21 あなたとなら、怖くない
『箱の中に、まだエレノアの一部が残っている』
白い鳥の言葉が、しばらく頭から離れなかった。
会議が終わって部屋へ戻ってからも、私は窓辺のソファに座り、ぼんやりと庭を眺めていた。
エレノアは何百年も前に死んだ。
それなのに、魂の一部だけがあの箱に縛られ、今もそこに残っているという。
だから私に声を届けられたのだろうか。名前を呼び、記憶を見せ、箱を開けるなと警告してくれた。
「……ずっと、一人だったのかな」
考えると胸が苦しくなった。
七百年………
想像もできないほど長い時間だ。
愛した人を奪われ、自分も騙されて命を落とし、そのうえ魂まで自由になれなかった。
もし、あの箱の中に今もエレノアの意識があるのなら……
「助けてあげたいな……」
自然と、そんな言葉が出た。その瞬間、
「ミキ様」
後ろからマルガレーテさんの声がした。
振り返ると、彼女はいつものように穏やかな表情で立っている。
「今、何かおっしゃいましたか?」
「あ……」
言おうか迷って、やめた……いや…やめようとした。
「何でも――」
そこまで言って、自分で苦笑する。
「……もう、この癖やめないとね」
マルガレーテさんが少し目を細めた。
「エレノアを助けられないかなって思ってました」
「先代の守り人様を?」
「はい」
私は膝の上で手を組んだ。
「だって、あの箱に魂の一部が残ってるんでしょう? それって、ずっと閉じ込められてるってことですよね」
「そうかもしれません」
「だったら……」
………助けたい。
その気持ちは本物だった。
でも、その言葉を続ける前に、私は一度息を吐いた。
「……だからって、勝手に何かしようとは思ってませんよ」
マルガレーテさんが、少し驚いたような顔をする。
「今、先に言っておかないと、絶対みんな止めるでしょう?」
「よくお分かりで」
「最近、自分でも分かってきました」
……笑う。それから、もう一度窓の外へ目を向けた。
「助けたいけど、私一人じゃ無理だと思うんです。エレノアも言ってたから……一人で守ろうとしないでって」
あの言葉は、きっと私のためだけではない。
エレノア自身が、誰よりも後悔しているからこそ伝えてくれた言葉なのだ。
「だから今度は、ちゃんとみんなに頼ります」
「……ミキ様」
「それで、それでも助けられる方法があるなら」
私はゆっくり振り返った。
「助けたいです」
マルガレーテさんはしばらく何も言わなかったけれど、やがて、とても優しく微笑んだ。
「そのお気持ちは、ローグ様にもお伝えになってはいかがでしょう」
「怒られない?」
「お一人で地下書庫へ行くとおっしゃれば、確実に」
「行きませんって!」
思わず笑う。
「では、大丈夫でしょう」
……多分、
……ちょっとだけ自信はないけれど。
*
午後になると、エドワードとベルン、それからレオンハルトが私の部屋へやって来た。
三人揃っている。
最近、この組み合わせを見るだけで「何か重大な話だな」と分かるようになってしまった。
「それで?」
エドワードがソファへ座りながら私を見る。
「私たちに話があるそうだな」
「はい」
向かいにはベルン。少し離れたところにはレオンハルトが立っている。
……立っている。
「レオンハルト」
「何?」
「座らないの?」
「護衛なので」
「ここ私の部屋だし、ローグ様もグレンジャー様もいるよ?」
「そうですが」
「腕、まだ怪我してるでしょう?」
「もう問題ない」
普通に返された。
(二人の時の話し方だ)
エドワードとベルンの視線が一斉にこちらへ向いた。
しまった……
レオンハルトも気づいたらしい。
……一瞬、部屋が静かになる。
「……何だ」
エドワードが口元を少し上げた。
「ずいぶん距離が縮まったな」
「ローグ様!」
「私は何も言っていないが?」
「顔が言ってる!」
ベルンまで笑いを堪えている。
「グレンジャー様も笑ってるでしょう」
「微笑ましいと思っただけですよ」
「同じです!」
もう、真面目な話をするつもりだったのに…
ちらっとレオンハルトを見ると、彼は涼しい顔をしている。
