を調べることになった。ただし、すぐに全員で向かうわけではない。
まずレイブン様が持ち帰った資料を王城で確認し、その内容次第で調査隊を編成する。
「私も見たい」
言った瞬間……三人から視線が集まった。
エドワード、ベルン、レオンハルト。
「……何ですか」
「古文書だぞ」
「分かってます」
「反応するかもしれない」
「だから一人で見ないでしょう?」
「体調は?」
……ベルン。
「今は何ともありません」
「昨夜ほとんど寝ていないのでは?」
「……」
なぜ?バレる。
「ミキさん」
「はい」
「今日は休んでください」
「でも」
「明日」
「……」
「資料は逃げません」
「……はい」
素直に頷いた。すると、レイブン様が少し驚いたようにこちらを見る。
「ミキ様は、もっと強引な方だと聞いていましたが」
「誰からです?」
全員……何となく、目を逸らした。
「ちょっと!」
エドワードが咳払いする。
「とにかく今日は休め」
「分かりました!」
もう!どこまで共有されてるの?
*
昼過ぎ、皆が一度部屋を出ていったあと、私はソファで毛糸を触っていた。編み物をすると落ち着く。
今日は新しく小さなものを作り始めている。
何になるかはまだ決めていない。ただ、手を動かしていたかった。しばらくすると、扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、レオンハルト……一人。
「休んでる?」
「編み物は休憩に入る?」
「……まあ、いい」
真面目。思わず笑う。
「ふふっ」
「何?」
「心配性」
「昨日認めた」
そうだった。レオンハルトが向かいに座る。
でも、少しいつもと違う。
「……気にしてる?」
「何を?」
「ヴァイス家のこと」
一瞬……黙った。やっぱり…
「少しは」
「そりゃそうだよね」
「だが」
レオンハルトは自分の手を見る。
「過去のことは変えられない」
「うん」
「もし本当に、祖先がアルノルトを裏切り、その結果エレノアを死なせたのだとしても」
声が少し低くなる。
「私にできるのは、同じことをしないことだけだ」
「……」
「だから」
顔を上げる。
「真実は知りたい」
迷いのない目。この人強いな……そう思う。
でも、多分平気なわけじゃない。
「ねえ」
「何?」
「手、貸して」
「?」
素直に差し出してくれる。私は、その大きな手を両手で包んだ。
「ミキ?」
「さっきの続き」
「何の?」
「レイブン様が格好いいっていう話」
レオンハルトの眉が少し寄った。
「……蒸し返す?」
「違う」
笑う。
「二人とも格好いいと思ったの」
「……」
「でも」
指を少し絡める。
「好きなのはレオンハルトだけ」
「……」
……言った。普通に思ったより…すんなり…
「……え?」
レオンハルトが完全に止まる。
「何?」
「今」
「うん」
「何と言った?」
聞こえてたでしょう。絶対……
「好きなのは、レオンハルトだけ」
もう一度、言う。今度は、目を見て…
深い蒼色の瞳が大きく揺れた。
「昨日、ヤキモチ妬いてたでしょう?」
「……」
「だから安心させてあげようと思って」
少しだけ意地悪に笑う。でも次の瞬間…後悔した。
レオンハルトの目が変わった。
「……ミキ」
声が低い。
「何?」
「昨日も言ったが」
「うん?」
「俺を煽るのが」
繋いでいた手が引かれる。
「……え?」
身体が少し前へ……距離が一気に近くなった。
「上手くなりすぎだ」
「……」
待って!!近い。本当に近い。
「そんなつもり……」
「分かってる」
深い蒼色。目が逸らせない。
「それが一番困るとも言った」
「……はい」
心臓……うるさい。
レオンハルトの手が私の頬へ触れる。
ゆっくり逃げる時間をくれるみたいに…
「……レオンハルト」
「何?」
「正式に言うまで待つんじゃなかった?」
「……」
止まった。
「そうだった」
少し、悔しそう。思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「ミキ」
「だって」
「笑うな」
「ごめん」
全然、ごめんと思ってない。
「……でも」
私は、頬に触れている手へ自分の手を重ねた。
「待ってるよ」
笑う。
「ちゃんと」
レオンハルトの目が柔らかくなる。
「だから」
少し恥ずかしいけど…
「そんなに我慢しなくてもいいよ」
「……何を?」
しまった。聞かれた。
「いや」
「ミキ」
「……」
逃げたい。
「今のは忘れて」
「無理」
また即答。
「レオンハルト!」
彼が小さく笑った。でも、頬に触れていた手は、離れなかった。そして、ほんの少し顔が近づく…
え?待って……もしかして今、
キス――
そう思った瞬間!