でも、耳だけ…赤い。
(ふふっ)
ちょっと安心した。私だけじゃない。
「それで」
エドワードが話を戻す。
「エレノアのことか?」
「はい」
私は姿勢を正した。
「助けられないかなって思って」
案の定、レオンハルトの眉が動いた。
「最後まで聞いて」
先に言う。
「……分かった」
本当に分かりやすい。
「箱を開けたいって意味じゃないです。私一人で何かするつもりもありません」
「ならいい」
「即答だね」
「当然だ」
また、自然に返ってくる。
……やっぱり、少し嬉しい。
「エレノアは、私をずっと助けてくれてるでしょう? 箱を開けるなって教えてくれたのもそうだし、一人で守ろうとするなって言ってくれたのもそうです」
そして……私の名前を知っていた。
「もし魂の一部が本当に箱に残っているなら、どうにかして解放できないのかなって」
エドワードはすぐには答えなかった。
「不可能とは言わない」
「本当?」
「ただし、現段階では方法が分からん」
「……そっか」
「むしろ、下手に触れればお前の方が引き込まれる可能性がある」
「引き込まれる?」
「白い鳥の話を忘れたのか。箱は守り人の魂を奪うためのものだ」
「あ……」
そうだった。
「それに」
ベルンが静かに続けた。
「ミキさんとエレノアの魂に何らかのつながりがあるなら、箱がミキさんへどのような影響を及ぼすか予測できません」
「私自身が扉になる……」
……小さく呟いた。
三人が私を見る。
「何だ、それは」
エドワードの声が低くなった。
「え?」
「誰から聞いた?」
「……誰から?」
言ってから思い返す。
私……誰かから聞いた?
……違う。頭に浮かんだ…
「……あれ?」
自分の腕に鳥肌が立った。
「私……何で知ってるんだろう」
『守り人自身が、扉になる』
確かに知っている。
でも、誰にも言われていない。
少なくとも……私には…
「ミキ」
レオンハルトがすぐ近くへ来た。
「顔色が悪い」
「大丈夫……じゃないかも」
ちゃんと言えた。
「何か、変」
胸元へ手を当てる。
何かがそこに触れているような……
「ミキさん」
ベルンも立ち上がった。
「何が分かります?」
「分からない。でも……」
目を閉じる。
黒い霧
赤い瞳
箱
……そして、知らない男
赤紫色の瞳
「……誰かいる」
「どこに?」
「近い……?」
いや!違う。場所じゃない。
「私の中……?」
その瞬間、レオンハルトが私の肩を掴んだ。
「ミキ」
………強い声
「俺を見て」
目を開ける。……深い蒼色
「ここにいる」
「……うん」
「今、見えているのは?」
「レオンハルト」
「他には?」
「ローグ様とグレンジャー様」
「ここは?」
「私の部屋」
「そうだ」
低く、ゆっくりした声……
「なら、ここにいろ」
胸の中………何かに引っ張られているような感覚が、少しずつ弱くなる。
「……戻ってきた」
「何が?」
「分からないけど……遠くなった」
息を吐く。
すると、エドワードの表情が今までになく険しくなっていた。
「箱じゃない」
「え?」
「奴らは、箱を通さずミキへ接触し始めている」
部屋が静まり返った。
「そんな……」
「エレノアの名を取り戻したことで、何かがつながった可能性がある」
私自身が………扉…
「じゃあ、私がいるだけで……」
「ミキ」
レオンハルトの声が少し強くなる。
「そこから先は考えなくていい」
「でも」
「お前の存在が悪いわけじゃない」
「……」
敬語が、完全になくなっている。それだけ焦ってる。
「違うんです」
私は首を横に振った。
「私のせいって思ったわけじゃない。ただ」
………怖い。自分の中に知らない何かが入り込んでくることが…
「……怖いだけ」
そう言うと、レオンハルトの表情が少し柔らかくなった。
「なら、そう言えばいい」
「うん」
「怖い時は、怖いと言ってくれ」
「……うん」
「俺がいる」
「……」
ずるい。こんな時に…
「それだけではないぞ」
エドワードが横から口を挟む。
「私もいる」
「私もですよ」
ベルンも笑う。
「あ……」
そうだった。レオンハルトだけじゃない。
「うん」
私は少し笑った。
「みんな、いるね」
「そういうことだ」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
*
それからしばらく、
エドワードは私が口にした「扉」という言葉について調べるため、地下書庫へ戻ることになった。
ただし、箱には絶対に近づかない。国王陛下の許可のもと、まず周辺の古文書だけを調べる。
ベルンも一緒に行くことになった。
「ミキさんは休む」
「はい」
「本当に?」
「今日はもう反論しません」
「素晴らしい」
「褒め方がやっぱり子供なんですよ」
ベルンは笑いながら部屋を出ていった。
エドワードも扉へ向かい、一度だけ振り返る。
「ミキ」
「はい?」
「何か頭に浮かんだら、どんなに些細なことでも言え」
「分かりました」
「一人で意味を考えるな」
「はい」
「勝手に地下書庫へ――」
「行きません!」
「ならいい」
どうして、全員そこだけは信用してくれないんだろう。二人が出ていき部屋には、私とレオンハルト。
それから、少し離れた場所で空気のような顔をしているエミリアさん。
絶対空気になってないけど……
「……レオンハルト」
「何?」
「今日、ずっといてくれる?」
聞いてからちょっと恥ずかしくなる。
「護衛だからとかじゃなくて」
言い足すと、深い蒼色の瞳が少し揺れた。
「……いてほしい?」
「うん」
今度は、迷わなかった。
「何か、また変な声が聞こえるかもしれないし」
言い訳みたいに続けてからやめる。
「……違うな」
「何が?」
「怖いから」
ちゃんと言う。
「レオンハルトに、そばにいてほしい」
レオンハルトは、しばらく何も言わなかった。
(え、重かった?)
急に不安になる。
「……嫌なら」
「ミキ」
「はい」
「今」
声が少し低い……
「抱きしめてもいい?」
「……」
また…聞くんだ。でも今度は
「だから、もう聞かなくていいって言ったでしょう?」
次の瞬間!!
身体が腕の中へ引き寄せられた。
「……!」
前より少し強い。でも怖くない。
むしろ、すごく安心する。胸元に頬を寄せると、心臓の音が聞こえる。
……速い。
「……レオンハルト」
「うん」
また普通の返事。胸がくすぐったい。
「心臓、速いよ」
「……言わないでくれ」
思わず笑う。
「私もだから……」
「……」
「多分、同じくらい」
抱きしめる腕に少し力が入った。
「ミキ」
「うん」
「怖い時だけじゃなくても」
「え?」
「そばにいてほしいと言ってくれていい」
胸が跳ねる。顔を上げようとしたけれど、恥ずかしくてやめた。
「それって……」
「うん」
「ずっと?」
……聞いてしまった。
レオンハルトの身体がほんの少し固まる。
私も言ってから心臓が暴れ始めた。
(何聞いてるのーー!)
でも逃げない。ゆっくり顔を上げる。
……目が合う。深い蒼色……
「……ずっといてほしいって言ったら?」
声が自分でも驚くくらい………小さい。
レオンハルトは、しばらく私を見つめていた。
そして、
「その答えは」
低い声。
「正式に伝える時まで、取っておかせてくれ」
「……」
うわ……ずるい。
「また、それ」
「約束だから」
「自分で決めた約束でしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ破ってもいいんじゃない?」
ちょっと意地悪。
レオンハルトの瞳が、すっと細くなる。
「ミキ」
「はい」
「本当に、それ以上言わない方がいい」
「……何で?」
聞いた瞬間、腰に回っていた腕が少し強くなる。
距離が近くなる。ものすごく……
「……俺にも限界がある」
「……」
一気に顔が熱くなった。
「な、何の限界?」
「それを聞く?」
………低い声、近い。深い蒼色の瞳が、私だけを見ている。
「……聞きません」
即答、レオンハルトが小さく息を吐いた。
それから、額を私の額へそっと重ねた。
「……!」
キスじゃない。……でも、近い。吐息が触れそう。
「今は…これで我慢する」
「……」
……我慢って?