――コンコン
「ミキ様?」
エミリアさん。
「……」
「……」
二人、止まる。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「……はい!」
声。裏返った。
レオンハルトがゆっくり私から離れる。
「……」
……耳、真っ赤!私も絶対、同じ……
扉が開き、エミリアさんが入ってくる。
そして……私とレオンハルト
……妙な距離。
……二人の赤い顔。
「……」
「何?」
「いえ」
エミリアさんが、にっこり笑う。
「少々、間が悪かったでしょうか?」
「違います!」
「……そうですか」
絶対、分かってる。レオンハルトは、片手で顔を覆っていた。
(もうーーー!)
心臓!!どうしてくれるのよ。
*
エミリアさんが持ってきたのは、レイブン様からの伝言だった。
「ヴァイス家から、追加の荷が届いたそうです」
「追加?」
レオンハルトが表情を戻す。
「はい。レイブン様が王都へ向かわれた後、ご当主様が別の資料を見つけられたとのことで」
「父上が?」
「こちらを」
差し出された小さな封書。表にはヴァイス家の紋章。
レオンハルトが封を確認してから開く。
中の手紙を読み進める。
表情が、だんだん険しくなる。
「どうしたの?」
「……兄上を呼ぶ」
「何が書いてある?」
一瞬……迷って、でもレオンハルトは隠さなかった。
「旧領の礼拝堂で」
私を見る。
「隠し扉が見つかったらしい」
「扉?」
「ああ」
そして次の言葉……
「扉には」
レオンハルトの声が低くなる。
「アルノルトの名と、もう一人のヴァイスの名が刻まれている」
胸が鳴る。
「誰?」
手紙へ目を落とす。
「アルノルトの兄」
一度……言葉を切る。
「クラウス・ヴァイス」
その名前を聞いた瞬間!胸の奥で何かがざわついた。
知らない。初めて聞く名前なのに。
「……クラウス」
口にした途端、頭の中へ映像が一瞬だけ流れ込んだ。
………血
………剣
……倒れる男
………銀色の髪
そして、その前に立つ、もう一人の男。
顔は見えない。
でも、手にしている剣にヴァイス家の紋章。
『許せ、アルノルト』
「……っ!」
「ミキ?」
レオンハルトがすぐに私の腕を支える。
「見えた」
「何が?」
「アルノルト……」
息を整える。
「誰かに……斬られてた」
「誰だ?」
「分からない。でも」
あの声。そして、今…聞いた名前
「多分……」
……怖い。でも、言う。
「クラウス」
部屋が静まり返る。レオンハルトの顔が険しくなる。
そして、その瞬間
窓の外に白い鳥が勢いよく飛んできた。
「……!」
窓辺へ止まる金色の瞳。
いつになく強い言葉。
『そこへ行け』
「え?」
昨日は、何も教えなかったのに……
今、はっきり…
『ヴァイスの地へ』
レオンハルトが鳥を見る。
「何と言っている?」
私は、彼を見る。
「旧領へ行けって」
「……」
『そこに』
……白い鳥が続ける。
『アルノルトが残したものがある』
「何を?」
『真実』
胸が大きく鳴った。
『そして』
白い鳥の金色の瞳が私と、レオンハルトを交互に見る。
『お前たちが』
一瞬、悲しそうに揺れた。
『同じ結末を選ばぬためのものが』
「……」
……同じ結末。
エレノアとアルノルト
私とレオンハルト
私は、隣にいる彼の手をぎゅっと握った。
「行こう」
「ミキ」
「一人では行かない」
ちゃんと先に言う。
「レオンハルトも、レイブン様も、ローグ様たちも一緒に」
一度、息を吸う。
「みんなで行こう」
レオンハルトが私を見る。
……そして握った手を強く握り返した。
「ああ」
今度は、迷いなく敬語ではなく答えた。
「一緒に行こう」