何を?聞けないよ……絶対。
「ミキ」
「……うん」
「もう少しだけ待っていて」
「……うん」
「必ず、ちゃんと言うから」
胸の奥がきゅっとなる。
「……待ってる」
答えると、レオンハルトがほんの少し笑った。
額は……まだ触れたまま…
こんなのキュンどころじゃない。
(心臓、本当に大丈夫かな、私……)
*
その頃、王家の地下書庫では、エドワードとベルンが箱から十分に距離を取りながら周囲の古文書を調べていた。
「扉……」
エドワードが何冊目かの書物を閉じる。
「見つかりませんね」
「言葉そのものが違うのかもしれない」
ベルンが別の古文書をめくる。
「魂の器、門、道、境界……」
その時、エドワードの手が止まった。
「ベルン」
「何です?」
「これ」
古い羊皮紙。文字は、かなり消えている。だが一部だけ読める。
『守り人は、世界を渡りし魂なり』
「……世界を」
『その魂、二つの生を巡り――』
そこから消えている。ベルンの表情が変わる。
「二つの生?」
「ミキは」
エドワードが低く呟く。
「一度、日本で生きた」
「はい」
「そして、この世界へ来た」
「……」
『最初の生は、魂を育み』
『次なる生にて――』
欠損、その先…ほんの僅かに
『本来の――』
二人は顔を見合わせた。
「本来……」
女神の言葉
本来、この世界に生まれるはずだった魂…
「まさか」
エドワードが羊皮紙を近づける。
一番下……ほとんど黒ずんで読めないが、魔灯を傾けると一行だけ浮かび上がった。
『守り人の魂は、同じ時代に二つ存在することなし』
「……何だ、これは」
ベルンが眉を寄せる。
「なら、エレノアとミキ様は」
同じ魂?
生まれ変わり?
いや、それならなぜ?
エレノアはミキの名前を知っていた?
その時………箱の方から
――コン 小さな音。
二人が同時に振り向く……動くはずのない箱。
――コン。
内側から誰かが、叩いている。
「……エドワード」
「分かっている」
近づかない。……約束だ。
しかし、次に聞こえたものに二人とも動きを止めた。
『……ミキ』
女の声。
「エレノア……?」
『逃げて』
「何?」
『あの子は……』
………声が途切れる。
箱の表面に黒い線が一本走った。
『もう……近くに……』
――バキッ。
箱の角に亀裂が入った。誰も触れていない、それなのに箱が内側から壊れ始めていた。
*
王城の一室……
私は、突然…胸を押さえた。
「……っ」
「ミキ?」
レオンハルトがすぐに身体を離す。
「どうした?」
「分からない……」
さっきまであんなに温かかった胸が、急に冷たい。
そして、頭の中へ声が聞こえる。
『ミキ』
「エレノア?」
『逃げて』
「どこから?」
『違う』
声が震える。
『城からではない』
「え?」
『彼から――』
声が途切れた。
「彼?」
その瞬間!!窓の外、白い鳥が激しく鳴いた。
レオンハルトが反射的に私の前へ出る。
「何だ?」
白い鳥は、窓の向こうではなく廊下の方を見ている。
身体を低く構え、金色の瞳を鋭く細める。
そして……
『来た』
「誰が?」
……答えはなかった。
代わりに部屋の外から足音が聞こえた。
………一人
ゆっくりこちらへ近づいてくる。
レオンハルトが剣へ手をかける。
エミリアさんが私のそばへ来る。
足音が扉の前で止まった。
――コンコン。
普通のノック………
「……誰だ」
レオンハルトが低く問う。
……しばらく、返事はなかった。
やがて扉の向こうから、穏やかな男の声…
「私だ」
レオンハルトの顔が変わった。
「……兄上?」
「え?」
私がレオンハルトを見る。
兄?
昨日まで何度か話していた。
レオンハルトのお兄さん。
「レイブン?なぜ……」
レオンハルトが扉を見つめる。
「兄上が王城に?」
扉の向こうから小さく笑う声。
「久しぶりだな、レオンハルト」
その声は、優しい……なのに、私の胸の奥では守護紋が焼けるように熱くなっていた。
白い鳥が翼を広げる。
左の翼の黒い筋が、今までで一番……濃く浮かび上がった。
『開けるな』
金色の瞳が扉を睨む。
『それは――、レイブンではない』
……息を飲む。扉の向こうで、男が静かに笑った。




